半知録

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虞翻の生没年に対する疑義

  虞翻という人物を知っている人は少なくないと思う。三国志などのゲームに登場するからである。しかも、そこそこ強い。虞翻は、呉の孫策孫権に仕えた人物である。虞翻の生没年は、ゲーム内や辞書でも164年-233年とされる。しかし、『三国志』呉書・虞翻伝を読むと、どうもおかしい。その生没年と合致しない記述がみられるのである。そこで、すこし虞翻の生没年を再考してみたい。

 

 まず虞翻の略歴を『三国志』呉書・虞翻伝をもとに述べておこう。虞翻 、字は仲翔、会稽郡の余姚の人。虞翻は、幼くして学問を好み、気高い心を持っていた。十二年のとき、ある客が虞翻の兄に会いに訪れたが、虞翻のもとには寄らなかった。虞翻は、その人物に手紙を送り、そのことを詰った。手紙を受けた客は、その内容の非凡さに驚き、それ以後、虞翻の評判が高くなったという 。初め、虞翻は、太守の王朗のもとで役人を務めていた。そのおり、孫策が会稽郡に軍を進めてきた。王朗はそれに戦ったが、戦いに敗れ、海上に逃げた。虞翻も王朗に付き従ったが、王朗の助言を聞き入れ、会稽郡に戻り、孫策のもとで働くことになる 。孫策の死後、虞翻は茂才に挙げられ、漢の朝廷に召され侍御史となる。曹操が司空となると、虞翻を幕府に招こうとしたが、虞翻は拒絶し、孫権に仕えることにする 。虞翻は、簡単に人と妥協せず、粗忽で実直な性格であったことから、反感を買うことが多かった。たびたび孫権をも怒らせ、ついには南方に放逐されることになる 。放逐されても、学問に倦むことはなく、その門下生はつねに数百人にも上った。著述にも励み 、数々の書物に注釈をつけた 。虞翻は、南方にいること十数年、七十歳でその地で亡くなる。

 

 さて、虞翻の生没年で問題となるのが、虞翻伝の注に引く次の『虞翻別伝』の記述である。

権即尊号、翻因上書曰、…臣伏自刻省、命軽雀鼠、性輶毫釐、罪悪莫大、不容於誅、昊天罔極、全宥九載、退当念戮、頻受生活、復偷視息。臣年耳順

孫権が皇帝を名のるようになったとき、虞翻は、その機会をとらえて上書をし、次のようにいった、「…伏してみずからを深く反省いたしますに、わが生命は雀や鼠よりも軽く、一厘一毛ほどのものにすぎませぬのに、罪はたとえようもなく重く、誅殺を被っても当然でありますところ、天恩はかぎりなく広大に、死すべき命を許されてすでに九年となりました。御前より退いて誅戮さるべき罪を思いめぐらせるがよいとのおぼしめしで、なんとか生命だけはお助けくださり、これまで生を盗んでまいったのでございます。臣は、年耳順(六十)にもなりましたが…」(小南一郎訳)

 孫権が皇帝を名乗ったのが、黄龍元年(229年)のことである。そのとき、虞翻耳順すなわち六十歳だと言っている。死すべき命を許されて九年と言っているので、南方に放逐されたのが、五十一、二歳の頃だと推される。虞翻は、七十歳に卒したというので、黄龍元年の十年後、すなわち239年に亡くなったことになる。すると、その生年は、逆算して170年となる。虞翻の生没年は、170年-239年となるはずである。

 

 また孫権が武将や士卒たちを遼東に派遣したが、海上で暴風に遭い、多くが沈没してしまう出来事が起こった。孫権は後悔すると、詔を出し、「虞翻がここにいてくれれば、こんなことは起こらなかっただろう」とし、虞翻がもし生きていれば連れ戻すよう命じた。しかし、そのとき虞翻はすでに世を去っていたという。この出来事は、赤烏二年(239年)に遼東に援軍を派遣したときのことであろう。そうすると、孫権が連れ戻そうとしたちょうどそのとき、虞翻は亡くなっていたことになる。

 

 164年-233年説は、どこに由来し、どのように推定したのかよくわからなかった。虞翻伝を読む限り、170年-239年が妥当のように思えるのだがどうであろうか。歴史上の人物の生没年を記すとき、辞書などに書かれていることをそのまま鵜呑みにしてしまう。しかし、よく調べてみると、間違っていたり、根拠薄弱であることが意外とあるのではないだろうか。虞翻もまたその一例なのかもしれない。

 

附記

 虞翻の生没年に関して、黄嘉琳「虞翻易學的氣論思想研究」(中国文化大学文学院中国文学係博士論文、二〇一四年)をご紹介いただいた。感謝申し上げます。

 

 その第二章第一節「三、虞翻生卒年考」において、虞翻の生没年に関して四つの説を挙げている。

 

(一)漢桓帝延熹六年至呉大帝嘉禾元年(163-232)

 嘉禾元年(232年)三月、孫権は周賀や裴潜を海を越え遼東に派遣した。その九月、魏将田豫に要撃され、周賀は斬られてしまう。これが、孫権が、虞翻が側に居てくれればと悔いた出来事なのであり、連れ戻そうとしたとき、虞翻は亡くなっていたことから、延熹六年至呉大帝嘉禾元年(163-232)の生没年を導き出す。

 

(二)漢桓帝延熹七年至呉大帝嘉禾二年(164-233)

 嘉禾二年(233年)三月、孫権は張彌・許晏・賀達ら将兵万人を率い、財宝を携え、海を越えて遼東に派遣し、公孫淵の歓心を買おうとした。しかし、公孫淵は張彌らを斬って、兵士や財宝を奪い取った。これが、孫権が、虞翻が側に居てくれればと悔いた出来事なのであるとする。そこから、虞翻の生没年を漢桓帝延熹七年至呉大帝嘉禾二年(164-233)と定める。

 

(三)漢霊帝建寧三年至呉大帝赤烏二年(170-239)

 これは、上述した議論と同じなので、繰り返さない。

 

(四)漢霊帝熹平元年至呉大帝赤烏四年(172-241)

 孫登が臨終の際、上疏して「蔣脩・虞翻、志節分明」と言い、孫登は孫権に師である虞翻を用いることを願った。赤烏四年(241年)のことである。そこで、孫権虞翻の罪を赦して連れ戻そうとしたが、虞翻はすでに亡くなっていた。そのことから、虞翻は赤烏四年(241年)に亡くなったとする。

 

 虞翻の生没年に異説が生じたのは、孫権が、虞翻が側に居てくれればと後悔した遼東の派遣をどの出来事に定めるかが原因だったことがわかる。孫権は、何度も遼東に士卒を海を越えて派遣しているのであった。

 

 これら諸説を踏まえたうえで、虞翻の生没年をもう一度考えてみると、やはり(三)の170年‐239年説が最も妥当のように思う。孫権が皇帝を名乗った時の虞翻の上奏文の内容と遼東の派遣を同時に満たせるのは、赤烏二年(239年)しかないからである。今回、紹介した論文の著者の黄嘉琳も、170年‐239年説を支持している。