半知録

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十翼の形成

 孔子が作ったとされる、『易』の解説書、十翼が如何に形成されたのかのという話である。

 

 十翼とは、彖伝上・下、象伝上・下、繋辞伝上・下、文言伝、説卦伝、序卦伝、雑卦伝の七種類、十部分の伝のことである。とりわけ彖伝と象伝が上下に分かれているのは、『易』が上経・下経に分かれているからであり、繋辞伝は、分量の上から上下に分けたに過ぎない。ここで言う「翼」とは、「つばさ」のことではなく、「たすける」という意味で、経文の解釈を助けるといった含意があった。卦辞・爻辞で構成される「経」に対し、十翼は「伝」と呼ばれる。はじめは『易』の経と伝は別行していたが、通行本は卦辞の次に彖伝、爻辞の次に象伝が置かれるなど、混然一体となっている。現在は、双方を含んで『易経』と呼ばれることが多い。

 

 

 十翼は孔子の作とされる。『史記』に、孔子は晩年に易を好むようになり、易伝を作ったとある。『論語』にも「我に数年を加えて、五十にして以て易を学べば、以て大過無かるべし」とある。孔子の『易』への傾倒ぶりは、葦編三絶として有名である。しかし、十翼が本当に孔子の作かと問われれば、そうではないと答えざるを得ない。文言伝や繋辞伝では、たびたび「子曰」で説き始められている箇所がある。孔子の自著ならば、みずから「子曰」と書くだろうか。十翼が孔子の作ではないことは、北宋の欧陽脩が指摘するところである。欧陽脩は、十翼は聖人の作ではなく、一人の言でもない、「子曰」も「師が講じた言」だとみた。

 

 確かに、十翼は、各伝の形式や解釈の相違が指摘されており、一人の手で同時に成ったとは考えにくい。とはいえ、孔子と全く関係がないとはいえない。「子曰」の部分も、当時伝えられていた孔子の言がもとになっていると考えられる。馬王堆漢墓から『易』とともに出土した易伝には、伝世文献にはない易伝が含まれていた。そのうちの二三子問と題された易伝には、「易曰、龍戦於野。其血玄黄。孔子曰、此言大人広徳而施教於民」云々とあった。坤の上六爻辞に対し、明らかに孔子がその意味を解説していることがわかる。こうした発見から、先秦には孔子の『易』解釈が存在していたことが証明されたのである。

 

 では、十翼は先秦には成立していたのか。これは、難問である。そもそも先秦文献には、十翼の呼称や伝名は出てこない。漢に至って初めてみえる。『史記』には「孔子晚くして易を喜び、彖・繋・象・説卦・文言を序す」、『漢書』芸文志には「孔氏 之が彖・象・繫辞・文言・序卦の属十篇を為る」、同儒林伝には「彖・象・系辞十篇の文言を以て上下経を解説す」とある。しかし、すべての篇名が揃っているものはない。そのことから、前漢では今の十翼とは異なっていたのではないかと疑われることになった。

 

 武内義雄は、十翼は重層的になっているとみて、三つの種類に区別した。第一類は、彖伝と小象で、十翼中でもっと古い部分、第二類は、繋辞伝と文言伝で、象伝よりやや後れた文献、第三類は、説卦・序卦・雑卦の三篇で最も新しい部分。第一類から第二類へ、第二類から第三類へと、層一層進化してきたとみた。本田済は、武内の説を受け、やはり十翼を三群に分ける。第一群は、説卦の後半と大象の前半部分。十翼で最古の部分とする。この群は、『易』と儒家がまだ没交渉のときの部分であるとする。第二群は、彖伝と象伝。この群は、『易』に初めて儒家の教義を結び付けたばかりでなく、陰陽説をいちはやく取り込んだ部分とする。第三群は、繋辞・説卦・文言伝。大帝国設立とともに、新しい政治規範たるべき実用理論が要請された。それに答えて、作られたのが繋辞伝だとする。この群の成立は、秦漢より遡ることはできないとする。あとの序卦と雑卦は、漢初の経学者、占筮者の手になるものであろうとした。

 

 説卦伝・序卦伝・雑卦伝の後出性については、よく議論が交わされた。漢の宣帝のとき、河内女子が古い屋敷から逸『易』『礼』『尚書』それぞれ一篇を発見し、奏上した。このとき得たのが、『隋書』経籍志では「説卦三篇」だったとしている。このことから、逸『易』一篇の正体は説卦伝・序卦伝・雑卦伝三篇のことであり、それ以前にはその三篇はなかったのだとされた。だが、この議論に問題点がないわけではない。『淮南子』に「易曰」として序卦伝に似た文句が引用されている。そうすると、漢初には序卦伝はあったことになる。ただ、漢初の文献では、説卦伝・雑卦伝の文は全く引かれず、説卦伝も上述した一例のみである。先秦には十翼としてまとまっていたとは信用できない部分がある。『経典釈文』周易音義の説卦伝と雑卦伝には京氏本との異同が記され、『講周易疏論家義記』には京房が文言伝を四つに章分けしていたことが記されている。梁丘氏本を底本とする熹平石経『周易』には、今の十翼が揃っている。とすれば、今の十翼としての形態は、少なくとも前漢の宣帝(在位前七四年-前四八年)頃には完成していたことになる。

 

 以上のように、これまで彖伝と小象伝は戦国中・後期の成立、繋辞伝と文言伝は秦末から漢初までの間の成立、大象伝・説卦伝・序卦伝・雑卦伝は漢初の成立だとする説が唱えられてきた。しかし、たとえ今の十翼の形になったのが漢代に入ってからだとしても、その内容がそのときに作られたというわけではない。その素材となるものは、やはり先秦には存在していたのである。それが、馬王堆漢墓からの易伝の出土によって確かめられた。

 

 馬王堆漢墓三号墓から発見された帛書『周易』は、「六十四卦」の経文と「二三子問」「繋辞」「易之義」「要」「繆和」「昭力」の伝で構成されていた。それは、一つの帛書に書かれていたわけではなく、「六十四卦」「二三子問」の二篇が写されている帛と、「繋辞」「易之義」「要」「繆和」「昭力」の五篇が写されている帛との二幅があった。帛書『周易』は、三つに分類される。一つは経の部分にあたる「六十四卦」、二つは今の易伝にはない「巻後佚書」、三つは今の繋辞伝と一致する「繋辞」である。

 

 「巻後佚書」は、「二三子問」「易之義」「要」「繆和」「昭力」の今の易伝にはない書のことである。その篇名は、「要」と「昭力」はその篇末に書かれており、それ以外は、整理者が冒頭の字句からつけた名称である。

 

 「二三子問」は、「六十四卦」の後に写されており、その始まりは長方形に黒く塗りつぶされ(「墨釘」と呼ぶ)、篇の隔てを明らかにされている。また節の切れ目ごとに「・」のような円点が打たれている。その内容は、「二三子問曰」から始まる、孔子と弟子との『易』解釈に関する問答である。基本的には「易曰……孔子曰……」の形式で叙述されている。

 

 「易之義」は、繋辞伝の次に書かれており、ここも墨釘で始まりを示されている。『易』の卦や経文の意義を孔子が解説する内容を持つ。また「易之義」に説卦伝の前半部分と同様な記述があることが注目されている。

 

 「要」は、「易之義」の次に置かれ、その冒頭のかなりの部分が残欠している。その篇末には、「要 千六卌八」と、篇名と文字数が記されている。その内容は、孔子と子贛らが『易』と損益の道を講述する。

 

 「繆和」は、「要」の次に置かれ、やはり始まりには墨釘がある。分量は、五千余字ほどである。繆和・呂昌・呉孟・荘伹・張射・李平などが「先生」に『易』について問い、「子」が答える内容を持つ。楚荘王、越王句践、呉王夫差、晋文公の歴史的事件に言及していることが特徴的である。この「先生」「子」が、誰なのか一つの問題となっている。文脈をみる限り、「先生」と「子」は同一人物で、「子曰」と言えば、孔子の言とされるのが一般的である。しかし、孔子死後の人である魏の文侯にも言及されている箇所もあり、問題をややこしくしている。

 

 最後の「昭力」は、末尾に「昭力 六千」とあり、名が知れる易伝である。その篇名は、首句に「昭力問曰」とあり、ここに由来すると考えられる。「六千」とあるが、「昭力」自体は九百字程度であり、その前の「繆和」との合数だとされる。「昭力」の始まりには墨釘はなく、「繆和」と「昭力」は一連の伝だとみなされていたと考えられる。また内容の句切れに「・」が打たれており、三章で成り立っている。「昭力」は、昭力の『易』に関する問いに孔子が答える形式で書かれている。

 

 「繋辞」は、篇名の記載はないが、繋辞伝と大部分が一致することから、そう名付けられた。分量は、六千七百字ほどである。冒頭には墨釘があり、現行本のように上下篇には分かれていなかった。「繋辞」には、今の繋辞伝にはあって「繋辞」にはない箇所、「繋辞」にはあって今の繋辞伝にはない箇所もある。とりわけ「大衍之數」の章がごっそり抜け落ちていることが注目された。「繋辞」が出土したとはいえ、現行本の繋辞伝とは全く一緒というわけではなかったのである。そうしたことから、その先後関係について議論が交わされた。帛書「繋辞」の方が古いとする者、今の繋辞伝の方が古いとする者、帛書「繋辞」と今本繋辞伝は異本とする者。それぞれの主張に一長一短あり、解決をみていない。結局、帛書「繋辞」と今本繋辞伝の二つの指標しかないことが問題で、議論の進展には新たな繋辞伝の発見を待つしかない。

 

 以上の帛書『周易』の発見から、十翼以外の易伝が存在していたことが明るみとなった。十翼の成立に関して見直しが迫られた。なぜ「二三子問」「易之義」といった易伝が十翼に含まれなかったのか、どのような基準で十翼に選定されたのか、といった問題が出てきたのである。またこれまで繋辞伝は秦末漢初に成立したのだとされることがあった。今やこの説を採る者はいない。繋辞伝の文章は、先秦時代にはあったことは確実である。十翼の内容は、これまでの想定より古かった。しかし、先秦には十翼が成立していたことが証明されたというわけではない。十翼を構成する材料は、先秦に存在していたと言えるのみである。

 

 清華簡『筮法』にも注目すべき記載があった。その「爻象」と名づけられた節には、八・五・九・四の数字爻に象徴を分配した記述がみられた。「八為風、為水、為言、為非鳥…」のようにである。象徴を列記する内容は、説卦伝と非常に酷似する。説卦伝の前半部は「易之義」にすでにみえることもあって、説卦伝は、宣帝のときに現れたとされて怪しまれてきたが、その内容はやはり先秦にまで遡れるのではないかと思う。

 

 十翼がいつ成立したのかは、いまだ研究の途上にある。今のところ言えることは、十翼は、一度に一人の手になったものではなく、長い時間をかけて形成された。その内容は先秦時代にまで遡りえ、前漢中期までには十翼としてまとめられていた、ということである。

 

 今回で、『易経』の成立の話は最終回である。数回にわたって、なるべく最新の研究成果を踏まえ、妥当な線を描いたつもりである。昨今の陸続と発見される出土文物によって新たな展開を見せていることを知っていただけと思う。『易経』の形成についてはまだまだ解明されていないことが多い。ここで書いたことが、数年後には成り立たなくなっている可能性もある。もっと詳しく知りたい人は、『百年易学菁华集成』シリーズを読むことをおすすめします。ただし、高価で、日本で所蔵する機関は少ないです。