半知録

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古代中国の占い書はなぜ「易」と呼ばれるのか

 儒教経典の一つに『易経』という書がある。『易経』とは、一言で言えば古代中国の占いの書である。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」ということわざやNaruto日向ネジの技である八卦六十四掌は『易経』に由来している。ただ日本人で「エキキョウ」と聞いて占いの書だとピンとくる人はすくないだろう。中国人でも学校で習わないからよく知らないという人がいた。そこで、あまりなじみのない『易経』に興味を持ってもらうために、すこし『易経』について書いていこうと思う。今回は、「易」という名称についてである。

 

 古代中国の占い書は、なぜ「易」と呼ばれるのか。孔頴達は、「夫れ易は、変化の総名」だと言う。「易」の「かわる」という意味を重視し、陰陽の変化がその本質だとみなしたのである。現代でもそれが一般的な見方であり、「易」を、簡単の意味の「イ」ではなく、変化の意味の「エキ」と読むのもそのためである。英語では、「Book of Changes」と訳されるのも同様である。

 

 ただ、「易」には変化だけではなく、他の意味も内包されていたという説がある。それが、易三義説である。『易』という名称には、「易簡」「変易」「不易」の三つの意義が内包しているとする。「易簡」とは簡明であり従いやすいこと、「変易」とは変化して窮まることがないこと、「不易」とは天尊地卑の秩序は変わることはないことを意味する。「易簡」の「易」は、「難易」の「易」の意味からみた解釈である。易三義説が、最も早くみえるのは前漢末以降に成立した緯書である。その内の『易』の解釈書に相当する『易緯乾鑿度』にみえる。鄭玄をはじめとしてその後の注釈者たちもその説を踏襲し、広く受け入れられることになった。とはいえ、易三義説は、漢代における創見とはいえない。「易簡」は繋辞伝の「易かれば則ち知り易く、簡なれば則ち従い易し」、「変易」は繋辞伝の「生生之を易と謂う」に、その根拠が見いだせる。「不易」については、鄭玄『易賛』では、繋辞伝の「天尊く地卑しく、乾坤定まる。卑高以て陳なりて、貴賎位し、動静に常有りて、剛柔断まる」の文句を挙げて、「ひろく行きわった序列で変わらないことを言ったものだ」としている。であるから、易三義説の考え方自体は繋辞伝から導き出され、先秦時代にはすでにあった捉え方であったとみることできる。漢代において、易三義説としてまとめられたのであろう。

 

 では、「易」の字義からはどう言えるだろうか。後漢の許慎の作である『説文解字』では、次のように解釈している。「易は、蜥易、蝘蜓、守宮なり。形を象る。秘書は、日月を易と為し、陰陽を象るなりと説く」と。つまり、「易」の原義は、とかげややもりの象形文字だというのである。とかげややもりは、時と場合によってその色を変化させる。そのことから「易」に「変わる」という字義があるのだとする。また、日と月を合したのが「易」という文字であり、陰陽を象った字だとする説も挙げている。「秘書」とはどういった書物なのか詳らかでないが、緯書の類だとされる。後漢の魏伯陽の著作とされる『周易参同契』にも「日月為易、剛柔相当」とあり、漢代でよく唱えられていた字源解釈であったのであろう。

 

 しかし現在、甲骨文字や金文の研究の進展で、『説文解字』の字解は不正確であることがわかってきている。「易」は、甲骨文字では「f:id:hirodaichutetu:20191121223215p:plain」のように書かれる。季旭昇は、両手で二つの酒器を捧げ持ち、それを傾けて注いだのを受ける形に従っており、会意で「変易」と「賜る」という義を表しているとする。「易」の古字は、とかげの字形といくぶん類似していたために、許慎は取り違えてしまったのだと指摘している。何琳儀は、一つの皿を傾けて水を別の皿に注ぎ入れる義を表し、引伸して変易の義となったとする。「易」の本義については完全に解明されたとは言えないが、『説文解字』の字解が成り立たないことは確かなようである。

 

 古代中国の占い書が「易」と名づけられたのは、やはり変幻自在でいかなる場面にも対応できる「変易」の面を重視してのことであったと考えられる。

 

 今回はここまで。次回は、『易』の陰)の起源について話していこうと思う。