半知録

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五月五日に子供を産んではいけない?

 五月五日は、こどもの日。この日には、鯉のぼりを天高く泳がせたり、五月人形を飾ったりして、子供たちの健康を祝福する人も多いのではないでしょうか。こどもの日は、祝日法2条によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日で、子供だけでなく、母に感謝する日でもあるようです。それはともく、日本では、五月五日は子供にとってめでたい日なのです。

 しかし、中国ではどうやら違うようなのです。『宋書』の王鎮悪伝を読んでいると、面白い記述に出会いました。

鎮悪以五月五日生、家人以俗忌、欲令出継疎宗。猛見奇之、曰「此非常児、昔孟嘗君悪月生而相斉、是児亦将興吾門矣」。故名之為鎮悪。

鎮悪は五月五日に生まれ、家人は世俗の禁忌を思い、遠い親戚に養子に出させようとした。祖父の猛はこれを見て奇とし、「この子は常児ではない。昔、孟嘗君は悪月に生まれて斉の宰相となった。この児もまた吾が門を興すことになるだろう」と言った。そのため鎮悪と名づけられた。

 鎮悪は、五月五日に生まれたために家族に忌み嫌われ、遠戚に出されようとしたのだが、祖父の孟の、戦国四君の数えられる孟嘗君もその日に生まれ立派に育ったのだから、この子も宗族を興すことになるだろうの一言で、養子に出されずに済み、鎮悪と名づけられたというのである。孟の予言の通り、王鎮悪は、劉宋の高祖のもとで武功を挙げ、一族を興した。

 しかし、なぜ五月五日に生まれたことが忌まれたのか。それは、「昔孟嘗君悪月生」とあることが手かがりとなる。「悪月」とは、実は「五月」と同義なのである。それは、中国語発音では「悪(wu)」と「五(wu)」は同じ音であることによる。日本人が「四」の発音から「死」を連想したり、「死」の代わりに「4」を使うのと同じ発想である(「四」と「死」と結びつけることは中国でも同じ)。だから、中国の人は、「五月五日」の発音から「悪月悪日」を連想してしまう。そのため「五月五日」は忌避されたのである。「鎮悪(悪を鎮める)」と名づけられたのも、「五月五日」すなわち「悪月悪日」に生まれたためである。

 こうした話は他にもあるのかと思い、『太平御覧』を紐解き、「五月五日」の項目を見てみた。すると、五月五日に生まれたために棄てようとしたという話が数例取られており、よく行われていた習俗だったことが知れる。その古い例は、先に挙げられていた孟嘗君で、その話は『史記』に見える。五月五日の生まれた子供を不吉とみることは、遅くとも戦国時代には存在し、連綿と言い伝えられてきた迷信だったのである。

 では、現代中国ではどうなのであろうか。実際に中国人に聞いてみると、五月五日に産んだら棄ているという話は聞いたことはあるが、それは昔の話で現代では聞いたことがないそうだ。子供を堕ろすことはないにしても、日本で二月二十九日の閏日に生まれた子が、わざと一日ずらして三月一日を誕生日とされることがあるように、中国でも五月五日に生まれた子の誕生日をずらしたりすることがあったりするでは、と思ったりする。中国人の誕生日を調べ、五月五日生まれの人が有意に少なければ、この仮説は実証されるのだが、誰かやってくれないものだろうか(他力本願)。

 五月五日は、日本では子供が祝福される日で、中国では子供を産むことを忌まれる日であった。日本と中国は多く文化を共有している。しかし、こうした文化的差異も見逃してはいけない。当然、日本の独自性を強調するあまり、中国文化の影響を無視してもいけない。

 

 

 

劉宋明帝の子の幼名の命名法

宋書』の本紀を読んでいると、興味深い記述があった。それは明帝の子の幼名の名づけ方についてである。

 

太宗諸子在孕、皆以周易筮之、即以所得之卦為小字、故帝字慧震。其余皇子亦如之。

太宗(明帝)は子供たちがお腹の中にいる段階で、みな『周易』で占筮し、得た卦で幼字を決めた。それゆえ後廃帝劉昱の幼名は慧震なのである。その他の皇子もまた同様である。

 

明帝は、その子の幼名を決めるときに『周易』で占筮していたというのである。明帝の長子である劉昱の幼名は慧震で、震の卦を得たことが分かる。「其の余の皇子も亦た之くの如し」ともあり、確かに明帝の第三子の劉準の幼名は智観、第八子の劉躋は智渙、第九子の劉賛は智随で、観・渙・随はいずれも卦の名称である。明帝の子の幼名は、「慧あるいは智+卦名」で名づけられていたことが分かる。

 

 なお後廃帝劉昱は、「廃帝」とあるように廃せられた帝で、酔った寝込みを襲われ、首を斬られ弑殺されしまう。その年わずか十五歳である。その本紀は、殺されてもやむなしと言わんばかりに、劉昱の悪行が並べ立てられている。酒池肉林の遊びに耽っていたとか、帝みずから逆臣を車でひき殺したとか、天性として殺すことを好んだとか、まさに言いたい放題である。しかし、十五歳の年端もいかない子が、この年にありがちな反抗期があったとしても、ここまでの悪行を重ねていたとは思えない。誅殺の正当化のための作り話のように思えてならない。ただ劉昱は、かなりの威厳があったようで、夕べ門を開くごとに、門番は「震懾して敢えて視ず」の状態であったという。当たるかな『周易』、劉昱は、人々を「震」わせていたようだ。

 

  

『宋書』符瑞志の瑞祥記録の典拠はなんだろう?

 劉宋王朝の正史である『宋書』を読んでいて、気になるところがありました。『宋書』に符瑞志というのがあり、その名の通り吉兆や瑞祥を記した一篇です。巻上・中・下に分けられ、巻上は伏羲をはじめとする古帝王や前漢から宋までの皇帝に現れた吉兆を記し、巻中・巻下は前漢から宋までの様々な瑞祥の出現記録を列挙しています。

 

 わたしが興味を持ったのが、巻中・巻下に列記されている瑞祥の出現記録は何に依拠したのかです。というのは、前漢での瑞祥の記録を見ると、班固の『漢書』の記載とよく似ているなと思いました。もしかすると他の史書から抜き書きしたのではないか、との考えが浮かびました。そこで、簡単に調べてみました。その調査結果を記しておきたいと思います。

 

前漢

 最初に思った通り、班固の『漢書』から取っていました。すべて調べてみると、瑞祥の記録をその本紀から抜き書きしていることが分かりました。さらに言うと、『漢書』の本紀からしか瑞祥の記録を取っていません。

 

後漢

 范曄の『後漢書』と対応させると、一致する記載もあるのだけども、ない場合や文字の異同もそこそこあります。また『東観漢記』でも調べてみると、合致するものもあるが、ないことの方が多いです。どうも范曄の『後漢書』や『東観漢記』が典拠ではなさそうだなという印象です。後漢の歴史書は、現在、范曄のが後漢の正史とされていますが、多数の後漢の歴史書がありました。范曄は、それ以前の複数の後漢の歴史書を斟酌して『後漢書』を完成させたのです。おそらく范曄の『後漢書』より前の「後漢書」から抜き書きしたのではないかと思います。

 

三国時代

 陳寿の『三国志』と比較すると、かなりの割合で合致します。とくに呉の瑞祥の記録は、九割方、呉書にあり、しかも一字一句同じであることが多いです。魏の場合も、魏書にある場合が多いのですが、一致率では呉書に劣ります。符瑞志での蜀の瑞祥の記録は一例しかないのですが、蜀書と一致します。陳寿の『三国志』を典拠にしたとも言えなくもないですが、陳寿の『三国志』にはその瑞祥の記録はないが、『魏略』や『呉録』にはあったりします。また陳寿の『三国志』の呉書は、韋昭の『呉書』を元にしたという話もあり、陳寿が元とした本を使った可能性もあるかなと思います。

 話は変わりますが、符瑞志での魏・呉・蜀での瑞祥の記録に多寡があることは面白いなと思いました。蜀での瑞祥の記録は極めて少なく、呉での瑞祥の記録はかなり豊富です。劉備らは瑞祥に興味がなかったのか、あるいは瑞祥の記録する余裕がなかったのか。呉で瑞祥の記録が豊富なのは、呉の第二代皇帝である孫亮が瑞応図を彫らせて作らせたという話があるように、呉帝が瑞祥に並々ならぬ関心があったからだろうと思います。

 

○晋

『晋書』と比べると、全くと言っていいほど一致しません。それもそのはず今の『晋書』は唐の編纂になるもので、『宋書』で使われているはずがありません。それ以前に複数の『晋書』はあったのですが、散逸して残っていません。ですから、何を典拠にしたのか分かりません。ただ、参考にしたのではないかと疑っているのが、劉宋の何法盛『晋中興書』です。『晋中興書』にも、符瑞志と同じように瑞祥の記録を集めた篇があり、その佚文と『宋書』での瑞祥の説明や晋の瑞祥の記録が一致するところがあります。『宋書』符瑞志を作るにあたって、『晋中興書』を参考にした可能性もあるのではないでしょうか。しかし、一致しない箇所もあったり、判断が難しいところです。

 

 特に結論はありませんが、『宋書』符瑞志の瑞祥の記録は歴代の歴史書から抜き書きしたとは言えると思います。さっさと検索にかけただけですので、誤りがあってもご了承ください。興味がある人は、是非、『宋書』符瑞志の成り立ちについて研究してください。

 

 

 

 

 

『日知録』易篇訳「兌為口舌」

兌為口舌

【原文】

「兌爲口舌」、其於人也、但可以爲巫爲妾而已。以言説人、豈非妾婦之道乎。

凡人於交友之閒、口惠而實不至、則其出而事君也、必至於「静言庸違」。故舜之禦臣也、「敷奏以言、明試以功」。而孔子之於門人、亦「聽其言而觀其行」。

『唐書』言「韋貫之自布衣爲相、與人交、終歳無款曲、未嘗僞辭以悦人」。其賢於今之人遠矣。

 

【日本語訳】

 「兌を口舌とする」とは、その人となりは、ただ巫や妾となれるだけということである。言葉をもって人に説くのは、妾婦の道でないことがあろうか。

 およそ人の交友関係において、口ではいいことを言っても実が伴わなければ、その出仕して君に仕えても、かならず「言うことは立派だが用いれば違う」といった状態に陥る。それゆえ舜が臣を制御する際、「奏を陳述させるときは言葉でさせ、その実功ではっきりと試した」。そして孔子が門人たちに対するのにも、「その言葉を聞いてその行いを観た」。

 『唐書』に「韋貫之は平民から高位に至り、人と交わる際、終生、うちとけることはなく、いまだかつて辞を偽ってまで人を喜ばそうとすることはなかった」とある。その賢は今の人が及ぶところではない。

 

『講周易疏論家義疏』釋讀(四)

【原文】

第六釋上九「上九亢龍有悔」。舊説劉先生[1]等云、「故譬聖德(之)之人、而成亢龍之誡、有類周公之才、使驕且恡、其餘不足觀也」。今義不(熊)[然]、何故。亢心成悔、故言「窮之灾也」[2]。又云「知進而忘退、知得而不知喪」[3]、但是凡愚之行、那得爲聖之誡乎。自古至今、无道愚主如有傑紂之類、直譬而已、祇足爲戒耳。天時而言、无射之律也。陽氣究物、使陰気畢剥落之、終而復始、无猒之義也。位於(成)[戌]、位九月、陰呂應鐘、該万物而(新)[雜]陽[閡]種也[4]。位亥、十月、坤上六之爻也。

 

【日本語訳】

第六、上九を釈す。「上九亢龍に悔有り」。旧説では、劉先生らは「聖德の人を譬えて、亢龍の誡めを成したのである。周公のような才があったとしても、驕りかつ妬ましたら、その他は観るに値しない」と言う。今、その義は正しくない。なぜか。亢心に悔いがあるので、「窮まることの災い」だと言うのである。また「進むこと知って退くことを忘れ、得ることを知って失うことを忘れる」と言うのは、ただ凡愚の行いであり、これがどうして聖人のための戒めとすることができようか。古から今に至るまで、無道の愚主、桀紂のような類を、ただ譬えるだけで、戒めとするに足る。天時で言えば、(上九は)无射の律である。陽気が物を究め、陰気にことごとく剥落させ、終われば再び始まる。これが(无射の)厭うことがないという義である。(上九の爻は)戌に位し、九月に在り、陰呂である応鐘は、万物を包み陽気を雑えて種を作る。亥に位し、十月であるのは、坤の上六の爻である。

 

【注釈】

[1] 「劉先生」とは、劉宋から南斉にかけて活躍した劉瓛のことだとされる。その著作には、『周易乾坤義疏』『周易繋辞義疏』『周易四徳例』があったとされる。しかし、そのすべてが散逸しており、わずかな佚文しか残されていない。その輯佚書としては、黄慶萱『魏晋南北朝易学書考佚』(華東師範大学出版社、二〇一二年)が最も完備している。

[2] 文言伝「亢龍有悔、窮之災也」。

[3] 同上「亢之為言也、知進而不知退、知存而不知亡、知得而不知喪。其唯聖人乎」。

[4]漢書』律暦志「亡射、射、厭也。言陽氣究物而使陰氣畢剝落之、終而復始、亡厭已也。位於戌、在九月。應鐘、言陰氣應亡射,該臧萬物而雜陽閡種也。位於亥,在十月」。孟康注「閡、臧塞也。陰雜陽氣、臧塞為萬物作種也」。ここもほぼ『漢書』律暦志の文に依拠している。原本では「新陽種」に作るが、「新」は「雑」の誤り、「種」の前に「閡」が脱落していると思われる。従って改めた。

『講周易疏論家義疏』釋讀(三)

【原文】

事爲譬武王伐紂之象[1]。雖有兵革之資、无異禅譲之理。故關應而言、直是「飛龍在天」。據感而秤[稱]、普是「利見大人」者也[2]。天時爲配、位於申、在七月、夷則之律也[3]。陽正法度、陰氣使正。呂則南呂、南任也、陰氣任成諸物也[4]。位於酉、在八月、是坤六五之爻也[5]

 

【日本語訳】

〔乾九五の爻辞の〕事は武王が紂を討伐したことを譬えた象徴である。兵革の助けがあったとはいえ、禅譲の道理と異なることはない。それゆえ応に関して言えば、ただ「飛龍天に在り」ということである。感に拠って言えば、あまねく「大人を見るに利ある」ことである。天時で配せば、〔九五は〕申に位し、七月に在り、夷則の律に当たる。〔夷則は〕陽は法度を正し、陰気が正しくさせるという意味である。呂は南呂、南は任の意味である。陰気が諸物を任せ成るということである。酉に位し、八月に在るのは、坤六五の爻である。

 

【注釈】

[1]周易集解』乾九五爻辞引く干宝注に「陽在九五、三月之時、自夬來也。五在天位、故曰飛龍。此武王克紂正位之爻也。聖功既就、萬物既睹、故曰利見大人矣」とある。乾の九五は武王が紂を討伐したことを表したのだとする説は、晋の干宝の易注にすでに見えるが、干宝の説に依拠したと言えるのかは疑問である

[2] なぜここで「感」「応」のことが持ち出されているのかと言えば、文言伝に「九五曰、飛龍在天、利見大人、何謂也。子曰、同聲相應、同氣相求、水流濕、火就燥、雲從龍、風從虎、聖人作而萬物覩。本乎天者親上、本乎地者親下、則各從其類也」とあるからである。「応」を「飛龍在天」に、「感」を「利見大人」に対応させるのは、独特である。しかし、ここで「応」と「感」とにどういった意味の違いを持たせているのか詳らかでない。『周易正義』では、「感は動なり。応は報なり。皆な先ずる者を感と為し、後るる者を応と為す」としている。

[3] この乾坤十二爻と十二月および十二律配当は、複数の説がある。例えば、鄭玄は、黄鍾を乾の初九とし、黄鐘を下生した林鐘を坤の初六とし、下生・上生を繰り返し、上生して得られる音律を乾爻に、下生して得られる音律を坤爻に配当していく。すると、乾の初九は黄鍾で十一月子、九二は太蔟で正月寅、九三は姑洗で三月辰、九四は蕤賓で五月午、九五は夷則で七月申、上九は無射で九月戌となる。一方、坤の初六は林鍾で六月未、六二は南呂で八月酉、六三は応鍾で十月亥、六四は大呂で十二月丑、六五は夾鍾で二月卯、上六は中呂で四月巳となる。この鄭玄説に則れば、乾の九五は「申に位し、七月に在り、夷則の律」である。しかし、これらの乾坤十二爻の十二律配当は、鄭玄の独創ではなく、『漢書』律暦志に載せられている劉歆の三統暦にみえていることではある。下文は、ほぼ『漢書』律暦志に依拠していることからすると、ここも鄭玄説に従ったというより『漢書』律暦志に依拠したとみたほうがよい。

[4]漢書』律暦志上「夷則、則、法也。言陽氣正法度、而使陰氣夷、當傷之物也。位於申、在七月。南呂、南、任也。言陰氣旅助夷則、任成萬物也」。

[5] 鄭玄の爻辰説では、坤の六五は夾鍾で二月卯に当たる。また『漢書』律暦志に「六月、坤之初六」とあり、これを基準に配当していってもうまく六五が八月酉とはならない。下文で「位亥、十月、是上六之爻也」とあることから推せば、坤の初六は十二月丑、六二は二月卯、六三は四月巳、六四は六月未、六五は八月酉、上六は十月亥と配当していたことが知れる。この配当では、十一月が乾の初九、次の十二月が坤の初六、正月は乾の九二、二月は坤の六二というように、乾坤の爻が交互に配当され、ともに順に爻位が昇っていく整った形となっている。ここの文は、ほとんど『漢書』律暦志に則りながらも、坤の十二月配当だけは採っていない。坤の爻を十二月丑から配当していくやり方は、管見の及ぶ限り、ここにしか見えない。これが誰の説であるか非常に興味があるが、不明である。『講周易疏論家義記』の性質から考えれば、南朝の学者の説だったと推定される。

『講周易疏論家義疏』釋讀(二)

【原文】

第三釋結義。夫太易之理、本自豁然。乾坤之象、因誰而興耶。上繫云、易有太極、極生兩儀、儀生四象、象生八卦[1]。論曰、太易无外、故能生乾坤。有内、故能生万法之象。可謂能生之理、必因自生之業、自生之業、必因能生之功。故自生之生、亦非自生所生。能生之能、(承丞)[誠]非能生之能。並无宰主、因曰无爲。本无生理、何物因生。孔子易伝云、有之用極、无之功顯[2]。自无之有、還之於无。荘子云、上不資於无、下不依於有、不知所以然而然、忽然而生、故曰自然之生也。且易无體者、通生无礙也。神无方者、造象无方也。故太易之理、(不)不當爲體、只非无有應生[3]之理、亦非(是)[无][4]有无生之道、故天地之生、万法之興、並是无。當生与无生之理而有之也。體用相論、義家不同。諸家云无用、用而不用、不用之用、而无用也。此家之…

 

【日本語訳】

第三釋結義。太易の理は、もとよりおのずから豁然である。乾坤の象は、誰に因り興ったのか。上繋に「易に太極があり、太極は両儀を生み、両儀四象を生み、四象八卦を生む」とある。論に言う、太易に外なく、それゆえ乾坤を生むことができる。内があるがゆえに、万法の象を生むことができる。能生の理は、必ず自生の業に因り、自生の業は、必ず能生の功に因ると言うことができる。それゆえ自生の生もまた、自生が生むところではない。能生の能は、まことに能生の能ではない。並びに主宰なく、因って無為と言う。もとより無は理を生み、どうして物が〔無に〕因って生まれるのか。孔子易伝に「有の用が極まれば、無の功が顕かとなる。無より有に往き、また无に還る」と言う。荘子に言う、「上は無を助けず、下は有に依らず、そうであってそうである理由を知らず、忽然として生まれる。それゆえ自然の生と言う」と。かつ「易に体无し」とは、生に通じるのに妨げるものはないということである。「神に方无し」とは、象を造るのに決まった方がないということである。それゆえ太易の理は、〔万物の〕本体とみなすべきではなく、ただ生むことができる理だけでなく、また無が生んだ道でもある。それゆえ〔太易の理もまた無から生じたので〕天地の生、万法の興は、並びに無なのである。生むことができることと無が生んだ理があるのだ。体用について相論ずることは、義家は同じでない。諸家は言う無用であって、用いて用いず、用いずして用いて、そうして無用である、と。この家の…

 

【注釈】

[1] 繫辞伝上「易有太極、是生兩儀、兩儀生四象四象八卦」。『講周易疏論家義記』の一つの特徴に、引用が正確ではないということがある。

[2]孔子易伝」と言うが、実際は 韓康伯の注である。繋辞伝上「一陰一陽之謂道」、韓康伯注「道者何。无之稱也。无不通也、无不由也。況之曰道、寂然(天)〔无〕體、不可為象、必有之用極、而无之功顯。故至乎神无方而易无體、而道可見矣」。

[3] 「應生」の「應」は、下文の「當生」に対応していると考えられるので、「おうじる」ではなく、「まさに~べし」の意であろう。

[4] 「是」は、「无」の誤りだと思われる。「只非无有應生之理、亦非是有无生之道」は、原文をそのまま解すると、「(太易の理は)ただ応生の理があることはないのではない(つまり、ある)だけでなく、また無生の道ではない」となり、不自然な文となる。ここは、「太易の理」が、「応生の理」だけでなく、「無生の道」であることを言っているのだと思う。であるから、「是」は「无」の誤りではないかと考えた。ここでは、「是」を「无」に改めて解すことにする。