半知録

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『日知録』易篇訳「朱子周易本義」②

【要旨】

費直・鄭玄・王弼によって、伝が経の卦爻の下に附されるようになり、乱されてしまった。程頤の『周易程氏伝』ではこの形によったが、朱熹の『周易本義』に至って古形に帰った。しかし、明朝の『易経大全』では、『周易本義』の巻次が切り離され、朱熹が定めた古形がまた錯乱した状態に戻ってしまったことを嘆く。

 

【原文】

自漢以來、爲費直・鄭玄・王弼所亂、取孔子之言、逐條附於卦爻之下。程正叔傳因之、及朱元晦本義始依古文、故於「周易上經」條下云、「中閒頗爲諸儒所亂、近世晁氏始正其失、而未能盡合古文。呂氏又更定、著爲經二巻、傳十巻、乃復孔氏之舊云」。洪武初、頒五經天下儒學、而『易』兼用程・朱二氏、亦各自爲書。永樂中、修『大全』、乃取朱子卷次割裂、附之程『傳』之後、【『易經大全』凡例曰、「程『傳』『本義』既已並行、而諸家定本、又各不同、故今定從程『傳』元本、而『本義』仍以類從。】而朱子所定之古文仍復殽亂。

 

【日本語訳】

漢より以来、〔『易経』は〕費直・鄭玄・王弼らによって乱され、孔子の言を取って、条ごとに卦爻の下に附された。程頤の『伝』ではそれにもとづいたが、朱熹の『周易本義』に至って初めて古文に依拠することになった。それゆえ〔『周易本義』の〕「周易上経」の条の下において、「経と伝の間は諸儒によって乱されることになり、近世の晁説之が初めてその失を正したが、それでもなおことごとくは古文に合致させることはできていない。呂祖謙はまたさらに定め、〔『古周易』を〕著して経二篇、伝十巻となし、そうしてはじめて孔子の旧に復すことになった」と言うのである。洪武の初、五経を天下の儒学を学ぶ学校に頒布し、『易』は程頤の『伝』と朱熹の『本義』を用い、それでも〔一つにまとめるのではなく〕おのおの一書であった。永楽年間、『周易伝義大全』が編纂され、そうしてはじめて朱子の巻次を取って切り離され、程頤の『伝』を引いた後に附されて、【『易経大全』の凡例に「程頤の『伝』・朱熹の『本義』は並びに通行するが、諸家の定本はおのおの同じではなかった。そこで今、程頤の『伝』の元本に従うと定め、『本義』は当該箇所に附す」と言っている。】朱子が定めた古文の形がまた錯乱した状態に戻ったのである。

〔続く〕

 

【解説】

 誰が最初に経と伝とを雑えたのか、これまでいろいろ議論がなされてきた。ここで言及されているように、前漢末頃の人で古文『易』を伝えたとされる費直、あるいは後漢の大儒である鄭玄、またあるいは三国魏の人で義理易を代表する王弼であるとするのが、代表的な説である。ただ、どれも決定的な証拠に欠け、はっきりとは分からないのが現状である。現在の『易』は、王弼注本にもとづき、例えば、卦辞の次に彖伝、爻辞の次に象伝が置かれるように、経と伝とが渾然一体となっている。

 宋代になると、古文『易』復興運動なるものが盛んとなる。すなわち、『易』の旧来の形である経と伝とが截然と分かれた状態に戻すという運動である。晁説之や朱熹、呂祖謙らは、古文の形と称し、上下経の後に十翼を置く形に戻した。ただ、その並べ方は人によって若干異なっている。

 明の永楽年間に編纂された『周易伝義大全』は、程頤の『伊川易伝』(または『程氏易伝』)と朱熹の『周易本義』とを合刻した本ではある。しかし、その篇次は朱熹が定めた古文の形には従わず、王弼注本に依拠している。顧炎武は、これを退行と見たのである。

 なお、顧炎武は、この条を書くに当たって、明・胡広編『周易伝義大全』の凡例に多く依拠している。