半知録

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『周易』の成立

  『易』は、いつ成立したのだろうか。今回はその話である。 

 

 『易経』は、「周易」とも呼ばれる。それは、周王朝の占い書であったとされるからである。「易経」よりは「周易」の方が古い呼称である。鄭玄は、「周」は「あまねく」という含意もあったとしている。今の『易』は、上下経に分かれ、各六十四卦の卦辞と爻辞の占辞で構成されている。

 

 卦辞と爻辞の作者については、古くは二説あった。ともに文王の作とする説と、卦辞は文王の作、爻辞は周公旦の作とする説である。前説は、繋辞伝に「易の興るや、其れ中古に於いてか。易を作る者、其れ憂患有るか」、や 「易の興るや、其れ殷の末世、周の盛徳に当たるや。文王と紂との事に当たるや」とあるに拠る。「其れ憂患有るか」とは、紂王によって文王が羑里に囚われ、艱難の中で『易』を敷衍した故事を指しているとする。後説は、爻辞に文王死後の事柄が描かれていることから、爻辞の周公旦作説を主張する。升六四爻辞に「王用亨于岐山」とあるが、武王が殷を討った後に文王に「王」という称号を追贈したのであり、文王が作ったのならば、ここに「王」とあるのは時代に合致しないことや、明夷六五爻辞の「箕子之明夷」は、紂王の叔父にあたる箕子が紂王によって幽閉されたことを指すのであり、それは文王の死後のことであることを挙げる。

 

 前者は、前漢までは主流な考え方であった。『史記』周本紀「西伯蓋し即位五十年。其の羑里に囚わるるは、蓋し易の八卦を益して六十四卦と為す」や日者列伝「伏羲 八卦を作り、周の文王 三百八十四爻を演ずるに自りて天下治まる」、前漢末の人である揚雄が「是を以て宓犧氏の易を作るや、天地を綿絡し、経るに八卦を以てし、文王は六爻に附し、孔子其の象を錯して其の辞を彖ず」と述べるなど、前漢において、『易』は、専ら文王のみと結び付けられていた。それが『易』の理解が進み、後者の説が現れた。葉早くは後漢初期の人である王充の『論衡』にみえ、後漢の馬融や三国呉の陸績なども後者の説を採っていた。後世では、卦辞は文王、爻辞は周公旦作説が主流となる。しかし、あくまで伝承上のことであり、史実であったと受け取ることはできない。

 

一九七一年末、湖南省長沙市の中心から東へ約8kmのところで墓坑が発見された。その翌年、その墓坑すなわち馬王堆漢墓一号の発掘が行われた。続いて、一九七三年末から一九七四年にかけて長沙馬王堆二号墓および三号墓が発掘される。その墓群は、前漢初期の長沙王国の丞相であった軑侯利蒼一族のものであることが判明している。一号墓は利蒼夫人辛追の墓、二号墓は利蒼の墓、三号墓は利蒼の子である利豨もしくはその兄弟の墓であった。そこから大量の文物が出土し、特に一号墓からまさに生けるがごとき状態で利蒼夫人の遺体が出てきたことは衆人を驚嘆させた。

 

 その三号墓から帛書に書かれた『易』および易伝がみつかった。三号墓の墓主が埋葬されたのは、出土した木牘から紀元前168年のことだとわかっている。帛書『周易』の書写年代も、それより少し前だと推され、前漢の文帝期の紀元前179~168年と推定されている。帛書『周易』の経文は、字数はおよそ四千九百字、卦辞・爻辞が記されていた。内容はおおむね今の『易』と一致する。ただ、上下には分かれておらず、六十四卦の配列順序も今本とは異なっていた。そのことから、『易』の卦序について喧しく議論されるようになる。帛書『周易』の出土から、漢初において『易』の経文はほとんど変わらなかったことが明らかとなった。

 

 一九九四年、上海図書館は、香港の骨董市場から戦国時代のものと思われる竹簡を購入した。その具体的な出土時期・場所は不明であるが、楚の文字で書かれ、戦国末期ごろに書写されたものだと推定されている。その中に『易』も含まれていた。その内容は、今本『易』と多少の文字の異同はあるものの、大部分が一致するものであった。今とほとんど変わらない『易』が、戦国時代にはすでに存在していたことが証明された。

 

 顧頡剛は西周初葉に卜筮を掌る官によって編纂されたとし、李鏡池西周末期、東周の前で、占卜を掌る王官が周室の危亡を救わんとして編纂されたのだとした。武内義雄氏は、『春秋左氏伝』にみえる占筮の記事を輯め、『易経』との関連を調べた。その結果、僖公二十五年(前六三五年)以後のものには、『易経』の卦爻辞によって判断しているが、僖公十五年(前六二五年)以前の諸条は厳密には『易経』と一致しないとし、『易経』の経文は、僖公十五年から僖公二十五年に至る間に編纂されたと推定した。

 

 近年、周王朝の頃のものだとされる矛がみつかった。そこには、数字卦とともに、次のような文が刻まれていた

  一六一一一六、曰、鼑止眞。鼑黃耳、奠止。五六一一五八。

 奇数を陽爻、偶数を陰爻とすれば、一六一一一六・五六一一五八のどちらとも鼎䷱の卦となる。この矛でとりわけ注目されたのは、刻まれている占辞である。鼎の六五爻辞「鼎黃耳、金鉉、利貞」に近似していたのである。これは、『易』の成立を考える上で、非常に重大である。これが鼎の爻辞にもとづいたとすれば、『易』はやはり周王朝には成立していたことになる。ただ、まだこの一例しかなく、正否のほどは今後のこうした文物の発見にかかっている。

 

 『易』は周王朝の占書であるという伝承は、数字卦の発見、『易』の出土と相俟って、伝説に過ぎないと容易に切り捨てることはできなくなった。『易』が西周には成立していたとしても、なんら不思議ではなくなっている。現状では、まだ『易』の成立年代ははっきりとは定められないが、周王朝の占書であったことが現実味を帯びてきている。

 

 今回はここまで。次回は卦辞と爻辞について話そうと思う。