半知録

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卦辞と爻辞―『易経』の占文の起源

 『易』の経文は卦辞と爻辞で構成されている。では、卦辞・爻辞は如何にして形成されたのか。今回は、その話である。

 

 卦辞は、一卦の意義を総論した占辞である。彖辞とも呼ばれる。「彖」は「断」の意で、一卦の義を断定するという含意があるとされる。これは、彖(tuan)と断(duan)との音が近いことによったものである。卦辞は、各卦の占辞の冒頭に置かれ、きわめて簡略に記されている。多くても二十数字、大有に至っては、「元亨」のたった二字である。卦辞は、主に「元」「亨」「利」「貞」「吉」「凶」を基本とした良し悪しを表す言辞で構成され、卦全体での吉凶を表している。

 

 爻辞は、各六爻に対応する占辞である。であるから、一卦に六つの爻辞が存在する。ただ乾坤のみ、さらに用九と用六の爻があるので、七つの爻辞がある。全部で爻辞は、三百八十四個ある。卦爻は、陽であれば「九」、陰であれば「六」で表され、下の爻から上に順に数えていく。例えば、屯䷂であれば、一番下の爻から初九・六二・六三・六四・九五、上六と呼ばれる。

 

 なぜ陽爻・陰爻は「九」「六」で示されるのか。鄭玄は、『易』は変をもって占うので、変爻である老陽の数「九」と老陰の数「六」を用いたのだとする。また、乾☰の横棒は三本、坤☷の横棒は六本あり、陽は陰を兼ねるので、三と六とを合わせて「九」とし、陰は陽を兼ねることはないので、そのまま「六」としたのだという説もあったようであるが、取るに足りない。その由来ははっきりとはわかっていない。⚊が「七」、⚋が「八」にの数字に由来しているとすれば、「九」「六」と合わせて、老陽・少陽・老陰・少陰の数が揃う。数字卦と関係があるかもしれない。

 

 爻辞もまた、卦辞と同様で、その一爻での吉凶を表すことが多い。爻辞の一つの特徴に、その卦名が備わっていることが挙げられる。蒙卦を例に取ると、その初六に「発蒙」、九二に「包蒙」、六四に「困蒙」、六五に「童蒙」、上九に「撃蒙」とあり、六三を除いて、必ずその卦名である「蒙」が含まれている。ただ卦によって、その卦名が含まれる爻に多寡がある。六爻すべてに卦名が含まれるものは十二卦、五爻に含まれるのが十四卦、四爻に含まれるのが十五卦、三爻に含まれるのが四卦、二爻に含まれるのが八卦、一爻だけみえるのが四卦、全く含まれていないものは、七卦ある。卦名が全く含まれていない卦でも、例えば、乾の爻辞では九三を除いて「龍」の字が含まれているように、爻辞間の類似性は看取できる。ただ、類似する辞が両卦にまたがっていることもみられる。大壮の初九に「壮于趾」とあり、夬の初九には「壮于前趾」、九三には「壮于頄」とあるようにである。このように爻辞の内容は、整然としているとは言いがたい部分がある。また、卦辞・爻辞には押韻がみられ、韻文と散文が混在している形となっている。こうした押韻は、暗唱して伝えられていた名残であり、韻文の部分は古い占辞、散文は新しく補われた占辞であるという指摘もなされている。

 

 それでは、卦辞と爻辞は、どのように形成されたのか。内藤湖南は、爻辞の起源をおみくじだと考えた。筮とは本来、巫が用いたおみくじのようなもので、各々の卦に相当したおみくじがあり、さらに四種か五種に分けられた小名があり、占おうとする者はそのおみくじを引いて、巫から判断してもらったのだと考えた。本来の爻辞は、類似した語句をもった四種か五種ずつに分けられたおみくじであったとする。これは、卦名が含まれる爻辞が五つ以下であることが多いことから着想を得たものである。

 

 さらに内藤説を批判的発展させたのが、武内義雄である。武内は、五条一組の爻辞の古い材料とは、おみくじではなく、亀卜の頌(あるいは繇、うらないのことば)であったと考えた。亀卜の経に「卜経」というものがあり、その「卜経」の亀の色つやによる占辞が五条一組であって、これが爻辞の由来であると推測した。

 

 本田済は、この両者の説を踏まえたうえで、「新しい筮法のために六爻の形が作られて文句の必要が生じた時、それまで伝わっていた古いおみくじの文句、卜辞の残り、それに成語、諺の類を加えて六つにわりふり、なお六に足りないのは作り、まれに六からあふれるものは他の卦へ無理に推しこむなどしてできあがったのが今の爻辞なのである」とする。金谷治も、内藤・武内の説に対し、いずれも示唆に富む貴重な考えとしながらも、卦辞・爻辞に利用された材料は一種に限らないはずだとし、「卦辞・爻辞は、ある程度整理された占辞集かおみくじのことばか、そうしたものを中心にして、それに成語や諺や詩句といったものを取り込み、適当なことばを補足して、六十四卦の全体の数に合わせて配列したもの」だとする。朱伯崑は、「『周易』の原初の素材は占筮の記録に由来し、後に推敲を経て次第に占筮に用いる典籍となった」と述べている。

 

 王家台秦簡『帰蔵』の各卦の占辞は古帝王の占筮例であった。例えば、「䖭曰、昔者殷王貞卜元邦尚毋有咎、而支占巫咸、巫咸占之曰、不吉。䖭元席、投之□(亦+谷)、䖭在北為□(犭+匕)」のようにである。注目すべきは、巫咸の言で、吉凶と卦名を含む占辞で構成されていることである。この特徴は、『易』の卦辞・爻辞と近いものがある。甲骨に刻まれた卜辞にも、卦辞・爻辞と似た占文があることが指摘されている。

 

 また、『易』の爻辞中の「曰」の字が注目されている。例えば、大畜の九三爻辞に「良馬逐、利艱貞。曰閑輿衛、利有攸往」とあり、この「曰」の意味について、これまで「言う」の意味とする説や「日」の誤りとする説など、諸説あった。卜辞やいわゆる『帰蔵』の発見から、これは卜辞や別の占辞を吸収した痕跡だとする説が提出されている。

 

 卦辞・爻辞の起源は、はっきりとはわからない。しかし、先人が指摘してきたとおり、歴代の占筮例から材を取り、まとめたものが、今の卦辞・爻辞であった可能性が高いと言える。

 

 今回はここまで。次回は、孔子が作ったとされる易伝、十翼について話そうと思う。