蝶と蛾のはざま
・蝶と蛾の違いって何だろう?
蝶は綺麗で、蛾は汚い。
蝶は昼間に活動するが、蛾は夜に活動する。
蝶は羽を立てて止まるが、蛾は羽を広げて止まる 。等々。
しかし、分類学上、蝶と蛾は同じ鱗翅目で区別されない。
蝶と蛾を区分けしない言語だってある(フランス・ドイツなど)。
蝶と蛾に分けなくてもよかったわけである。
でも、日本では分けている。
なぜ?
蝶と蛾の区別は、日本の問題というより、中国の文脈で考えなくてはならない。
中国にも蝶と蛾の区分けが存在しているからである。むしろそちらが本場である。
日本は、蝶と蛾の漢字を受容し、中国の分類をそのまま受け取ったに過ぎない。
・蝶と蛾の区分けが生じた原因を求めるにはどうしたらよい?
「蝶」と「蛾」を表す漢字が、どのように認識されてきたから導き出せるのではない
か。 中国・日本での「蛾」と「蝶」の用例を収集し、そこに通底する認識を探れば、
蝶と蛾の区分けが生じた原因が分かるではないだろうか。
・「蛾」の用例
中国
『説文解字』虫部:蛾、羅也。 同虫部:𧒎、蚕化飛虫。
『爾雅』釈虫:䖸、羅。郭樸注:蚕䖸。疏:此即蚕蛹所変者也。
『玉篇』:蚕蛾也。
『類篇』:蚕化飛虫。
『斉民要術』:蚖珍三月既績、出蛾取卵、七八日便剖卵蚕生。
中国最古の字書である『説文解字』では、「蛾は、羅である」と言う。しかし、
「羅」が何を指すのか今ひとつ分からない。そこで、『爾雅』を見ると、「䖸は、羅
である」、晋の人である郭樸の注に「蚕䖸」とある。さらにその郭樸注に対する注に
は、「これは蚕蛹が変態したものである」と言っている。つまり、「蛾」とは蚕蛾を
指すと言うのである。また『説文解字』の「蛾」の別字である「𧒎」には、「蚕が飛
虫に化したものである」というのも、まさに蚕蛾を指している。『玉篇』『類篇』
『斉民要術』の「蛾」の用例も、蚕蛾を意味している。
日本
『篆隷万象名義』:蝅。
『新撰字鏡』:螘也、蟻也、安利(あり)、比々留(ひひる)。
『輔仁本草』:螈蚕蛾…和名比々留。
『倭名類聚鈔』:説文云、蛾【音峩。和名比々流】、蚕作飛虫也。
日本での「蛾」の用例も見てみると、大体、中国の書籍の孫引きで、中国の認識を踏
襲している。
一つ気になるのが、『新撰字鏡』で「蛾」に「蟻也、安利(あり)」という読みを
与えている点である。蟻(あり)と言えば、もちろんあの黒くて小さい昆虫のことを
指している。蟻は昔は「蛾」と呼ばれていたのだろうか。すごく違和感がある。少し
調べてみると、蚕の生まれたばかりの幼虫は「蟻蚕」と呼ばれる。それは、黒くて小
さく、蟻に似ていることから来ている。ここで言う「蟻也、安利(あり)」は、蟻そ
のものではなくて、蚕の幼虫である蚕蛾を指していると思われる。すると、やはり
「蛾」は蚕と結びつきが強い。
以上のことから、「蛾」は、基本的に蚕蛾のことを指していたと結論づけられる。
そして蚕蛾は、私たちが「蛾」として認識する典型的な容貌を有している。
・「蝶」の用例
中国
蝶 『玉篇』:蝶、胡蝶也
『南方草木状』:是媚草上有蟲。老蛻為蝶、赤黄色。
蛺・蜨 『説文解字』虫部:蛺蜨也
蛺蝶 『古今注』:蛺蝶、一名野蛾、一名風蝶。江
東人謂鳥撻末。色白背青者是。
其有大於蝙蝠者、或黒色、青斑
大者、曰鳳子、一名鳳車、亦曰鬼車。
生江南柑橘園中。
中国での「蝶」の用例は、それほど多くない。『玉篇』には「蝶は、胡蝶である」と
あり、「蝶」はチョウチョと認識していたと見えるが、「胡蝶」とあるだけでそのよ
うに考えるのは早計である。当時の認識は今と異なっていた可能性があるからであ
る。
晋ごろの著作だとされる『南方草木状』には、「これは、媚草の上にいる虫であ
る。老いて脱皮し蝶となり、その色は赤黄である」とある。この「蝶」は、まさにチ
ョウチョのことを言っている。
「蝶」の類義語の「蛺・蜨」に対し、『説文解字』は、「蛺蜨のことである」と言
ってるが、今ひとつ掴めない。晋の崔豹撰だとされる『古今注』には、「蛺蝶は、一
名野蛾、一名風蝶。江東人は鳥撻末と呼んでいる。その色は白で背は青であるもの
が、そうである」云々とあり、モンシロチョウといったチョウチョを指していると考
えられる。
『古今注』で注目されるのが、「蛺蝶」に「野蛾」という別名があったことであ
る。では、なぜ「野蛾」と呼ばれていたのか。もし「蛾」が蚕蛾のことを指している
とすると理解できる。蚕は完全に家畜化され、人間の手助けなしでは生きられない体
にされていた。蚕蛾は、羽はあるが全く飛べない。蚕は、自然界には居らず、人間の
住む屋内で飼われていた。一方、チョウチョは、主に自然界に生息し、野原で華麗に
飛んでいた。「野原にいる蚕蛾に似た生きもの」としてチョウチョが「野蛾」と呼ば
れたものと思われる。
ここで重要なのは、「蛾」のイメージをもって「蝶」を説明していることである。
その逆は見られない。つまり、「蛾」を基準として「蝶」を区別していたのである。
日本の用例
蝶
『篆隷万象名義』:蛱。
『新撰字鏡』:蛱也。加波比良古(かはひらこ)。
『倭名類聚鈔』:蝶、兼名苑云、蛺蝶、頰蝶二音。
一名野蛾。【形似蛾而色白者也。】
日本での「蝶」の認識は、中国と同じである。『倭名類聚鈔』に「形は蛾に似て色
は白いものである」とあり、今と変わらない認識であったことが分かる。ここで言う
「蛾」も蚕蛾として捉えるべきであろう。
以上のことから、次のように結論づけられる。
蛾:蚕の成虫。蚕蛾。
蝶:野原にいる蛾(蚕蛾)に似た色鮮やかな生きもの
・蝶と蛾の区別の仕方
蚕の成虫(蚕蛾)に似ているか、似ていないか
古くは、中国あるいは日本では、蚕蛾に似ている生きものを「蛾」と呼び、蚕蛾に
形は似ているが容貌が大きく異なる生きものを「蝶」と呼んで区分けしたものと考え
られる。
本来、区分けする必然性がないものに「蛾」と「蝶」の区別が生じたのは、中国に
養蚕の文化があったためだと考えられる。蚕が身近なものであったため、蚕の成虫を
基準に、似ている生きものとしての「蛾」と似ていない生きものとしての「蝶」とい
う区分けが生じたと思われる。
子供に、これは「蝶」と「蛾」どっちなの、と問われれば、次のように答えるべき
なのかもしれない。
蚕蛾を見て。似ていると思えば、それは「蛾」だ。似ていないと思えば、それ
は「蝶」だよ、と。