半知録

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卦名の由来

六十四卦には、それぞれ名称が付けられている。乾・坤・屯・蒙・需・訟、等々。しかし、なぜそのように名づけられたのか。今回は卦名についてのお話である。

 

 卦名の由来について、大きく分けて四つの説がある。八卦は事物の観察からできたものなので、ある物象の名によって名づけたとする取象説、卦象は事物の理を代表するので、その義理を取って名づけたとする取義説、爻辞の中から一字あるいは二字を取り出して名づけたとする取筮辞説、その卦爻辞で占うべき事柄をもって名づけたとする取占事説である。とりわけ取筮辞説は、例えば、困のように、初六の爻辞に「臀困于株木」、九二には「困于酒食」、六三には「困于石」、九四には「困于金車」、九五には「困于赤紱」、上六には「困于葛藟」とあり、説得力があるように思える。卦名とその占辞には密接な関係があることは疑いない。しかし、卦名が占辞に全く出てこない卦もあり、すべての卦名の来源を占辞に求めることはできない。そもそも、先に卦名があって占辞が作られたのか、先に占辞があって卦名が付けられたのか、という問題もある。

 

 六十四卦の卦名は、古来より不変であったというわけではなかった。新たに出土した楚竹書『周易』、馬王堆帛書『周易』、阜陽漢簡『周易』に記されている卦名と今本の卦名と異なっている箇所が多数あった。例えば、前漢初期に書写された帛書『周易』では、履が「礼」、艮が「根」と書かれていた。ただ、その相違は、おおむね音が近いことによる仮借とみなせる。漢字が異なるとはいえ、全く乖離しているというわけではなない。後漢末に彫られた熹平石経『周易』の残石にみえる卦名は、大体、現在のと一致している。

 

 しかし、帛書『周易』や熹平石経『周易』では、坤が「川」のように書かれていたことが一つ問題となった。しかも、それが単なる例外ではなく、漢から南北朝に至るまでの石碑の大多数が、「坤」を「川」や「巛」のように彫っていたのである。唐の陸徳明は、「巛」は坤の今字なのだとした。それに対し、毛居正は、「巛」は☷を象ったもので、坤の古字なのであり、陸徳明が今字とするのは誤っているとした。清の王引之は、「川」は「坤」の仮借であり、「巛」は「川」の隷書なのだとした。陳金生は、「坤」は「川」が本来の卦名なのであり、「坤」と「川」は古今字ではなく、音が近かったために相互に仮借されたものに過ぎないとする。また、坤を「川」や「巛」に作るのは、仮借によるものではないという説も立てられている。この「川」を「順」と解すことはできても、「坤」の仮借と解釈することはできないとするのである。坤の象伝に「地勢坤」とある。王弼は、「地形不順、地勢順」と注を付けている。なぜ象伝の「地勢坤」が王弼注では「地勢順」となるのか。これは、説卦伝の「坤は、順なり」に拠ったのではなく、王弼がみた象伝が「地勢川」に作っていたからだとする説が提出されている。漢から魏晋南北朝までは、䷁の卦名は専ら「川」や「巛」とされていたことは確かである。「坤」が卦名として広く普及したのは、隋・唐に至ってからだとされる。

 

 ところで、各卦の象伝では、大部分が「卦象+卦名」の形で記されている。ところが、乾のみ「天行健」と、卦名と一致しないのである。これも、帛書『周易』では乾を「鍵」に作っていたことが注目される。「乾」の卦名が古くは「健」であったとすれば、この象伝もまた「卦象+卦名」の大例から外れていないことになる。乾の卦名も、もとは「鍵」あるいは「健」とされていた可能性がある。

 

 しかし、先秦時代に「乾」「坤」といった卦名が全く存在しなかったわけではない。清華簡『筮法』では、『易』で言う乾坤にあたる卦が「乾」「𡘩」と釈読されている。「𡘩」は坤の異体字とされる。「𡘩」の卦名は、今に伝えられている『帰蔵』にもみられる。もしかすると、こうした卦名の変動は、『易』と六十四卦を共有する別の占書との混淆の結果なのかもしれない。

 

 卦名の由来は、はっきりとはわかっていない。『易』の卦名は、先秦・前漢ではまだ安定しておらず、後漢までにはおおよそ今の形となり、「坤」の卦名は隋唐まではもっぱら「巛」とされていたが、唐以降、「坤」の呼称で定着したとするのが大筋の流れである。

 

今回はここまで。次回は、夏と殷の占書とされる『連山』『帰蔵』について話そうと思う。