半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

虞翻の生没年に対する疑義

  虞翻という人物を知っている人は少なくないと思う。三国志などのゲームに登場するからである。しかも、そこそこ強い。虞翻は、呉の孫策孫権に仕えた人物である。虞翻の生没年は、ゲーム内や辞書でも164年-233年とされる。しかし、『三国志』呉書・虞翻伝を読むと、どうもおかしい。その生没年と合致しない記述がみられるのである。そこで、すこし虞翻の生没年を再考してみたい。

 

 まず虞翻の略歴を『三国志』呉書・虞翻伝をもとに述べておこう。虞翻 、字は仲翔、会稽郡の余姚の人。虞翻は、幼くして学問を好み、気高い心を持っていた。十二年のとき、ある客が虞翻の兄に会いに訪れたが、虞翻のもとには寄らなかった。虞翻は、その人物に手紙を送り、そのことを詰った。手紙を受けた客は、その内容の非凡さに驚き、それ以後、虞翻の評判が高くなったという 。初め、虞翻は、太守の王朗のもとで役人を務めていた。そのおり、孫策が会稽郡に軍を進めてきた。王朗はそれに戦ったが、戦いに敗れ、海上に逃げた。虞翻も王朗に付き従ったが、王朗の助言を聞き入れ、会稽郡に戻り、孫策のもとで働くことになる 。孫策の死後、虞翻は茂才に挙げられ、漢の朝廷に召され侍御史となる。曹操が司空となると、虞翻を幕府に招こうとしたが、虞翻は拒絶し、孫権に仕えることにする 。虞翻は、簡単に人と妥協せず、粗忽で実直な性格であったことから、反感を買うことが多かった。たびたび孫権をも怒らせ、ついには南方に放逐されることになる 。放逐されても、学問に倦むことはなく、その門下生はつねに数百人にも上った。著述にも励み 、数々の書物に注釈をつけた 。虞翻は、南方にいること十数年、七十歳でその地で亡くなる。

 

 さて、虞翻の生没年で問題となるのが、虞翻伝の注に引く次の『虞翻別伝』の記述である。

権即尊号、翻因上書曰、…臣伏自刻省、命軽雀鼠、性輶毫釐、罪悪莫大、不容於誅、昊天罔極、全宥九載、退当念戮、頻受生活、復偷視息。臣年耳順

孫権が皇帝を名のるようになったとき、虞翻は、その機会をとらえて上書をし、次のようにいった、「…伏してみずからを深く反省いたしますに、わが生命は雀や鼠よりも軽く、一厘一毛ほどのものにすぎませぬのに、罪はたとえようもなく重く、誅殺を被っても当然でありますところ、天恩はかぎりなく広大に、死すべき命を許されてすでに九年となりました。御前より退いて誅戮さるべき罪を思いめぐらせるがよいとのおぼしめしで、なんとか生命だけはお助けくださり、これまで生を盗んでまいったのでございます。臣は、年耳順(六十)にもなりましたが…」(小南一郎訳)

 孫権が皇帝を名乗ったのが、黄龍元年(229年)のことである。そのとき、虞翻耳順すなわち六十歳だと言っている。死すべき命を許されて九年と言っているので、南方に放逐されたのが、五十一、二歳の頃だと推される。虞翻は、七十歳に卒したというので、黄龍元年の十年後、すなわち239年に亡くなったことになる。すると、その生年は、逆算して170年となる。虞翻の生没年は、170年-239年となるはずである。

 

 また孫権が武将や士卒たちを遼東に派遣したが、海上で暴風に遭い、多くが沈没してしまう出来事が起こった。孫権は後悔すると、詔を出し、「虞翻がここにいてくれれば、こんなことは起こらなかっただろう」とし、虞翻がもし生きていれば連れ戻すよう命じた。しかし、そのとき虞翻はすでに世を去っていたという。この出来事は、赤烏二年(239年)に遼東に援軍を派遣したときのことであろう。そうすると、孫権が連れ戻そうとしたちょうどそのとき、虞翻は亡くなっていたことになる。

 

 164年-233年説は、どこに由来し、どのように推定したのかよくわからなかった。虞翻伝を読む限り、170年-239年が妥当のように思えるのだがどうであろうか。歴史上の人物の生没年を記すとき、辞書などに書かれていることをそのまま鵜呑みにしてしまう。しかし、よく調べてみると、間違っていたり、根拠薄弱であることが意外とあるのではないだろうか。虞翻もまたその一例なのかもしれない。

 

附記

 虞翻の生没年に関して、黄嘉琳「虞翻易學的氣論思想研究」(中国文化大学文学院中国文学係博士論文、二〇一四年)をご紹介いただいた。感謝申し上げます。

 

 その第二章第一節「三、虞翻生卒年考」において、虞翻の生没年に関して四つの説を挙げている。

 

(一)漢桓帝延熹六年至呉大帝嘉禾元年(163-232)

 嘉禾元年(232年)三月、孫権は周賀や裴潜を海を越え遼東に派遣した。その九月、魏将田豫に要撃され、周賀は斬られてしまう。これが、孫権が、虞翻が側に居てくれればと悔いた出来事なのであり、連れ戻そうとしたとき、虞翻は亡くなっていたことから、延熹六年至呉大帝嘉禾元年(163-232)の生没年を導き出す。

 

(二)漢桓帝延熹七年至呉大帝嘉禾二年(164-233)

 嘉禾二年(233年)三月、孫権は張彌・許晏・賀達ら将兵万人を率い、財宝を携え、海を越えて遼東に派遣し、公孫淵の歓心を買おうとした。しかし、公孫淵は張彌らを斬って、兵士や財宝を奪い取った。これが、孫権が、虞翻が側に居てくれればと悔いた出来事なのであるとする。そこから、虞翻の生没年を漢桓帝延熹七年至呉大帝嘉禾二年(164-233)と定める。

 

(三)漢霊帝建寧三年至呉大帝赤烏二年(170-239)

 これは、上述した議論と同じなので、繰り返さない。

 

(四)漢霊帝熹平元年至呉大帝赤烏四年(172-241)

 孫登が臨終の際、上疏して「蔣脩・虞翻、志節分明」と言い、孫登は孫権に師である虞翻を用いることを願った。赤烏四年(241年)のことである。そこで、孫権虞翻の罪を赦して連れ戻そうとしたが、虞翻はすでに亡くなっていた。そのことから、虞翻は赤烏四年(241年)に亡くなったとする。

 

 虞翻の生没年に異説が生じたのは、孫権が、虞翻が側に居てくれればと後悔した遼東の派遣をどの出来事に定めるかが原因だったことがわかる。孫権は、何度も遼東に士卒を海を越えて派遣しているのであった。

 

 これら諸説を踏まえたうえで、虞翻の生没年をもう一度考えてみると、やはり(三)の170年‐239年説が最も妥当のように思う。孫権が皇帝を名乗った時の虞翻の上奏文の内容と遼東の派遣を同時に満たせるのは、赤烏二年(239年)しかないからである。今回、紹介した論文の著者の黄嘉琳も、170年‐239年説を支持している。

 

 

 

 

十翼の形成

 孔子が作ったとされる、『易』の解説書、十翼が如何に形成されたのかのという話である。

 

 十翼とは、彖伝上・下、象伝上・下、繋辞伝上・下、文言伝、説卦伝、序卦伝、雑卦伝の七種類、十部分の伝のことである。とりわけ彖伝と象伝が上下に分かれているのは、『易』が上経・下経に分かれているからであり、繋辞伝は、分量の上から上下に分けたに過ぎない。ここで言う「翼」とは、「つばさ」のことではなく、「たすける」という意味で、経文の解釈を助けるといった含意があった。卦辞・爻辞で構成される「経」に対し、十翼は「伝」と呼ばれる。はじめは『易』の経と伝は別行していたが、通行本は卦辞の次に彖伝、爻辞の次に象伝が置かれるなど、混然一体となっている。現在は、双方を含んで『易経』と呼ばれることが多い。

 

 

 十翼は孔子の作とされる。『史記』に、孔子は晩年に易を好むようになり、易伝を作ったとある。『論語』にも「我に数年を加えて、五十にして以て易を学べば、以て大過無かるべし」とある。孔子の『易』への傾倒ぶりは、葦編三絶として有名である。しかし、十翼が本当に孔子の作かと問われれば、そうではないと答えざるを得ない。文言伝や繋辞伝では、たびたび「子曰」で説き始められている箇所がある。孔子の自著ならば、みずから「子曰」と書くだろうか。十翼が孔子の作ではないことは、北宋の欧陽脩が指摘するところである。欧陽脩は、十翼は聖人の作ではなく、一人の言でもない、「子曰」も「師が講じた言」だとみた。

 

 確かに、十翼は、各伝の形式や解釈の相違が指摘されており、一人の手で同時に成ったとは考えにくい。とはいえ、孔子と全く関係がないとはいえない。「子曰」の部分も、当時伝えられていた孔子の言がもとになっていると考えられる。馬王堆漢墓から『易』とともに出土した易伝には、伝世文献にはない易伝が含まれていた。そのうちの二三子問と題された易伝には、「易曰、龍戦於野。其血玄黄。孔子曰、此言大人広徳而施教於民」云々とあった。坤の上六爻辞に対し、明らかに孔子がその意味を解説していることがわかる。こうした発見から、先秦には孔子の『易』解釈が存在していたことが証明されたのである。

 

 では、十翼は先秦には成立していたのか。これは、難問である。そもそも先秦文献には、十翼の呼称や伝名は出てこない。漢に至って初めてみえる。『史記』には「孔子晚くして易を喜び、彖・繋・象・説卦・文言を序す」、『漢書』芸文志には「孔氏 之が彖・象・繫辞・文言・序卦の属十篇を為る」、同儒林伝には「彖・象・系辞十篇の文言を以て上下経を解説す」とある。しかし、すべての篇名が揃っているものはない。そのことから、前漢では今の十翼とは異なっていたのではないかと疑われることになった。

 

 武内義雄は、十翼は重層的になっているとみて、三つの種類に区別した。第一類は、彖伝と小象で、十翼中でもっと古い部分、第二類は、繋辞伝と文言伝で、象伝よりやや後れた文献、第三類は、説卦・序卦・雑卦の三篇で最も新しい部分。第一類から第二類へ、第二類から第三類へと、層一層進化してきたとみた。本田済は、武内の説を受け、やはり十翼を三群に分ける。第一群は、説卦の後半と大象の前半部分。十翼で最古の部分とする。この群は、『易』と儒家がまだ没交渉のときの部分であるとする。第二群は、彖伝と象伝。この群は、『易』に初めて儒家の教義を結び付けたばかりでなく、陰陽説をいちはやく取り込んだ部分とする。第三群は、繋辞・説卦・文言伝。大帝国設立とともに、新しい政治規範たるべき実用理論が要請された。それに答えて、作られたのが繋辞伝だとする。この群の成立は、秦漢より遡ることはできないとする。あとの序卦と雑卦は、漢初の経学者、占筮者の手になるものであろうとした。

 

 説卦伝・序卦伝・雑卦伝の後出性については、よく議論が交わされた。漢の宣帝のとき、河内女子が古い屋敷から逸『易』『礼』『尚書』それぞれ一篇を発見し、奏上した。このとき得たのが、『隋書』経籍志では「説卦三篇」だったとしている。このことから、逸『易』一篇の正体は説卦伝・序卦伝・雑卦伝三篇のことであり、それ以前にはその三篇はなかったのだとされた。だが、この議論に問題点がないわけではない。『淮南子』に「易曰」として序卦伝に似た文句が引用されている。そうすると、漢初には序卦伝はあったことになる。ただ、漢初の文献では、説卦伝・雑卦伝の文は全く引かれず、説卦伝も上述した一例のみである。先秦には十翼としてまとまっていたとは信用できない部分がある。『経典釈文』周易音義の説卦伝と雑卦伝には京氏本との異同が記され、『講周易疏論家義記』には京房が文言伝を四つに章分けしていたことが記されている。梁丘氏本を底本とする熹平石経『周易』には、今の十翼が揃っている。とすれば、今の十翼としての形態は、少なくとも前漢の宣帝(在位前七四年-前四八年)頃には完成していたことになる。

 

 以上のように、これまで彖伝と小象伝は戦国中・後期の成立、繋辞伝と文言伝は秦末から漢初までの間の成立、大象伝・説卦伝・序卦伝・雑卦伝は漢初の成立だとする説が唱えられてきた。しかし、たとえ今の十翼の形になったのが漢代に入ってからだとしても、その内容がそのときに作られたというわけではない。その素材となるものは、やはり先秦には存在していたのである。それが、馬王堆漢墓からの易伝の出土によって確かめられた。

 

 馬王堆漢墓三号墓から発見された帛書『周易』は、「六十四卦」の経文と「二三子問」「繋辞」「易之義」「要」「繆和」「昭力」の伝で構成されていた。それは、一つの帛書に書かれていたわけではなく、「六十四卦」「二三子問」の二篇が写されている帛と、「繋辞」「易之義」「要」「繆和」「昭力」の五篇が写されている帛との二幅があった。帛書『周易』は、三つに分類される。一つは経の部分にあたる「六十四卦」、二つは今の易伝にはない「巻後佚書」、三つは今の繋辞伝と一致する「繋辞」である。

 

 「巻後佚書」は、「二三子問」「易之義」「要」「繆和」「昭力」の今の易伝にはない書のことである。その篇名は、「要」と「昭力」はその篇末に書かれており、それ以外は、整理者が冒頭の字句からつけた名称である。

 

 「二三子問」は、「六十四卦」の後に写されており、その始まりは長方形に黒く塗りつぶされ(「墨釘」と呼ぶ)、篇の隔てを明らかにされている。また節の切れ目ごとに「・」のような円点が打たれている。その内容は、「二三子問曰」から始まる、孔子と弟子との『易』解釈に関する問答である。基本的には「易曰……孔子曰……」の形式で叙述されている。

 

 「易之義」は、繋辞伝の次に書かれており、ここも墨釘で始まりを示されている。『易』の卦や経文の意義を孔子が解説する内容を持つ。また「易之義」に説卦伝の前半部分と同様な記述があることが注目されている。

 

 「要」は、「易之義」の次に置かれ、その冒頭のかなりの部分が残欠している。その篇末には、「要 千六卌八」と、篇名と文字数が記されている。その内容は、孔子と子贛らが『易』と損益の道を講述する。

 

 「繆和」は、「要」の次に置かれ、やはり始まりには墨釘がある。分量は、五千余字ほどである。繆和・呂昌・呉孟・荘伹・張射・李平などが「先生」に『易』について問い、「子」が答える内容を持つ。楚荘王、越王句践、呉王夫差、晋文公の歴史的事件に言及していることが特徴的である。この「先生」「子」が、誰なのか一つの問題となっている。文脈をみる限り、「先生」と「子」は同一人物で、「子曰」と言えば、孔子の言とされるのが一般的である。しかし、孔子死後の人である魏の文侯にも言及されている箇所もあり、問題をややこしくしている。

 

 最後の「昭力」は、末尾に「昭力 六千」とあり、名が知れる易伝である。その篇名は、首句に「昭力問曰」とあり、ここに由来すると考えられる。「六千」とあるが、「昭力」自体は九百字程度であり、その前の「繆和」との合数だとされる。「昭力」の始まりには墨釘はなく、「繆和」と「昭力」は一連の伝だとみなされていたと考えられる。また内容の句切れに「・」が打たれており、三章で成り立っている。「昭力」は、昭力の『易』に関する問いに孔子が答える形式で書かれている。

 

 「繋辞」は、篇名の記載はないが、繋辞伝と大部分が一致することから、そう名付けられた。分量は、六千七百字ほどである。冒頭には墨釘があり、現行本のように上下篇には分かれていなかった。「繋辞」には、今の繋辞伝にはあって「繋辞」にはない箇所、「繋辞」にはあって今の繋辞伝にはない箇所もある。とりわけ「大衍之數」の章がごっそり抜け落ちていることが注目された。「繋辞」が出土したとはいえ、現行本の繋辞伝とは全く一緒というわけではなかったのである。そうしたことから、その先後関係について議論が交わされた。帛書「繋辞」の方が古いとする者、今の繋辞伝の方が古いとする者、帛書「繋辞」と今本繋辞伝は異本とする者。それぞれの主張に一長一短あり、解決をみていない。結局、帛書「繋辞」と今本繋辞伝の二つの指標しかないことが問題で、議論の進展には新たな繋辞伝の発見を待つしかない。

 

 以上の帛書『周易』の発見から、十翼以外の易伝が存在していたことが明るみとなった。十翼の成立に関して見直しが迫られた。なぜ「二三子問」「易之義」といった易伝が十翼に含まれなかったのか、どのような基準で十翼に選定されたのか、といった問題が出てきたのである。またこれまで繋辞伝は秦末漢初に成立したのだとされることがあった。今やこの説を採る者はいない。繋辞伝の文章は、先秦時代にはあったことは確実である。十翼の内容は、これまでの想定より古かった。しかし、先秦には十翼が成立していたことが証明されたというわけではない。十翼を構成する材料は、先秦に存在していたと言えるのみである。

 

 清華簡『筮法』にも注目すべき記載があった。その「爻象」と名づけられた節には、八・五・九・四の数字爻に象徴を分配した記述がみられた。「八為風、為水、為言、為非鳥…」のようにである。象徴を列記する内容は、説卦伝と非常に酷似する。説卦伝の前半部は「易之義」にすでにみえることもあって、説卦伝は、宣帝のときに現れたとされて怪しまれてきたが、その内容はやはり先秦にまで遡れるのではないかと思う。

 

 十翼がいつ成立したのかは、いまだ研究の途上にある。今のところ言えることは、十翼は、一度に一人の手になったものではなく、長い時間をかけて形成された。その内容は先秦時代にまで遡りえ、前漢中期までには十翼としてまとめられていた、ということである。

 

 今回で、『易経』の成立の話は最終回である。数回にわたって、なるべく最新の研究成果を踏まえ、妥当な線を描いたつもりである。昨今の陸続と発見される出土文物によって新たな展開を見せていることを知っていただけと思う。『易経』の形成についてはまだまだ解明されていないことが多い。ここで書いたことが、数年後には成り立たなくなっている可能性もある。もっと詳しく知りたい人は、『百年易学菁华集成』シリーズを読むことをおすすめします。ただし、高価で、日本で所蔵する機関は少ないです。

 

 

野間文史先生の学問とその人ーその四(完)

 

hirodaichutetu.hatenablog.com

hirodaichutetu.hatenablog.com

hirodaichutetu.hatenablog.com

 

これまで三回に渡って微力ながらも「野間文史先生の学問とその人」を追ってきた。出生から、高校時代の蒲鉾屋さんへの下宿、下宿先のお兄さんのすすめで広大中哲を志され、師である池田末利先生をはじめとし、名だたる先師から業を受け、それらの学問方法を自家薬籠中の物とされつつ、野間先生の学問は形成されていった。もちろん、ただすべてを継承しただけではない。野間先生の現在に至る業績は先生の地道で堅実な学問なしに語ることはできない。

 

それに代表されるのが、新居浜高専時代に作成にあたられた『五経正義』の「引書索引」である。インターネットによる文献検索が発達した現在、「引書索引」は無用の産物かと言うとそうではない。引書の範囲、出典、その表記など『五経正義』の引書については今もなお未解決の問題が散見される。野間先生は「引書索引」を作る過程で発見された『五経正義』の「引書」の特徴・傾向、および表記について精覈な研究を続けられた。また、「引書索引」と同時に作成にあたる各「経書」の読書を進められ『五経正義』、また『爾雅注疏』『論語正義』等の成書過程・修辞・表現に関しても卓越した研究成果を挙げられてる。また、『五経入門』を代表とする「経学」「春秋学」を平易ながらも周密に解説された概説書も多くの読者から一定の評価を得るところとなっている。さらに直近では『春秋左伝正義』の全訳を完遂され今もなお活躍を続けられている*1

 

上述の如く、野間先生の学問といえば、やはり「経学」「春秋学」乃至『五経正義』である。では、野間先生にとっての「経学」とは如何なるものなのであろうか。また、先生が「経学」の中でもとりわけ『左伝』に関心をもたれる理由は何故なのであろうか。本連載の最後にこれらをまとめておきたい。以下に、「その壱」「その弐」において引用した、インタビュー記事を今一度引用しながらその答えを探りたいと思う。

 

 まずはその端緒を見てみたいと思う(「その壱」と被る部分もあるがご了承願いたい。)

 

…学生の頃、教えを受けた先生方の「演習」の内容は、ほとんどすべて「経書」でありました。また、学生時代より私の認識の中では所謂「中哲の学問は即ち〈経学〉である」との烙印を押されていたとも言えるでしょう。*2

 

池田末利先生の『左伝』演習を始めとし、御手洗勝先生の『周礼注疏』『周易注疏』、戸田豊三郎先生の『学庸章句』『周易本義』等「経書」を読む演習が豊富であったようだ。現在であっても「経書」を読む演習のない中哲はないとは思われるが、当時は今にもまして「経書」への関心・重視があったとも言えるだろうか。

 

 では、続いてその「経学観」に関わる部分を少々長文となるが見てゆきたいと思う。

 

 

質問者:野間先生にとって、「経学」を研究する意義とは何でしょうか?

 

野間先生:要点をかいつまんで言えば、「経学」はまさに「中国学」の根底であると思うのです。私は所謂「経書概説」の授業*3の初回においては、まず「四部分類法」についてお話をします。…「四部分類法」の特徴は経部を最高位に置き、その他の三つをその下に置くことにあります。私の授業においてはほぼこういった話から、「経書」の中国学における位置について解説をしています。当然、現代の日本の中国学者の中には「道教を理解しなければ、中国思想を理解できない」と仰る方もいらっしゃいます。しかし私個人としては、「経学」は中国古典中の古典であり、中国トップクラスの学者たちが、二千年に渡って、精魂を傾けて作り出した結晶であると思うのです。ですので、もし「経学」に接しなければ、我々はおそらく中国人の思想を理解することができないでしょう。それゆえ私は中国思想の根本は「経学」にあると思うのです。

 

質問者:野間先生が経学研究を志してから、既に三十年近くが経過しましたが、今これまでの研究を回顧されるとき、「経学」を研究対象に選ばれたことに対して、どのような感想をお持ちですか?

 

野間先生:私は経学研究を選んだことに対して全く後悔しておりません。…私個人がどれだけ懸命に研究を行っても、「経学」は奥深く、どれだけ時間を要そうとも、その終着点にたどり着くことはできない、つまり経学研究に終わりはないといつも痛感させられます。私個人としては、「経学」の世界は、奥義深蘊たる学問であると考えていますので、「経学」以外の学問領域を研究してみようという思いはありませんでした。また、他の領域の学問研究に従事した方が良いのではないかとも考えませんでした。…それに比べれば、私は比較的にこれまでの研究基礎・成果を基に、一歩ずつ研究を深めていきたいと考えています。ただ私のこれまでの研究がどの程度の深度かといえば、私個人が思いますに、私の経学研究は、非常に浅狭なもので、ただ「経学」世界の堂奥を簡単に窺ったに過ぎません。

 

野間先生をして「堂奥を簡単に窺ったに過ぎない」と言わしめる「経学」の世界に底は無いのであろうか。これは「経学」を学べば学ぶほどに痛感させられるものではあるが、今改めてその言葉がずっしりと心に響いたような感がある。一歩の大きさは違えども一歩一歩前に進むしかないのである。経学世界の「堂奥」を窺えるその日まで。

 

野間先生にとって「経学」とは中国学の根底であり、その世界は飽くなき探究心をもってしてもその終着点には辿り着くことのできない世界であると言える。だが、そんな世界の中であっても一歩一歩見えないゴールに向かって積重ねていくことが却って野間先生の性に合うのであろう。

 

さて、続いて野間先生の『左伝』についての「想い」について見てゆきたいと思う。

 

質問者:…野間先生が「経学」研究を決心されたとき、初めに『十三経注疏』を読むことから初められたそうですが、中でもとりわけ『五経正義』を選ばれて、主な研究対象とされたのは何故でしょうか?

 

野間先生:私が経学研究の道を歩む上で、私が初めに触れた注疏が『左伝注疏』(池田先生の演習)でした。大学の卒業論文は『左伝』方面の研究でしたし、その後も『左伝』の研究を続けてきました。…今日に至っても、私は『左伝』に対して非常に研究意欲を持っています、私の経学研究は『左伝』から始まりましたからね。けれどもよく考えてみると、私の『左伝』に対する研究は事もあろうにスタート地点に留まっていて、却って注疏の学である『五経正義』を研究して今に至ります。

 

これは以前の繰り返しとなるが、野間先生の『左伝』に対する思い入れは、やはり池田先生の演習での出会に起因する。もし、池田先生が『左伝』の演習を開いていなければ、野間先生の『左伝』研究、ひいては「春秋学」研究は存在し得なかったかもしれない。

 

また、このインタビューが行われたのが2002年9月のことである。インタビューの中で「スタート地点に留まっている」と仰られた野間先生の『左伝』研究は2020年の今に至っては1つの到達点に達せられた感がある。『春秋三伝』の概説書、『左伝正義』の全訳など、『左伝』研究に裨益するところは非常に大きい。

 

それでは最後となるが、野間先生の考える「仮説の意義」について紹介して本連載を締めくくりたいと思う。

 

質問者:研究を行う過程において、もし何かを証明したいけれど、証明するに足る材料が乏しい場合は、推論によって仮説を立てるしかありませんが、「仮説」について野間先生はどうお考えですか?

 

野間先生:…「胡適記念館」の中に掛けられていた胡適先生の言葉に「大膽的假説、小心的求證」と有りましたが、私も昨日の講演では、邢昺『論語正義』について、大胆に私が立てた所の「仮説」を述べました。…ただ私がここで立てた仮説はとんだ見当違いであるかもしれませんので、或いはそれによって議論が活発になりましょう。それは少なくともこの方面に関する研究においてまた一歩前進するところがあると言えます。この意義において言えば、果敢に論を立てることも厭いません。研究過程においては、うまく整理できず、結論を見出せなければ直ちに歩みを止めるのではなく、絶えず違った見方ができないかを模索し、進んで何か仮説を立てるのです。当然、私の言った意味は決して己の意見を絶対的なものとして執着するということではありません。

 

「仮説」(論)を立てる上で、そこにしっかりとした根拠がなければ荒唐無稽になりかねい。やはり、読者を説得しうる「根拠」(基礎)が重要となる、つまり「大膽的假説、小心的求證」ということに他ならない。これは、研究論文というものを書く上では、もはや当然のことなのかもしれない。ただ、それをうまく実際に描けるかどうかは別の問題である。筆者が思うに、野間先生の学問は丹念な基礎研究を基にそれを丁寧に描きだせるところにその要があるのではないだろうか。 「根拠」と「仮説」このバランスが絶妙なのである。

 

最後に、野間先生の学問とその人を通して感じたことは、やはり基礎研究の大切さ、日々の積重ね、そして、それを基に、絶え間なく思索を重ね、自論を立てる大切さである。基本的なことではあるかもしれないが、常に戒めておかなければ知らぬ間にどちらかに傾いてしまうものである。今改めて肝に銘じておきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:達而録さんが「野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について」と題し4回に渡り非常に参考となる読書箚記を書かれています。ぜひ合わせて御覧ください。

*2:「従《五經正義》到《十三經注疏》-訪現代日本經學家野間文史教授」(『中國文哲研究通訊』第十六巻・第二期、2006年)(原文中国語)以下の引用すべてこれに同じ。

*3:広大での講義。受講した先輩によれば著書『五経入門』の内容がそのまま授業になったような感じとのこと。

卦辞と爻辞―『易経』の占文の起源

 『易』の経文は卦辞と爻辞で構成されている。では、卦辞・爻辞は如何にして形成されたのか。今回は、その話である。

 

 卦辞は、一卦の意義を総論した占辞である。彖辞とも呼ばれる。「彖」は「断」の意で、一卦の義を断定するという含意があるとされる。これは、彖(tuan)と断(duan)との音が近いことによったものである。卦辞は、各卦の占辞の冒頭に置かれ、きわめて簡略に記されている。多くても二十数字、大有に至っては、「元亨」のたった二字である。卦辞は、主に「元」「亨」「利」「貞」「吉」「凶」を基本とした良し悪しを表す言辞で構成され、卦全体での吉凶を表している。

 

 爻辞は、各六爻に対応する占辞である。であるから、一卦に六つの爻辞が存在する。ただ乾坤のみ、さらに用九と用六の爻があるので、七つの爻辞がある。全部で爻辞は、三百八十四個ある。卦爻は、陽であれば「九」、陰であれば「六」で表され、下の爻から上に順に数えていく。例えば、屯䷂であれば、一番下の爻から初九・六二・六三・六四・九五、上六と呼ばれる。

 

 なぜ陽爻・陰爻は「九」「六」で示されるのか。鄭玄は、『易』は変をもって占うので、変爻である老陽の数「九」と老陰の数「六」を用いたのだとする。また、乾☰の横棒は三本、坤☷の横棒は六本あり、陽は陰を兼ねるので、三と六とを合わせて「九」とし、陰は陽を兼ねることはないので、そのまま「六」としたのだという説もあったようであるが、取るに足りない。その由来ははっきりとはわかっていない。⚊が「七」、⚋が「八」にの数字に由来しているとすれば、「九」「六」と合わせて、老陽・少陽・老陰・少陰の数が揃う。数字卦と関係があるかもしれない。

 

 爻辞もまた、卦辞と同様で、その一爻での吉凶を表すことが多い。爻辞の一つの特徴に、その卦名が備わっていることが挙げられる。蒙卦を例に取ると、その初六に「発蒙」、九二に「包蒙」、六四に「困蒙」、六五に「童蒙」、上九に「撃蒙」とあり、六三を除いて、必ずその卦名である「蒙」が含まれている。ただ卦によって、その卦名が含まれる爻に多寡がある。六爻すべてに卦名が含まれるものは十二卦、五爻に含まれるのが十四卦、四爻に含まれるのが十五卦、三爻に含まれるのが四卦、二爻に含まれるのが八卦、一爻だけみえるのが四卦、全く含まれていないものは、七卦ある。卦名が全く含まれていない卦でも、例えば、乾の爻辞では九三を除いて「龍」の字が含まれているように、爻辞間の類似性は看取できる。ただ、類似する辞が両卦にまたがっていることもみられる。大壮の初九に「壮于趾」とあり、夬の初九には「壮于前趾」、九三には「壮于頄」とあるようにである。このように爻辞の内容は、整然としているとは言いがたい部分がある。また、卦辞・爻辞には押韻がみられ、韻文と散文が混在している形となっている。こうした押韻は、暗唱して伝えられていた名残であり、韻文の部分は古い占辞、散文は新しく補われた占辞であるという指摘もなされている。

 

 それでは、卦辞と爻辞は、どのように形成されたのか。内藤湖南は、爻辞の起源をおみくじだと考えた。筮とは本来、巫が用いたおみくじのようなもので、各々の卦に相当したおみくじがあり、さらに四種か五種に分けられた小名があり、占おうとする者はそのおみくじを引いて、巫から判断してもらったのだと考えた。本来の爻辞は、類似した語句をもった四種か五種ずつに分けられたおみくじであったとする。これは、卦名が含まれる爻辞が五つ以下であることが多いことから着想を得たものである。

 

 さらに内藤説を批判的発展させたのが、武内義雄である。武内は、五条一組の爻辞の古い材料とは、おみくじではなく、亀卜の頌(あるいは繇、うらないのことば)であったと考えた。亀卜の経に「卜経」というものがあり、その「卜経」の亀の色つやによる占辞が五条一組であって、これが爻辞の由来であると推測した。

 

 本田済は、この両者の説を踏まえたうえで、「新しい筮法のために六爻の形が作られて文句の必要が生じた時、それまで伝わっていた古いおみくじの文句、卜辞の残り、それに成語、諺の類を加えて六つにわりふり、なお六に足りないのは作り、まれに六からあふれるものは他の卦へ無理に推しこむなどしてできあがったのが今の爻辞なのである」とする。金谷治も、内藤・武内の説に対し、いずれも示唆に富む貴重な考えとしながらも、卦辞・爻辞に利用された材料は一種に限らないはずだとし、「卦辞・爻辞は、ある程度整理された占辞集かおみくじのことばか、そうしたものを中心にして、それに成語や諺や詩句といったものを取り込み、適当なことばを補足して、六十四卦の全体の数に合わせて配列したもの」だとする。朱伯崑は、「『周易』の原初の素材は占筮の記録に由来し、後に推敲を経て次第に占筮に用いる典籍となった」と述べている。

 

 王家台秦簡『帰蔵』の各卦の占辞は古帝王の占筮例であった。例えば、「䖭曰、昔者殷王貞卜元邦尚毋有咎、而支占巫咸、巫咸占之曰、不吉。䖭元席、投之□(亦+谷)、䖭在北為□(犭+匕)」のようにである。注目すべきは、巫咸の言で、吉凶と卦名を含む占辞で構成されていることである。この特徴は、『易』の卦辞・爻辞と近いものがある。甲骨に刻まれた卜辞にも、卦辞・爻辞と似た占文があることが指摘されている。

 

 また、『易』の爻辞中の「曰」の字が注目されている。例えば、大畜の九三爻辞に「良馬逐、利艱貞。曰閑輿衛、利有攸往」とあり、この「曰」の意味について、これまで「言う」の意味とする説や「日」の誤りとする説など、諸説あった。卜辞やいわゆる『帰蔵』の発見から、これは卜辞や別の占辞を吸収した痕跡だとする説が提出されている。

 

 卦辞・爻辞の起源は、はっきりとはわからない。しかし、先人が指摘してきたとおり、歴代の占筮例から材を取り、まとめたものが、今の卦辞・爻辞であった可能性が高いと言える。

 

 今回はここまで。次回は、孔子が作ったとされる易伝、十翼について話そうと思う。

 

 

『周易』の成立

  『易』は、いつ成立したのだろうか。今回はその話である。 

 

 『易経』は、「周易」とも呼ばれる。それは、周王朝の占い書であったとされるからである。「易経」よりは「周易」の方が古い呼称である。鄭玄は、「周」は「あまねく」という含意もあったとしている。今の『易』は、上下経に分かれ、各六十四卦の卦辞と爻辞の占辞で構成されている。

 

 卦辞と爻辞の作者については、古くは二説あった。ともに文王の作とする説と、卦辞は文王の作、爻辞は周公旦の作とする説である。前説は、繋辞伝に「易の興るや、其れ中古に於いてか。易を作る者、其れ憂患有るか」、や 「易の興るや、其れ殷の末世、周の盛徳に当たるや。文王と紂との事に当たるや」とあるに拠る。「其れ憂患有るか」とは、紂王によって文王が羑里に囚われ、艱難の中で『易』を敷衍した故事を指しているとする。後説は、爻辞に文王死後の事柄が描かれていることから、爻辞の周公旦作説を主張する。升六四爻辞に「王用亨于岐山」とあるが、武王が殷を討った後に文王に「王」という称号を追贈したのであり、文王が作ったのならば、ここに「王」とあるのは時代に合致しないことや、明夷六五爻辞の「箕子之明夷」は、紂王の叔父にあたる箕子が紂王によって幽閉されたことを指すのであり、それは文王の死後のことであることを挙げる。

 

 前者は、前漢までは主流な考え方であった。『史記』周本紀「西伯蓋し即位五十年。其の羑里に囚わるるは、蓋し易の八卦を益して六十四卦と為す」や日者列伝「伏羲 八卦を作り、周の文王 三百八十四爻を演ずるに自りて天下治まる」、前漢末の人である揚雄が「是を以て宓犧氏の易を作るや、天地を綿絡し、経るに八卦を以てし、文王は六爻に附し、孔子其の象を錯して其の辞を彖ず」と述べるなど、前漢において、『易』は、専ら文王のみと結び付けられていた。それが『易』の理解が進み、後者の説が現れた。葉早くは後漢初期の人である王充の『論衡』にみえ、後漢の馬融や三国呉の陸績なども後者の説を採っていた。後世では、卦辞は文王、爻辞は周公旦作説が主流となる。しかし、あくまで伝承上のことであり、史実であったと受け取ることはできない。

 

一九七一年末、湖南省長沙市の中心から東へ約8kmのところで墓坑が発見された。その翌年、その墓坑すなわち馬王堆漢墓一号の発掘が行われた。続いて、一九七三年末から一九七四年にかけて長沙馬王堆二号墓および三号墓が発掘される。その墓群は、前漢初期の長沙王国の丞相であった軑侯利蒼一族のものであることが判明している。一号墓は利蒼夫人辛追の墓、二号墓は利蒼の墓、三号墓は利蒼の子である利豨もしくはその兄弟の墓であった。そこから大量の文物が出土し、特に一号墓からまさに生けるがごとき状態で利蒼夫人の遺体が出てきたことは衆人を驚嘆させた。

 

 その三号墓から帛書に書かれた『易』および易伝がみつかった。三号墓の墓主が埋葬されたのは、出土した木牘から紀元前168年のことだとわかっている。帛書『周易』の書写年代も、それより少し前だと推され、前漢の文帝期の紀元前179~168年と推定されている。帛書『周易』の経文は、字数はおよそ四千九百字、卦辞・爻辞が記されていた。内容はおおむね今の『易』と一致する。ただ、上下には分かれておらず、六十四卦の配列順序も今本とは異なっていた。そのことから、『易』の卦序について喧しく議論されるようになる。帛書『周易』の出土から、漢初において『易』の経文はほとんど変わらなかったことが明らかとなった。

 

 一九九四年、上海図書館は、香港の骨董市場から戦国時代のものと思われる竹簡を購入した。その具体的な出土時期・場所は不明であるが、楚の文字で書かれ、戦国末期ごろに書写されたものだと推定されている。その中に『易』も含まれていた。その内容は、今本『易』と多少の文字の異同はあるものの、大部分が一致するものであった。今とほとんど変わらない『易』が、戦国時代にはすでに存在していたことが証明された。

 

 顧頡剛は西周初葉に卜筮を掌る官によって編纂されたとし、李鏡池西周末期、東周の前で、占卜を掌る王官が周室の危亡を救わんとして編纂されたのだとした。武内義雄氏は、『春秋左氏伝』にみえる占筮の記事を輯め、『易経』との関連を調べた。その結果、僖公二十五年(前六三五年)以後のものには、『易経』の卦爻辞によって判断しているが、僖公十五年(前六二五年)以前の諸条は厳密には『易経』と一致しないとし、『易経』の経文は、僖公十五年から僖公二十五年に至る間に編纂されたと推定した。

 

 近年、周王朝の頃のものだとされる矛がみつかった。そこには、数字卦とともに、次のような文が刻まれていた

  一六一一一六、曰、鼑止眞。鼑黃耳、奠止。五六一一五八。

 奇数を陽爻、偶数を陰爻とすれば、一六一一一六・五六一一五八のどちらとも鼎䷱の卦となる。この矛でとりわけ注目されたのは、刻まれている占辞である。鼎の六五爻辞「鼎黃耳、金鉉、利貞」に近似していたのである。これは、『易』の成立を考える上で、非常に重大である。これが鼎の爻辞にもとづいたとすれば、『易』はやはり周王朝には成立していたことになる。ただ、まだこの一例しかなく、正否のほどは今後のこうした文物の発見にかかっている。

 

 『易』は周王朝の占書であるという伝承は、数字卦の発見、『易』の出土と相俟って、伝説に過ぎないと容易に切り捨てることはできなくなった。『易』が西周には成立していたとしても、なんら不思議ではなくなっている。現状では、まだ『易』の成立年代ははっきりとは定められないが、周王朝の占書であったことが現実味を帯びてきている。

 

 今回はここまで。次回は卦辞と爻辞について話そうと思う。

 

 

連山と帰蔵

 『易』は、「周易」とも呼ばれ、周王朝の占書とされる。その『易』より以前に、夏には『連山』、殷には『帰蔵』という名の占書があったとされる。『易』を含めて、「三易」と呼ばれる。『連山』『帰蔵』にも、『易経』と同じように、八卦と六十四卦があったとされる。では、『易経』の前段階にあたるとされる『連山』と『帰蔵』はどういった書物であったのか。

 

『連山』『帰蔵』の成立には、さまざまな説がある。『連山』は伏犠、『帰蔵』は黄帝が作ったものとする説や、連山氏すなわち神農が得た河図をもとに、夏人が作ったのが『連山』、帰蔵氏すなわち黄帝が得た河図をもとに、殷人が作ったのが『帰蔵』、または夏人が炎帝にもとづいて『連山』を作り、殷人が黄帝にもとづいて『帰蔵』を作った説などがある。ただ、『連山』は夏人が、『帰蔵』は殷人が作ったとする者が大多数である。しかしながら、これらはどれも伝説の域を出ず、結局はどのように形成されたのかわからない。

 

 『連山』『帰蔵』の書名の由来についてもよくわかっていない。鄭玄は、『連山』とは、「山が雲を出だすこと連綿として絶えることがない」ことを象っているとし、『帰蔵』とは、「万物がその中に帰して蔵せられないものはない」といった意義があるとしている。また上述したように連山氏と帰蔵氏が得た河図が『連山』『帰蔵』のもとになったという説があったが、これは『連山』『帰蔵』の書名が人物名に由来するとみたのであろう。

 

 『連山』『帰蔵』の名称の初出は、『周礼』である。そこには、「(大卜は)三易の灋(法)を掌り、一は連山と曰い、二は帰蔵と曰い、三は周易と曰う。其の経卦は皆な八、其の別かつは皆な六十有四」とある。周の卜官の長である大卜は、三易の法すなわち『連山』『帰蔵』『周易』を掌っていたという。しかし、『周礼』は、いつ成立したのか不明な部分もあり、どこまで信憑性があるのか、といった問題がある。

 

 武帝以後に『周官』なる書物が出て、王莽の専権時に劉歆が『周官』もとに『周礼』としたのであって、『周礼』発見以前は『連山』と『帰蔵』という名称すらなかったとする説がある。確かに、三易が喧しく議論されるようになったのは前漢末以降であり、そのほとんどが『周礼』を論拠としている。『漢書』芸文志にも、『連山』『帰蔵』の書物の記載はない。

 

 しかし、前漢から後漢にかけての人である桓譚は、「易は一に連山と曰い、二に帰蔵と曰い、三に周易と曰う。連山は八万言、帰蔵は四千三百言。夏易煩にして殷易簡、連山は蘭台に蔵せられ、帰蔵は太卜に蔵せらる」と述べており、書物としての『連山』『帰蔵』が何かしら存在していたことになる。『漢書』芸文志・術数略の蓍亀家に記録されている、「夏亀二十六巻」が『連山』のこと、「南亀書二十八巻」が、「南」は「商」の誤りで、『帰蔵』のことであるとする説や、「周易三十八巻」の中に『連山』『帰蔵』が含まれていたという説がある。

 

 『隋書』経籍志には「帰蔵は、漢初已に亡ぶ。案ずるに晋中経之有り、唯だ卜筮を載し、聖人の旨に似ず」とあり、『帰蔵』は漢初には亡んでいたが、西晋の図書目録である『中経新簿』にはあったという。『帰蔵』という書物は、西晋に至って突如として出現したことになる。そのことから、この『帰蔵』に疑いの目が向けられた。『帰蔵』の完本は失われたが、その佚文は残されていた。だが、ほとんど顧みられることはなかった。偽書と目されたからである。

 

 その状況が一変したのが、一九九三年の王家台秦墓の発見である。その墓の中から、『易』と似た占書が出てきた。当初は、過去いまだ見たことがない「易占」と紹介された。しかし、研究が進むにつれ、『帰蔵』ではないかと疑われるようになった。偽書と目されていた『帰蔵』の佚文と合致するところがみられたからである。研究が進展し、王家台秦簡『帰蔵』と呼ばれることになる。王家台秦簡『帰蔵』の発見から、『帰蔵』が見直されるようになった。『帰蔵』は、由緒ある書物ではないかと。

 

 王家台秦簡『帰蔵』は、まず卦画と卦名を挙げ、その占文として、歴代帝王の占断例を挙げる。例えば、「䖭曰、昔者殷王貞卜元邦尚毋有咎、而支占巫咸、巫咸占之曰、不吉。䖭元席、投之□(亦+谷)、䖭在北為□(犭+匕)□」のように記される。『易』とは、異なった形式を取っていることがわかる。王家台秦簡『帰蔵』に出てくる登場人物は、伝説中の三皇五帝から夏・殷・周の帝王に至るまで、多岐にわたっている。最も時代が下る人物は、西周の穆王である。そうすると、王家台秦簡『帰蔵』の成書年代は、少なくとも穆王の後とならなければならない。王家台秦簡『帰蔵』の成書年代は明らかでないが、殷までは遡ることができないことは間違いない。留意しておかなければならないことは、王家台秦簡『帰蔵』は、あくまで伝えられていた『帰蔵』と合致するところがあったから「帰蔵」と名づけられたのであって、その当時に「帰蔵」と呼ばれていた確証はまだない。しかし、占文の素朴さからみて、かなり古い占書ではないかと思う。

 

 一方、『連山』は、『隋書』経籍志・五行に「連山三十巻」とみえるが、「梁元帝撰」としており、夏易とされる『連山』とは別書であろう。また『新唐書』芸文志の易類に突如として「連山十巻」が現れる。これは、隋の劉炫が『連山易』を偽造しており、この劉炫の偽作に関わるものではないかと疑われる。ただ、西晋の皇甫謐が、その著『帝王世紀』の中で、「連山易曰」として引用していることから、それ以前に書物として実在したことは確かなようである。その内容は、禹や鯀が登場しており、『帰蔵』と同じような古帝王の占断例が主であったと考えられる。その『連山』は、確かに夏王朝と関係がありそうではあるが、どこまで遡れるのか不明である。

 

 『連山』は夏易、『帰蔵』は殷易であるという説は、『周礼』の解釈から派生したもので、史実ではないであろう。しかし、先秦には、六十四卦をもちながらも、『易』とはまた異なる形態をもつ占書があったことは、王家台秦簡『帰蔵』や清華簡『筮法』の発見によって明らかとなった。数字卦の発見も相俟って、『易』の前段階の占いがあったとみて間違いだろう。

 

 今回はここまで。次回は『周易』の形成について話そうと思う。

 

野間文史先生の学問とその人ーその参

 

hirodaichutetu.hatenablog.com

 

その弐👆、では野間先生の新居浜高専就職から広島大学に戻られる辺りまでを追った。今回は研究者として"一番脂の乗る時期"にあたる広島大学奉職時代の経歴と学問を追ってみようと思う。

 

広島大学奉職時代

 では、先にその間の経歴をまとめておこう。平成二年(1990)42歳の時、広大中哲に助教授として赴任される。その後、平成九年(1997)「五経正義の研究-その成立と展開-」により博士(文学)を取得され、その翌年平成10年(1998)より同教授に昇任される。以後平成24年(2012)まで勤め上げられご定年により退官に至る。

 さて、その間の学問は新居浜高専時代に地道ながらも精緻を尽くし作成に当たられた「五経正義索引」を基礎とし、着々とその基礎研究を各論考へと結実させていったように思われる。また、中哲を志すもののためだけではなく、一般向けにもいくつか単著を上梓されている。中でも『五経入門』は、中国古典の中核を担う「五経」を簡潔かつ周到に解説されており、一般の方が「五経」の概要を知るには最善の本であり、中哲を志す学部1~2回生にとっては必読の書であろう。まだまだ、紹介すべきものも多いが、以下、主要業績をジャンルごとに列挙し、その下にいくつか卑見を加えたいと思う。

 

①春秋学に関するもの

・『春秋正義の世界』               溪水社、  一九八九年

春秋経文について        『広島大学文学部紀要』50、 一九九一年

・魏了翁「春秋左伝要義」について 『広島大学文学部紀要』53-1、一九九三年

・斉桓公の最期と「左伝」の成立   『東方學』87(東方學会)   一九九四年

・劉文淇の左伝学について     『広島大学文学部紀要』54、   一九九四年

・春秋三伝入門講座-第一章-春秋経文の性格『東洋古典學研究』1、一九九六年

・春秋三伝入門講座-第二章-春秋学の発生 『東洋古典學研究』1、一九九六年

・春秋三伝入門講座-第三章-公羊伝の成立とその伝文構造

                    『東洋古典學研究』2、 一九九六年

・春秋三伝入門講座-第四章-公羊伝の思想(上)『東洋古典學研究』3、一九九七年
・春秋三伝入門講座-第四章-公羊伝の思想(下)『東洋古典學研究』4、一九九七年
・春秋三伝入門講座-第五章-穀梁伝の成立とその伝文構造

                    『東洋古典學研究』5、 一九九八年

・春秋三伝入門講座-第六章-穀梁伝の思想(上)『東洋古典學研究』6、一九九八年

・春秋三伝入門講座-第六章-穀梁伝の思想(下)『東洋古典學研究』7、一九九九年

・左伝研究序説               『東洋古典學研究』28、二〇〇九年

 

 経学の中でもとりわけ「左伝」への関心は特別なものがあるように見える。 

 さて、やはり触れておかなければならないのは、広大中哲の機関誌である『東洋古典學研究』の創刊と「春秋三伝入門シリーズ」であろう。1996年創刊の『東洋古典學研究』は当時、広大中哲におられた野間先生および市來津由彦先生(現二松学舎大学特別招聘教授)の両先生が中心となって企画・運営されたものであり、両先生退官後の現在もその運営は引き継がれている。

 創刊号より第7号に至るまで野間先生は「春秋三伝入門シリーズ」を連載され、このシリーズはのちに単著である『春秋学:公羊伝と穀梁伝』『春秋左氏伝:その構成と基軸』の二書に結実する。この入門シリーズの執筆動機について直接の明言はないものの、単著である前者のまえがきに少しくそのことについて触れられている。

「春秋学」は経学の中でひとつの大きな柱となるものであるが、先に述べたようにこの分野における啓蒙的な書物は極めて少ない。…経書研究を志す多くの新進の登場を願い、概説書執筆を思い立った次第である。本書ががより高度な内容を持った専門書へいざなう入門書として読まれるなら、筆者としてこれ以上の願いはない。

 現在「春秋学」の概説書として真っ先にあげられるのが上記の二書ではないだろうか。まさしく、野間先生の願うところは大いに叶ったと言える*1

 

五経正義・十三経注疏に関するもの

論語正義源流私攷           『広島大学文学部紀要』51-1、  一九九一年

・邢昺『爾雅疏』について        『 広島大学文学部紀要』52、 一九九二年

広島大学蔵旧鈔本「周易正義」について   『日本中国學会報』 47、 一九九五年

広島大学蔵旧鈔本「周易正義」攷附校勘記  『広島大学文学部紀要』55、一九九五年

五経正義語彙語法箚記(1~5)

             『広島大学文学部紀要』56~60、一九九六年~二〇〇〇年

・讀五經正義札記(1~11)

    『東洋古典學研究』(8~13、15、17~18、26~27)一九九九年~二〇〇九年

・五經正義讀解通論(1~7)

     『東洋古典學研究』(20~22、24~25、29~30)二〇〇五年~二〇一〇年

・義疏學から五經正義ヘ --科段法の行方--    『東洋古典學研究』33、二〇一二年
・義疏学から五経正義ヘ --問答体の行方--      『日本中国學会報 』64、二〇一二年

・近代以來日本的十三經注疏校勘記研究                 

               『中国经学』11(广西师范大学出版社)、二〇一三年

 

 「五経正義語彙語法箚記」(以下、「箚記」)及び続編にあたる「五經正義讀解通論」(以下、「通論」)は、前者においては、六朝時代の文献において顕著となる口語的表現が「五経正義」の中にも少なからず散見されることを逐一その用例を挙げて考証されたものである。また後者は、辞書類には採録されいないものの、『五経正義』を読み解く上では重要な役割を果たす、三字以上の慣用句や呼応表現を中心に用例が列挙されている。なお、前者と後者は性格が似通っているもののその題名が異なるのにはわけがある。はじめに、前者最終号の冒頭部分を引用しておこう。

ところで本箚記の開始当初には予想もしなかったことであるが、台湾中央研究院計算中心「漢籍全文資料庫」の出現により、誰でも容易に「十三経注疏」の語彙の検索が可能となった。…この検索によって、筆者の従来のカード方式による用例収集には、当然ながら漏れが有ることも明らかになった。以上を勘案した結果、本箚記は今回をもって終了することにした。

 野間先生が「箚記」を執筆されていた当時はまさにインターネットによる文献検索時代の過渡期にあたる。野間先生はこの出現・発展によって従来の方法による限界を痛感されこの「箚記」の連載終了を決断されたものと思われる。

 現在は中国古典に限ることではないであろうが、インターネット検索を用いることにより、容易に文献中に見られる出典及び用例を膨大な文献の中からあっという間に探し出すことが可能となっている。筆者自身もその恩恵にあやかり(ほぼ依存し)、古典の研究に取り組んでいるのが現状である。しかし、いくら容易に出典や用例を探し出せたとしても、適切に扱うことができなければ、猫に小判になりかねない。また、インターネット検索を用いるうえで、注意せねばならない問題もまた明るみとなっている。これらの懸念を踏まえたうえで、野間先生は続編の連載を決断されたのではないだろうか。以下「通論」創刊号冒頭部分の言葉を引用しておこう。

この箚記を発表しているさなか、インターネットによる文献検索時代に入ったことは、中国古典の語彙語法研究にとって画期的な出来事である。…その結果、用例を列挙することを柱とする本箚記の発表を継続する意義が低下したことは否めない。…ただ、思いがけなくも少なからぬ方々から、インターネットと本箚記とは別物であるから、これを継続すべきだとの励ましをいただいたのはありがたいことであった。その後、筆者自身、インターネット検索、とりわけ「漢籍全文資料庫」を大いに利用していくうちに、その絶大な効果や威力とともに、限界ないし弱点にも思いを致すようになった。

 今では当たり前のインターネットによる全文検索も当時においては、やはり野間先生をして「威力」と言わしめる、画期的な出来事であった。だが、その限界にいち早く気づかれていたのもまた野間先生であったのかもしれない。

 なお、「箚記」及び「讀五經正義札記」(1~9)、「劉文淇の左伝学」に関するものは『十三經注疏の研究―その語法と傳承の形』(2005)、「通論」及び「讀五經正義札記」(10~11)、「義疏学から五経正義へ」等は『五経正義研究論攷 義疏学から五経正義へ』(2013)にそれぞれ収録されている*2

 

③訳注・訓注・索引・その他

・日知録訳注春秋篇(1~5) 『 東洋古典學研究』12~16、二〇〇一年~二〇〇三年

 ・閻若〔キョ〕『尚書古文疏證』演習(1~3)

              『東洋古典學研究』19~21、二〇〇五年~ 二〇〇六年

周易正義引書索引                                   『東洋古典學研究』22、二〇〇六年

・毛詩正義引書索引                    『広島大学大学院文学研究科論集』66、二〇〇六年

・日知録訓注尚書篇(1~4)   『東洋古典學研究』22~25、 二〇〇六年~二〇〇八年

・『春秋事語』    (『馬王堆出土文献訳註叢書』第二回配本) 東方書店 二〇〇七年

・ 周易正義訓読 『東洋古典學研究』28~、二〇〇九年~(連載中)

・「廣島大學所藏漢籍目録 經部」簡介                 『東洋古典學研究』31、 二〇一一年
・『春秋左傳正義譯注』(第一冊~第六冊)(『二松學舍大学国学古典叢書』)
                      明徳出版社 二〇一七年~二〇一九年

 

 「周易正義訓読」は現在も連載中であり、今後何らかのまとまった形になることを願うところである。また、やはり、特筆すべきはなんと言っても『春秋左傳正義譯注』であろう*3。正義の全訳は、吉川幸次郎等の『尚書正義』全訳につぐ偉業である。だが、その精覈さは野間先生が私淑されるところの吉川先生に負けず劣らずと言っても過言ではないかもしれない*4

 さて、これまで3回に渡り野間先生の出生から広大時代へと順にその経歴と学問を追ってきた。これまでのまとめとその綿密で緻密な研究に裏打ちされた、先生の「大胆な仮説」について次回(最終回の予定)に少しくまとめてみたいと思う。

 

*1:なお、上記以外にも「『春秋正義』校勘記」、劉文淇に関する論文などがあるが、今は省略させていただいた。

*2:上に挙げた以外のご論考もあるが、今は省略させていただいた。

*3:広大ご退官後の業績であるが、便宜的にここで紹介することとする。

*4:この全訳が出版されるにおよび、演習等での担当者の負担も幾ばくか軽減されるかと思われるが、真っ先にこれを紐解こうとするのは慎みたいところである(←自分への戒めもこめて)。