半知録

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漢代揲筮考(一)

 中国古代の占い書である『易』は、蓍または筮竹といった長い棒を使って卦を導き出し占う。日本の易者は、和服を着て、利休帽をかぶり、机の旁に筒に入った複数の棒が置かれることによって表される。その棒こそ易占で使う筮竹を表している。その棒があることこそ、易者だと分かる。

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 卦爻を導くための蓍の数え方を「揲筮法」と呼ぶ。『易』の揲筮法は、繋辞伝の「大衍之数」の章に記されているとされる。とはいえ、「大衍之数」の章の記述は簡略に過ぎ、その解釈は一つではなく、後世、複数の揲筮法が案出された。今回は、その「大衍之数」が、とりわけ漢代にどのように解釈されてきたのかをまとめる。

 

まず、「大衍之数」の章の揲筮法に関係する箇所を挙げる。

 

大衍之数五十、其用四十有九。分而為二以象両、掛一以象三、揲之以四以象四時、帰奇於扐以象閏。五歳再閏、故再扐而後掛。

 

 このわずか五十字足らずで揲筮法の基本的な動作が言い尽くされている。なお、一九七三年、馬王堆漢墓から出帛書『易経』および易伝が出土した。その易伝には、十翼にはない易伝も存在する一方で、繋辞伝や説卦伝と一致するものが含まれていた。しかし、その繋辞伝には、「大衍」の章がちょうど抜け落ちていた。そのことから、「大衍之数」の章は、先秦には成立しておらず、後世に付け加えられたものではないかと疑われることがある。その是非はいまだ解決されていないが、京房が「大衍之数五十」に対し注釈を付け、劉歆の『三統暦』に「大衍之数」の章の文が引いていることからすると、前漢末ごろにはあったことは間違いない。

 

 冒頭の「大衍之数五十」とは、占筮で使う蓍の数を表しているとされる。「大衍」については、鄭玄は「衍、演なり」とし、王弼も「天地の数の頼る所を演ずる者」と注している。大いにおしひろげた数といった意味となる。では、なぜ「五十」なのか。これには様々な説がある。京房は十干と十二支、二十八宿を合した数だとし、馬融は太極から次々と生じる、両儀、日月、四時、五行、十二月、二十四節気を合した数だとし、荀爽は八卦にはそれぞれ六爻あり、六八四十八、それに乾坤の用九・用六を足した数だとし、鄭玄は天地の数である五十五から五行の五を引いた数だと言う。漢末三国の人である姚信や董遇は、「五十」は繫辭伝の「天地の数五十有五」のことを意味するのだとし、その「五十有五」から六爻の数を引いて、四十九の数となるだととする。虞翻もまた、「大衍之数五十」は、天地の数の「五十有五」の端数を略した数だとみなしている]。しかしながら、孔頴達が「五十の数、義に多家有り、各おの其の説有り、未だ孰れか是なるかを知らず」とさじを投げたように、もはやその真意は分からない。

 

 ただ、爻を導くときに五十本すべてを使うわけではない。「其の用は四十有九」とするように、一本は除かれる。この除かれる一本にも、さまざまな解釈が存在する。京房は、用いない一本は、天の生気に実をもたらす虚であるとし、荀爽は、乾初九に「潜龍勿用」とあるので一本を用いないのだとし、馬融は、太極は北辰のことを指し、北辰はその場所を動くことはないので、その余りの四十九で運用するのだとしている。王弼は、『易』の万物の根源である太極を表すとして除かれるとする。孔頴達は、「五十」全体で太極を表し、その内、一を用いないのは太極の虚無であるからだとしている。だが、一本を取り除く操作は、決して思想面のことからではない。もし五十本で、以下、述べるような揲筮を行うと、老陰となる二十四策が出てこなくなる。実用面での必要に駆られた操作でもある。

 

 その次の「分而為二以象両」以下は、蓍四十九本のさばき方を述べたものとされる。まず「分けて二と為し」とは、読んで字のごとく、蓍四十九本を両手で二つ分けることである。孔頴達は、「四十九を分けて二と為し、以て両儀を象る」とする。「両儀」とは、繋辞伝の「易に太極有り、是両儀を生ず」によるもので、天地のことを指す。つまり、蓍を二分することは、天地になぞらえたものとするのである。孔頴達は、左手の蓍は天、右手の蓍は地を表しているのだとしている。このことから、左手の蓍は天策、右手の蓍は地策と呼ばれる。 

 

 「一を掛けて以て三を象る」とは、二分した蓍の内、天を表す左手から一本を取り、小指と薬指の間に掛けることである。「三を象る」とは、右手と左手、そしてそこから除いた一本で、三才(天地人)を表すという意味である。であるから、小指と薬指の間に掛けた一本が人を表している。この一本は、人策と呼ばれる。

 

 「之を揲するに四を以てし、以て四時を象る」とは、四十九本を両手に二分し、さらに一本を除いた蓍をそれぞれ四本ずつ取って数えていくこととし、それは四時(春夏秋冬)になぞらえたものだとする。

 

 その次に「奇を扐に帰して以て閏を象る」とある。孔頴達は、「奇」とは四ずつ取ったときの余った蓍のこととする。また「扐」は、小指と薬指の間に掛ける行為、すなわち小指と薬指の間に掛けていた一蓍のことを指すとする。「奇を扐に帰」すとは、天を象徴する左手の蓍を四本ずつ数え、余った蓍を小指と薬指の間に掛けていた一本と合わせることだとする。それが、閏月を表しているのだという。馬融は、「扐」を「指間を云う」としている。小指と薬指の間に掛けた一蓍を指すという意味か。虞翻は、孔頴達の解釈とは逆で、「奇」が小指と薬指に掛けて置いた一蓍だとし、「扐」が両手で分けた蓍を四ずつ数えて出た余りだとする。そして「奇を扐に帰して以て閏を象る」とは、小指と薬指に掛けた一蓍と両手の蓍をそれぞれ四ずつ数えて出た余りとを合して、左手の小指と薬指の間に掛けることだとする。孔頴達は左手の蓍だけ数えて余りを合し、虞翻は両手の蓍を数えて両方の余りを合するとする相違がある。なお四ずつ数えたとき、ちょうど余りが出なかった場合、余りはゼロとするわけではなく、四とみなす。

 

 「五歳再閏、故に再び扐して後掛く」とは、前の左手に持っている蓍で行ったが、今度は右手に持っている蓍で行うことを述べたものである。右手の蓍を四ずつ数えていき余った蓍を、左手での余った蓍と小指と薬指の間に掛けていた一本を合したものに、さらに加えるとする。これが「五歳再閏」すなわち五年に二度の閏月があることになぞらえているのだとする。以上までの操作を「一揲」あるいは「一変」と呼ばれる。ここも、虞翻の解釈はやや異なっている。「五歳再閏、故に再び扐して後掛く」とは、前の左手の小指と薬指の間に掛けた蓍をそのまま掛けて置いて、その残りの蓍で再び両手で分け、一蓍を取り、四ずつ数えて余りを出し、一蓍とその余りを左手の薬指と中指の間に掛ける。これが「再閏」なのだという。また同様に、再び蓍を両手で分け、同様に四ずつ数えて余りを出し、その余りを今度は左手の中指と一指し指の間に掛ける。これが「後掛」という意味なのだとする。

 

 次回は、漢代はどのように揲筮を行っていたのかを考えてみる。