半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

『日本書紀』と中国古典籍③

hirodaichutetu.hatenablog.com

前回の記事☝では

 

 類書の編纂は前代の類書を底本に編纂される。

 ①を踏まえると『日本書紀』編纂における『修文殿御覧』利用説が浮上する。

 

ことなどを述べました。

 

今回は、

 

⑴ 「神代上」以外に見える『修文殿御覧』利用の痕跡

⑵ 第三の説『華林遍略』利用説

 

について考えていきたいと思います。

 

 それでは、早速⑴を、武烈紀を例に見てみたいと思います。

 

刳孕婦之腹而觀其胎。(武烈紀、秋九月)

 

 これは武烈帝が妊婦の腹を切り裂き胎児を見た、という武烈帝の暴虐ぶりを示す一節です。『芸文類聚』には該当する条文が見当たらないのですが、『太平御覧』巻八三(皇王部、帝紂)には以下のようにあります。

  

帝王世紀曰……刳孕婦之腹而觀其胎……

 

 『帝王世紀』からの引用と完全一致しています。ただ、これだけではその利用を確信できませんが、同じ武烈紀の八年(春三月)にはその利用を認めざるを得ない一致が見られるのです。

  

八年春三月……以盛禽獸。(A)而好田獵、走狗試馬。出入不時、不避大風甚雨。(B)衣温而忘百姓之寒、食美而忘天下之飢。(C)大進侏儒、倡優、爲爛漫之樂、設奇偉之戲、縱靡々之聲、日夜常與宮人沈湎于酒、(D)以錦繡衣以綾紈者衆。

 

 ここも武烈天皇の悪徳非道ぶりを描いた一節です。これを『太平御覧』巻八二、八三(皇王部、帝桀、帝紂)及び巻八十五(錦)所載の条文と比較してみましょう。

 

帝桀(巻八二)

(C)帝王世紀曰、帝桀淫虐有才力・・・大進侏儒、倡優、為爛熳之樂、設竒偉之戲、縱靡靡之聲、日夜與妺喜及宫女飲酒・・・

(B)王孫書曰・・・衣温而忘百姓之寒、食美而忘天下之飢、或身放南巢・・・

 

帝紂(巻八三)

(A)六韜曰…喜田獵、走狗試馬。出入不時、不避大風甚雨。不避寒暑喜修治池。

錦(巻八五)

(D)太公六韜曰、夏桀殷紂之時、婦人錦繡文綺之坐衣以綾紈嘗三百人。

 

 

 A~Dの文をつなぎ合わせることによって武烈紀八年(春三月)の文辞が完成することがわかります*1。こうして見ると、『日本書紀』の編者は暴君の武烈紀を述作する際に、古代中国の暴君、桀・紂をモデルとした可能性も考えられます*2。なお、『芸文類聚』には桀・紂の項目はありませんし、『芸文類聚』利用説では、B箇所の典拠を挙げ得ず、そのほかの箇所においても一致率があまり高くないのです。

 

 以上の例を踏まえると、どうやらやはり、『日本書紀』の編纂においては、『芸文類聚』のみならず、『修文殿御覧』も用いられていたように見えます。ただ、この併用説で一件落着とはいきません。それは、京都産業大学の池田昌広氏によって『華林遍略』利用説が提唱されたためでした*3

 

 さて、『華林遍略』とは『南史』巻七十二(文学、何思澄伝)によれば

  

天監十五年、敕太子詹事徐勉舉學士入華林撰遍略。……八年乃書成、合七百卷。

【天監十五年(五一六)、太子詹事徐勉に敕し学士を挙げて華林に入り遍略を撰ばしむ。……八年乃ち書成り(五二三or五二四)、合はせて七百巻。】

 

とあり、勝村哲也氏が「華林遍略七二〇巻は……国家的な事業として編纂された、當時としては最も體裁の整った権威ある百科全書である」*4と述べるように、中国における大型類書の嚆矢と考えられています。『華林遍略』は既に亡佚しているものの、唐の法琳『弁正論』に一条の佚文が発見されており、その特徴として以下の点があげられています。

 

所載文が、後代の類書に比して長文の傾向にあった可能性

『修文殿御覧』・『芸文類聚』の底本

 

 ②を踏まえれば、 『修文殿御覧』・『芸文類聚』を併用せずとも、両者の所載文を備える『華林遍略』1つのみで事足りてしいますし、①を踏まえればこれまで直接利用と思われていた古典籍(両類書未載の文辞)も、実は長文傾向の『華林遍略』であれば所載されていた可能性が浮上してくることになります。つまり、『華林遍略』利用説を取れば、ほとんどの典拠が『華林遍略』であったということになるのです。

 

 では、『日本書紀』編纂時における利用類書は『華林遍略』で決まりだ!ということで問題が解決するかと思えば、これもまた素直には頷けない点が存在するのです。

 

 今回はこのあたりで擱筆として、次回は、『華林遍略』利用説の疑問点を考えたうえで、最後にブログ筆者の拙解を少しく述べてみたいと思います。

*1:池田昌広「『日本書紀』の潤色に利用された類書」(『日本歴史』723、2008年)に詳しい。

*2:前之園亮一『古代王朝交代説批判』(吉川弘文館、1986年)に詳しい。

*3:『日本書紀』と六朝の類書」(『日本中国学会報』59、2007年)等参照。

*4:勝村哲也「修文殿御覧天部の復元」(山田慶児編『中国の科学と科学者』京都大学人文科学研究所、1978年)p.650

『日本書紀』と中国古典籍②

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前回の記事👆では

 

①『日本書紀』の文辞には「潤色」が見られること。

②その潤色の多くは類書によった可能性が高いこと。

③その依拠した類書は、唐の『芸文類聚』による可能性が高い?こと。

 

などを述べました。今回の記事のメインは「類書」の成立過程についてです

 

 ちなみに、「類書」とは今の百科事典のような書物で、【天】【地】などの項目を設け、項目に関する文章を経史子集より集めて、それを箇条書きにしてある性格の書物です。項目に関する経史子集の文章が一挙に見ることができ、非常に便利なため、日中において古くから重宝されてきました。その編纂は三国の魏に始まるとされており、唐の『芸文類聚』、北宋の『太平御覧』などが代表的な類書となります。

 

 さて、本題に入る前に、前回末尾でちらっと述べた問題に少し立ち入っておきたいと思います。日本書紀』の編纂に類書が用いられたことは、前回の通り間違いないのですが、その利用類書が次の大きな問題となります。前回ご紹介した、継体紀21年の文章と『芸文類聚』所載条文の一致率を見ると、その利用類書は『芸文類聚』であろうと確信してしまいそうですが……日本書紀』巻一(神代上)冒頭部分の典拠を考えたとき、『芸文類聚』利用説に疑義が生じてしまうのです。以下、実際に見てみましょう。

 

神代上冒頭

古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉

 

『藝文類聚』巻一(天部、天)

徐整三五曆紀曰、天地混(▲)沌如雞子盤古生其中…天地開闢陽清為天、陰濁為地盤古在(▲)其中

 この一節に対して『書紀集解』は『淮南子』『三五暦紀』などの典拠あげています。しかし、三国の徐整『三五暦紀』が直接利用されたとは考え難いのです。なぜならば、『三五暦紀』は中国においても早々に姿を消し、平安期の漢籍目録『日本国見在書目』にもその名がないためです。つまり、日本書紀』編者が『三五暦紀』を手にしていた可能性は低く、その文章は類書に依った可能性が高いのです

 

 しかし、その有力候補の『芸文類聚』では「溟涬而含牙」の一句も、『淮南子』の「天地未剖、陰陽不分」および「其淸陽者~天先成而地後定」の文辞も見いだすことができません。対して、『太平御覧』巻一(天部、元気)には「溟涬而含牙」の一句を含む『三五暦紀』および上記『淮南子』の一部の文章が所載されており、その典拠としては『太平御覧』の方がふさわしいように見えます

 

 しかし、『太平御覧』は宋代の……っと、えらく前置きが長くなってしまいましたが……以下、「類書」の成立過程における、ある重要な点をご紹介し、『太平御覧』の条文と『日本書紀』冒頭が重なることの重要性について述べたいと思います。

 

 中国史上最初の類書、三国魏の『皇覧』が編纂されて以降、梁の『華林遍略』、北斉の『修文殿御覧』、唐の『芸文類聚』と時代を追うごとに類書が編纂されていきました。これらの類書の編纂においては、一つの大きな特徴がありました。それは前代の類書を底本にしていると言うことでした。

 

 まず、『修文殿御覧』の編纂について

『太平御覧』巻六〇一(文部、著書)所載の『三国典略』に

 『三國典略』曰…取『芳(ママ)林遍略』加『十六國春秋』、六經、『拾遺錄』、『魏史』等書……後改為『修文殿御覽』。

とあって前代の『華林遍略』を底本とした上で、『十六国春秋』等を新たに加えて、成立したことがわかります。

 

 次に『芸文類聚』についても、その歐陽詢(557―641)序に

……『流别』、『文選』專取其文、『皇覧』、『偏略』直書其事……爰詔、撰其事且文。棄其浮雜、刪其冗長、金箱玉印、比類相從、號曰藝文類聚、凡一百卷……

とあって、集は『文章流別集』や『文選』、経史子は『皇覧』、『偏略』を底本に取り、それらの冗長を削り文章を整えて、成立したことが分かります。

 

 以上のように、新たに類書が編纂される場合には、前代の類書が底本となることが多いのです。そのため、その所載の条文もまた底本と一致する可能性が高いということになります。そして、『太平御覧』もその序文で、前代の『修文殿御覧』、『芸文類聚』、『文思博要』によったことを述べています。また、特に『太平御覧』は『修文殿御覧』の文章をそのまま踏襲する傾向にあったようです。実際、その佚文と『太平御覧』の一致率はとても高く、『修文殿御覧』天部には「溟涬而含牙」を含む『三五暦紀』が所載されていたことが明らかとなっています。*1

 

 ここまで、説明してくると、『太平御覧』の条文が『日本書紀』冒頭の文辞と一致することがなぜ重要かが分かってくると思います。つまり、『太平御覧』との一致=『修文殿御覧』との一致であり日本書紀』冒頭における『修文殿御覧』利用説が浮上してくるのです。そうすると、冒頭で『修文殿御覧』を用いた以上、以下に見られる潤色も『修文殿御覧』によってなされた可能性も浮上してくることとなります。*2

 

 さて、果たして、『日本書紀』編纂に用いられた類書は、『芸文類聚』と『修文殿御覧』のいずれだったのでしょうか。このことを考えるためには、『日本書紀』の他の箇所と『太平御覧』所載文とを比較する必要があります。今回はここで擱筆として、次回はそのことを検討してみたいと思います。そして、この両説の争いに終止符を打つべく現れた、第三の説についてもご紹介したいと思います

*1:これらの点については、森鹿三氏(1906ー1980)「修文殿御覧について」、勝村哲也氏(1937ー2003)「『修文殿御覧』新考」等参照。

*2:『修文殿御覧』利用説の首唱者は、勝村氏である。「修文殿御覧天部の復元」(山田慶兒編『 中国の科学と科学者』1978年)等参照。

『日本書紀』と中国古典籍

 今回からは「日本書紀』と中国古典籍」と題し、筆者が卒業論文に際して、調べていたことを少し紹介してみたいと思います。

 

 さて、『日本書紀』とは、天地開闢から持統朝に至る日本の歴史を記した、本邦最初の勅撰国史です。その編纂過程においては、おおくの漢籍由来の文句が本文に用いられ、文章が整えられていたようです。これを専門的には「潤色」と呼びます。『日本書紀』の出典研究は、夙に室町・鎌倉時代に始まり、江戸時代の尾張藩藩士河村秀根『書紀集解』に至っては、その典拠の多くが示されるようになりました。

 

 しかし、ここで問題となるのがそれらの出典をどこから引用したのかということです。河村秀根等はその典拠となる漢籍を逐一挙げて、奈良時代漢籍受容の一端を明らかにしようとしましたが、実はそれらの引用は、逐一漢籍を紐解いてなされたものではなかったようなのです

 

 そのことを始めに指摘したのが大阪市立大学名誉教授の小島憲之氏(1913-1998)でした。小島氏は『日本書紀』に見られる潤色の多くは、唐代の勅撰類書『芸文類聚』によってなされたものであると、指摘しました。次回以降に見て行きますが、この指摘は以降の『日本書紀』出典研究に多大な影響を与えています。

 

以下、その実例を見てみたいと思います。

 

廿一年…秋八月辛卯朔、詔曰、咨、大連、惟茲磐井弗率汝徂征物部麁鹿火大連再拜言、嗟、夫磐井西戎之姧猾。負川阻而不庭憑山峻而稱亂敗德反道、侮嫚自賢在昔道臣爰及室屋、助帝而罰、拯民塗炭。彼此一時。唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。詔曰、良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。重詔曰、大將民之司命。社稷存亡、於是乎在勗哉、恭行天罰天皇親操斧鉞、授大連曰長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。

 

 ここは継体天皇が大連、物部麁鹿火(ものべのあらかひ)へ磐井征伐の詔を下した一節となります。その文辞には多くの潤色が見られ、『書紀集解』は『尚書』『左伝』『文選』『六韜』『史記』など複数の典拠を挙げています。しかし、実際には『芸文類聚』巻五九(武部【戦伐、将師】)所載の条文のみでそのすべての典拠を挙げることができてしまうのです。

 

 

「戦伐」

尚書曰・・・惟恭行天、夫子勗哉……

○又曰、帝曰、咨、禹、惟茲有苗弗率。汝徂征……

侮慢(▲)自賢、反道敗德・・・。

○魏楊修出征賦曰、嗟、夫吳之小夷、負川阻而不廷(▲)……。

○晋張載平呉頌曰・・・憑山阻水……。

○晋陸士龍南征賦曰、大安二年八月、姦臣羊玄之皇甫商、敢行稱亂……。

○魏文帝於黎陽作詩曰・・・又詩曰・・・在昔、周武爰暨(▲)公旦、載主而征、救(▲)民塗炭。彼此一時。唯天所讚(▲)……。

 

「将師」

○黄石公三略曰、良將之軍也。恕己治人、推惠施恩、士力日新、戰如風發、攻如河決

○抱朴子曰、大將民之司命、社稷存亡、於是乎在

淮南子曰……主親操鉞、授將軍曰、此上至天者、將軍制之……。

漢書曰……又曰……闑以內寡人制之。闑以外將軍制之。軍功爵賞(▲)……。

  ※▲=文字の異同を示す(人名・地名等を除く)。 

 

 多少の文字異同は見られますが、『芸文類聚』が引用する範囲からのみ潤色がなされています。仮に、『日本書紀』編者が直接漢籍を紐解き、その文辞を潤色したと考えたとしても、ここまで引用範囲が一致するとは考えがたいものです。そのように考えると、継体紀21年の一節は『藝文類聚』に依拠しなければ、述作しがたいことが分かります。つまり、『日本書紀』の編者はストーリーに類似する「類書」の項目を開き、潤色を行っていた可能性が高いということです。

 

 上記以外にも、『芸文類聚』を利用したと思われる例は少なくありません。以上により『日本書紀』の編纂には唐の『芸文類聚』が利用されたのだ!となればいいのですが、話はそう簡単ではないのです。その問題の発端は『日本書紀』巻一(神代上)冒頭(古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙……)の文辞が、北宋の『太平御覧』の引用範囲と一致することにありました。さて、ここであれ?と思われる方もいるでしょう。そう、720年に完成した『日本書紀』の編者が900年代後半に成立した『太平御覧』を直接みることは不可能なのです。それでは、なぜ『太平御覧』の引用範囲と一致することが問題となるのでしょうか。これを紐解く鍵は、「類書」の成立過程にあります。今回はここで擱筆として、次回以降にその問題を見ていきたいと思います。

第68回中国四国地区中国学会大会

先週の土曜日に【第68回中国四国地区中国学会大会】徳島大学にて開催されました。

 

発表題目は以下の通りになります。

 

敦煌本『論語疏』再考ー旧鈔本『論語義疏』との比較を中心に

 

○川合仲象『本朝小説』における引用の分析ー『唐詩選』を中心として

 

○江戸時代の『荘子』研究について

 

○「朱子」とは何か

 

近年にしては珍しく思想系の発表が多くなったようです。

 

さて、筆者も参加しましたが、こぢんまりとはしていたものの

活発な議論も飛び出し、非常に有意義な会となりました。

 

定期的に外部の研究者と交流を図ることも大事なことですね。

普段受けることのない刺激を受けることが多々あります。

 

なお、来年度は山口大学で開催されるようです。

 

広島大学中国哲学研究室 卒論発表会

今回は、先日行われた、広島大学中国哲学研究室卒論発表会の題目とその様子について
、ご報告したいと思います。
 

  題目は以下の通り。

唐・宋における麻姑―唐詩・宋詩詞を中心として
塩鉄論の研究
『抱朴子』外篇行品篇における「神」
荀子の政治的思想について
劉宝南『論語正義』研究
神仙化のメカニズム

 

近年は、かっちりとした経学研究よりも日本漢学や道教分野が人気の傾向にあります。
今年度は先秦~清代に至るまで、各人の興味に基づくテーマのもと、日夜卒論に取り組んでおられました。

 

発表会では、報告者はやや緊張の面持ちでしたが、しっかりと事前に資料を準備し、堂
々と発表されていました。質疑応答も活発で、学部2年生~院生に至るまで、素朴な疑問から、発表者を深く悩ませる質問も飛び出し、発表者は冷やせものだったかもしれませんが……視聴者としては、非常に有意義な時間でした。

 

来年度は、4名が4年生となります。テーマは道教よりのものが多いようです。先輩を見
習って?反面教師として?頑張ってもらいたいものですね。

 

かく言う筆者(院生)も論文に追われているわけですが……今日は一息。ブログを更新してみました。それでは、また。

楊雄『太玄経』全訳稿・『易緯』校勘記・漢代易学概論

 

皆さまお久しぶりです。今年はもう少し更新の頻度を挙げていきたいと思います。

拙い有志のブログですが、本年も本ブログならびに広大中哲をよろしくお願いいたします!

 

さて、本年、最初の記事は、前広島大学助教授 藤田衛先生の標記の成果をご紹介したいと思います。

藤田先生が標記の成果をご自身のリサーチマップの「研究ブログ」にて公開されています。簡単にご紹介しておくと、『太玄経』の全訳は本邦初のものと思われます。『太玄経』研究に裨益するところは非常に大きいものです。また、「漢代易学概論」は、漢代易学の学統・書・技法をわかりやすく概説されています。ここに漢代易学のいろはが集約されています。

 

皆さま、ぜひご一読ください!

『日知録』易篇訳「孔子論易」

孔子論易

〔原文〕

孔子論『易』、見於『論語』者二章而已。曰「加我數年、五十以學易、可以無大過矣」、曰「南人有言、曰『人而無恒、不可以作巫醫』。善夫、不恒其德、或承之羞」。子曰、「不占而已矣」。是則聖人之所以學易者、不過庸言庸行之閒、而不在乎圖書象數也。今之穿鑿圖象以自爲能者、畔也。

記者於夫子學『易』之言而即繼之曰、「子所雅言、『詩』『書』執禮、皆雅言也」。是知夫子平日不言『易』、而其言『詩』『書』執禮者、皆言『易』也。人苟循乎『詩』『書』執禮之常而不越焉、則自天祐之、吉无不利矣。故其作繫辭傳、於「悔吝无咎」之旨特諄諄焉。而大象所言、凡其體之於身、施之於政者、無非用『易』之事。然辭本乎象、故曰「君子居則觀其象而玩其辭」、觀之者淺、玩之者深矣。其所以與民同患者、必於辭焉著之、故曰「聖人之情見乎辭」。若「天一、地二」、「易有太極」二章、皆言數之所起、亦贊易之所不可遺、而未嘗專以象數敎人爲學也。是故出入以度、无有師保、如臨父母、文王・周公・孔子之『易』也。希夷之圖、康節之書、道家之『易』也。自二子之學興、而空疏之人・迂怪之士擧竄迹於其中以爲『易』、而其『易』爲方術之書、於聖人寡過反身之學去之遠矣。

『詩』三百一言以蔽之、曰『思無邪』。『易』六十四卦三百八十四爻一言以蔽之、曰「不恒其德、或承之羞」。夫子所以思、得見夫有恒也。有恒然後可以無大過

 

〔日本語訳〕

 孔子が『易』について言及しているのは、『論語』に見えるもので二章だけである。「わたしに数年の寿命が与えられ、五十歳で『易』を学んでいれば、大きな過ちを犯すことはないであろう」と、「南人にこう言った格言がある、『人であって恒常性がなければ、巫や医者にもなれない』と。結構だね、〔恒の九三爻辞に〕その徳を一定にしなければ、いつも恥辱を承ける」と。先生は言った「占うまでもない」と。これらは聖人の『易』を学ぶ理由は、平常の言動、平常の行動を身に着ける間に過ぎず、図書象数にはない。今の図象を穿鑿してみずから能があるとする者は、本来のあり方から背くものである。

論語』を記した者は、夫子の『易』を学ぶの章の後に続けて、「子がふだん言われたことは、『詩経』と『尚書』、礼を行うことで、常に言われた」と言う。そのことから、夫子は普段から『易』のことを述べていたのではなく、『詩経』、『尚書』、礼を行うことを言うときにかぎり、『易』に言及したことが知れる。人がかりに『詩経』、『尚書』、礼を行うことの常道に従い矩をこえなければ、天から助けがやってきて、吉であって利がないことはない。それゆえ繋辞伝を作り、「悔吝无咎」の要旨を説明した箇所は特によくわかるように繰り返されているのだ。そして大象で言うところは、およそこれを身に体得すること、これを政に施すことであり、『易』を応用する事でないことはない。それでも占辞は象にもとづいているので、「君子は安居しているとき易の象を観察しその占辞を玩味する」と言い、象を観察することは浅く、辞を玩味することは深い。その民と憂いを同じくする理由は、必ず『易』の言葉に表した。それゆえ「聖人の情は辞に見えている」と言うのだ。「天一、地二」と「易に太極あり」の二章は、ともに数の起こるところを述べ、また『易』の余すところがないことを称賛するが、いまだかつて象数をもって人に教えて学となしたことはない。出入往来には一定の法則があり、天子の補佐教導にあたる太師・太保のようないかめしさはないが、あたかも父母がつつしみあたたかく導いてくれるような在り方が、文王・周公・孔子の『易』である。希夷の図、康節の書は、道家の『易』である。空疎な人や迂怪の士が隠遁するすべをその中に見出して『易』だとし、その『易』は方術の書となりさがり、聖人の過ちを少なくし身を省みる学から遠く隔たってしまった。

『詩』三百を一言で言い表せば、「思いに邪さがない」とする。『易』六十四卦三百八十四爻を一言で言い表せば、「その徳を一定にしなければ、つねに恥辱を承ける」となる。夫子が思う理由は、恒常性があることを見出したからである。恒常性を保持してその後に大きな過ちを犯すことをなくすことができるのである。