半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

野間文史先生の学問とその人ーその参

 

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その弐👆、では野間先生の新居浜高専就職から広島大学に戻られる辺りまでを追った。今回は研究者として"一番脂の乗る時期"にあたる広島大学奉職時代の経歴と学問を追ってみようと思う。

 

広島大学奉職時代

 では、先にその間の経歴をまとめておこう。平成二年(1990)42歳の時、広大中哲に助教授として赴任される。その後、平成九年(1997)「五経正義の研究-その成立と展開-」により博士(文学)を取得され、その翌年平成10年(1998)より同教授に昇任される。以後平成24年(2012)まで勤め上げられご定年により退官に至る。

 さて、その間の学問は新居浜高専時代に地道ながらも精緻を尽くし作成に当たられた「五経正義索引」を基礎とし、着々とその基礎研究を各論考へと結実させていったように思われる。また、中哲を志すもののためだけではなく、一般向けにもいくつか単著を上梓されている。中でも『五経入門』は、中国古典の中核を担う「五経」を簡潔かつ周到に解説されており、一般の方が「五経」の概要を知るには最善の本であり、中哲を志す学部1~2回生にとっては必読の書であろう。まだまだ、紹介すべきものも多いが、以下、主要業績をジャンルごとに列挙し、その下にいくつか卑見を加えたいと思う。

 

①春秋学に関するもの

・『春秋正義の世界』               溪水社、  一九八九年

春秋経文について        『広島大学文学部紀要』50、 一九九一年

・魏了翁「春秋左伝要義」について 『広島大学文学部紀要』53-1、一九九三年

・斉桓公の最期と「左伝」の成立   『東方學』87(東方學会)   一九九四年

・劉文淇の左伝学について     『広島大学文学部紀要』54、   一九九四年

・春秋三伝入門講座-第一章-春秋経文の性格『東洋古典學研究』1、一九九六年

・春秋三伝入門講座-第二章-春秋学の発生 『東洋古典學研究』1、一九九六年

・春秋三伝入門講座-第三章-公羊伝の成立とその伝文構造

                    『東洋古典學研究』2、 一九九六年

・春秋三伝入門講座-第四章-公羊伝の思想(上)『東洋古典學研究』3、一九九七年
・春秋三伝入門講座-第四章-公羊伝の思想(下)『東洋古典學研究』4、一九九七年
・春秋三伝入門講座-第五章-穀梁伝の成立とその伝文構造

                    『東洋古典學研究』5、 一九九八年

・春秋三伝入門講座-第六章-穀梁伝の思想(上)『東洋古典學研究』6、一九九八年

・春秋三伝入門講座-第六章-穀梁伝の思想(下)『東洋古典學研究』7、一九九九年

・左伝研究序説               『東洋古典學研究』28、二〇〇九年

 

 経学の中でもとりわけ「左伝」への関心は特別なものがあるように見える。 

 さて、やはり触れておかなければならないのは、広大中哲の機関誌である『東洋古典學研究』の創刊と「春秋三伝入門シリーズ」であろう。1996年創刊の『東洋古典學研究』は当時、広大中哲におられた野間先生および市來津由彦先生(現二松学舎大学特別招聘教授)の両先生が中心となって企画・運営されたものであり、両先生退官後の現在もその運営は引き継がれている。

 創刊号より第7号に至るまで野間先生は「春秋三伝入門シリーズ」を連載され、このシリーズはのちに単著である『春秋学:公羊伝と穀梁伝』『春秋左氏伝:その構成と基軸』の二書に結実する。この入門シリーズの執筆動機について直接の明言はないものの、単著である前者のまえがきに少しくそのことについて触れられている。

「春秋学」は経学の中でひとつの大きな柱となるものであるが、先に述べたようにこの分野における啓蒙的な書物は極めて少ない。…経書研究を志す多くの新進の登場を願い、概説書執筆を思い立った次第である。本書ががより高度な内容を持った専門書へいざなう入門書として読まれるなら、筆者としてこれ以上の願いはない。

 現在「春秋学」の概説書として真っ先にあげられるのが上記の二書ではないだろうか。まさしく、野間先生の願うところは大いに叶ったと言える*1

 

五経正義・十三経注疏に関するもの

論語正義源流私攷           『広島大学文学部紀要』51-1、  一九九一年

・邢昺『爾雅疏』について        『 広島大学文学部紀要』52、 一九九二年

広島大学蔵旧鈔本「周易正義」について   『日本中国學会報』 47、 一九九五年

広島大学蔵旧鈔本「周易正義」攷附校勘記  『広島大学文学部紀要』55、一九九五年

五経正義語彙語法箚記(1~5)

             『広島大学文学部紀要』56~60、一九九六年~二〇〇〇年

・讀五經正義札記(1~11)

    『東洋古典學研究』(8~13、15、17~18、26~27)一九九九年~二〇〇九年

・五經正義讀解通論(1~7)

     『東洋古典學研究』(20~22、24~25、29~30)二〇〇五年~二〇一〇年

・義疏學から五經正義ヘ --科段法の行方--    『東洋古典學研究』33、二〇一二年
・義疏学から五経正義ヘ --問答体の行方--      『日本中国學会報 』64、二〇一二年

・近代以來日本的十三經注疏校勘記研究                 

               『中国经学』11(广西师范大学出版社)、二〇一三年

 

 「五経正義語彙語法箚記」(以下、「箚記」)及び続編にあたる「五經正義讀解通論」(以下、「通論」)は、前者においては、六朝時代の文献において顕著となる口語的表現が「五経正義」の中にも少なからず散見されることを逐一その用例を挙げて考証されたものである。また後者は、辞書類には採録されいないものの、『五経正義』を読み解く上では重要な役割を果たす、三字以上の慣用句や呼応表現を中心に用例が列挙されている。なお、前者と後者は性格が似通っているもののその題名が異なるのにはわけがある。はじめに、前者最終号の冒頭部分を引用しておこう。

ところで本箚記の開始当初には予想もしなかったことであるが、台湾中央研究院計算中心「漢籍全文資料庫」の出現により、誰でも容易に「十三経注疏」の語彙の検索が可能となった。…この検索によって、筆者の従来のカード方式による用例収集には、当然ながら漏れが有ることも明らかになった。以上を勘案した結果、本箚記は今回をもって終了することにした。

 野間先生が「箚記」を執筆されていた当時はまさにインターネットによる文献検索時代の過渡期にあたる。野間先生はこの出現・発展によって従来の方法による限界を痛感されこの「箚記」の連載終了を決断されたものと思われる。

 現在は中国古典に限ることではないであろうが、インターネット検索を用いることにより、容易に文献中に見られる出典及び用例を膨大な文献の中からあっという間に探し出すことが可能となっている。筆者自身もその恩恵にあやかり(ほぼ依存し)、古典の研究に取り組んでいるのが現状である。しかし、いくら容易に出典や用例を探し出せたとしても、適切に扱うことができなければ、猫に小判になりかねない。また、インターネット検索を用いるうえで、注意せねばならない問題もまた明るみとなっている。これらの懸念を踏まえたうえで、野間先生は続編の連載を決断されたのではないだろうか。以下「通論」創刊号冒頭部分の言葉を引用しておこう。

この箚記を発表しているさなか、インターネットによる文献検索時代に入ったことは、中国古典の語彙語法研究にとって画期的な出来事である。…その結果、用例を列挙することを柱とする本箚記の発表を継続する意義が低下したことは否めない。…ただ、思いがけなくも少なからぬ方々から、インターネットと本箚記とは別物であるから、これを継続すべきだとの励ましをいただいたのはありがたいことであった。その後、筆者自身、インターネット検索、とりわけ「漢籍全文資料庫」を大いに利用していくうちに、その絶大な効果や威力とともに、限界ないし弱点にも思いを致すようになった。

 今では当たり前のインターネットによる全文検索も当時においては、やはり野間先生をして「威力」と言わしめる、画期的な出来事であった。だが、その限界にいち早く気づかれていたのもまた野間先生であったのかもしれない。

 なお、「箚記」及び「讀五經正義札記」(1~9)、「劉文淇の左伝学」に関するものは『十三經注疏の研究―その語法と傳承の形』(2005)、「通論」及び「讀五經正義札記」(10~11)、「義疏学から五経正義へ」等は『五経正義研究論攷 義疏学から五経正義へ』(2013)にそれぞれ収録されている*2

 

③訳注・訓注・索引・その他

・日知録訳注春秋篇(1~5) 『 東洋古典學研究』12~16、二〇〇一年~二〇〇三年

 ・閻若〔キョ〕『尚書古文疏證』演習(1~3)

              『東洋古典學研究』19~21、二〇〇五年~ 二〇〇六年

周易正義引書索引                                   『東洋古典學研究』22、二〇〇六年

・毛詩正義引書索引                    『広島大学大学院文学研究科論集』66、二〇〇六年

・日知録訓注尚書篇(1~4)   『東洋古典學研究』22~25、 二〇〇六年~二〇〇八年

・『春秋事語』    (『馬王堆出土文献訳註叢書』第二回配本) 東方書店 二〇〇七年

・ 周易正義訓読 『東洋古典學研究』28~、二〇〇九年~(連載中)

・「廣島大學所藏漢籍目録 經部」簡介                 『東洋古典學研究』31、 二〇一一年
・『春秋左傳正義譯注』(第一冊~第六冊)(『二松學舍大学国学古典叢書』)
                      明徳出版社 二〇一七年~二〇一九年

 

 「周易正義訓読」は現在も連載中であり、今後何らかのまとまった形になることを願うところである。また、やはり、特筆すべきはなんと言っても『春秋左傳正義譯注』であろう*3。正義の全訳は、吉川幸次郎等の『尚書正義』全訳につぐ偉業である。だが、その精覈さは野間先生が私淑されるところの吉川先生に負けず劣らずと言っても過言ではないかもしれない*4

 さて、これまで3回に渡り野間先生の出生から広大時代へと順にその経歴と学問を追ってきた。これまでのまとめとその綿密で緻密な研究に裏打ちされた、先生の「大胆な仮説」について次回(最終回の予定)に少しくまとめてみたいと思う。

 

*1:なお、上記以外にも「『春秋正義』校勘記」、劉文淇に関する論文などがあるが、今は省略させていただいた。

*2:上に挙げた以外のご論考もあるが、今は省略させていただいた。

*3:広大ご退官後の業績であるが、便宜的にここで紹介することとする。

*4:この全訳が出版されるにおよび、演習等での担当者の負担も幾ばくか軽減されるかと思われるが、真っ先にこれを紐解こうとするのは慎みたいところである(←自分への戒めもこめて)。