半知録

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『群書治要』についてー②

 

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 今回は『群書治要』「尾張本」について略述して行きたいと思います。「尾張本」(或いは「天明版」)は天明7年(1787)に尾張で刊行された整版を指します。その刊行過程については、「尾張本」冒頭、天明七年林信敬「校正群書治要序」に次いで付されている、天明五年細井徳民「刊群書治要考例」にその大要が明らかですので、こちらを少し見ていきたいと思います。

 

謹考國史、承和、貞觀之際經筵屢講此書、距今殆千年、而宋明諸儒無一言及者、則其亡失已久。…伹知金澤之舊藏亦缺三本、近世活本亦難得、如其繕本、隨寫隨誤。勢世以音訛所處以訓謬、間有不可讀者。我孝昭二世子好學、及讀此書、有志挍刊、幸魏氏所引原書、今存者十七八。乃博募異本於四方、日與侍臣照對是正、業未成、不幸皆早逝。今世子深悼之、請繼其志、勗諸臣、相與卒其業。於是我公上自內庫之藏、㫄至公卿大夫之家、請以比之、借以對之、乃命臣人見桼、…臣岡田挺之…臣德民等、考異同、定疑似。臣等議曰「是非不疑者、就正之。兩可者、共存。」又「與所引錯綜大異者、疑魏氏所見、其亦有異本歟。」又「有彼全備、而此甚省者、葢魏氏之志、唯主治要、不事修辭、亦足以觀魏氏經國之器、規模宏大、取舍之意、大非後世諸儒所及也。今逐次補之、則失魏氏之意、故不為也。不得原書者、則敢附臆考以待後賢。」以是為例、讎挍以上。天明五年乙巳春二月乙未尾張國校督學臣細井德民謹識*1

 

 これは前回の繰り返しとなりますが、宋明に至って夙にその書は散佚し、旧金沢文庫伝来の鎌倉時代の旧鈔本(「金沢本」)を底本に、銅活字によって元和2年(1616)に刊行された「元和本」がその印本の嚆矢でありました。それから距たること171年後の天明7年にその「元和本」を底本に刊行されたのがこの「尾張本」です。上記の「考例」によりますと、孝昭二世子、即ち尾張藩九代藩主徳川宗睦(1733~1800)の二世嗣、治休(1753~1773)、治興(1756~1776)はこの『群書治要』を読み、校刊の志があった。そこで『群書治要』に徴引される所の現存書を四方(広く周囲)から集めさせ、日々侍臣と対校を行っていた。だが、不幸にも二世嗣は志半ばで流行病により夭折してしまう。その志は宗睦の養世嗣、治行(1760~1793)に引き継がれ、天明7年にその完成を見るという。ただ、天明5年にこの「考例」が提出されたということは、大本となる稿本は出来上がっており、その上で再度、上記の「考例」に従い整理を加えたということなのかもしれません。

 

 さて、次はその校勘方針についてみていきたいと思います。

 ①「是非不疑者、就正之。兩可者、共存。」

 先に注意しておくと「考例」に「幸魏氏所引原書、今存者十七八。博募異本於四方」(幸いにも魏氏(魏徴)が編纂の際に引いた所の原書のうち、現在7~8割程度現存している。そのため広く周囲より異本を募った。)とあることから考えると以下に見える「考例」はすべて原書と『群書治要』との校勘において、と理解して問題ないと思われます。ただ、この刊校に際して、「金沢本」或いは他の『群書治要』が用いられたか否かについては、もう少し考えてみなければなりません。

 さて、①の「考例」は、是非の判断において、(原書との対校の上)疑いの余地なく(『群書治要』の本文が)誤りと思われるものについてはそれを改め、彼此に異同があるものの、双方とも可と思われるものについては、双方を残す、と理解してよいでしょう。

 

 ②「與所引錯綜大異者、疑魏氏所見、其亦有異本歟。」

 これは、『群書治要』が引く所と原書との間に何等かの錯綜がある、或いは大きく異同がある場合には、編纂当時、魏徴が見た該本は現存本と異なる系統のものであったことを疑い、それを改めないということでしょうか。

 

 ③「有彼全備、而此甚省者、葢魏氏之志、唯主治要、不事修辭、亦足以觀魏氏經國之器、規模宏大、取舍之意、大非後世諸儒所及也。今逐次補之、則失魏氏之意、故不為也。不得原書者、則敢附臆考以待後賢。」

 『群書治要』は「類書」の性格を持ち合わせるものですから、その引用文は概ね原書から抄写(抜き書き)されたものです。ただ、その中から何を採り何を採らなかったかを見ることは、魏徴等の編纂方針を窺う手掛かりとも言えます。つまり、その取捨選択に「魏氏之意」を読み取れるということです。そのため「尾張本」の校勘に際しても、その抄写に対して原書を用いて補うということはしないということでしょう。ただ、原書を得られないものについては「敢えて臆考を附して以て後賢を待つ」という方針を示しており、言わば積極的な態度とも言えます。

 

 さて、「考例」を見る限りにおいてその刊校は、魏徴等が編纂した『群書治要』の原貌を尊重し、「隨寫隨誤。…間有不可讀者」(写すれば写するたびに誤りが生じ、一部読むことのできない箇所がある)の状態にあったものをその原貌に帰すことに重点を置いて行われたものと見ることができます。しかし、その実際は原貌を尊重したものとは思い難い改変が施されています。この具体例については次回に回すことにして、以下にもう少し尾張藩における『群書治要』についてご紹介しておきたいと思います。

 

 尾崎論文によると、寛永18年(1641)には既に「元和本」が尾張に齎されており、尾張藩の藩儒であった江戸初期の儒者杏庵 (1585~1643)による校点が加えられていたものがあったようですが、明治維新に際し散佚してしまったようです。また、上述の藩主徳川宗睦、『書紀集解』で著名な尾張藩士河村秀根(1723~1792)の兄、河村秀穎(1718~1783)らの「元和本」を底本としたとされる、写本が残されており、尾張においては早くから重宝されていたことを窺わせます。また尾張藩では「尾張本」刊行の天明7年以降も、幾度か追刷が行われた中で、寛政三年(1791)に大規模な印行が行われたようで、これを「寛政三年本」と言います。この「寛政三年本」は正確には「天明版」の修本であり、全巻に渉って本文より眉上・欄外の校語に至るまで補修が施されています。なお、清国へ輸出された『群書治要』は尾張藩刊行の上記二種であって、寛政8年(1796)に輸出され、道光27年(1847)刊の『連筠簃叢書』所収本は「寛政三年本」を底本に、咸豊7年(1857)『粤雅堂叢書』第26集所収本および『四部叢刊』所収本は「天明版」を底本にという具合であります。

 

 今回はこのくらいにして、次回は「尾張本」の改変について具体例を挙げながらみていきたいと思います。

 

 

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*1:「四部叢刊本」に依る。