半知録

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『日知録』易篇訳「自邑告命」

自邑告命

〔要旨〕

邑とは、人主が居る場所である。『易』で言う「邑」は、すべて内政のことに関係している。

 

〔原文〕

人主所居謂之邑。『詩』曰「商邑翼翼、四方之極」、『書』曰「惟尹躬先見於西邑夏」、曰「惟臣附於大邑周」、曰「作新大邑於東國洛」、曰「肆予敢求爾於天邑商」【武王之妃謂之邑姜。】、『白虎通』曰、「夏曰夏邑、商曰商邑、周曰京師」、是也【『周官』始以四井爲邑。】。泰之上六、政教陵夷之後、一人僅亦守府、而號令不出於國門、於是焉而用師、則不可。君子処此、當守正以俟時而已。桓王不知此也、故一用師、而祝聃之矢遂中王肩。唐昭宗不知此也、故一用師、而邠岐之兵直犯闕下。然則保泰者、可不豫爲之計哉。

『易』之言「邑」者、皆内治之事。夬曰「告自邑」、如康王之命畢公、「彰善癉惡、樹之風聲」者也。晉之上九曰「維用伐邑」、如王國之大夫、「大車檻檻、毳衣如菼」。國人畏之而不敢奔者也。其爲自治則同、皆聖人之所取也【比之九五「邑人不誡」、是亦内治修而遠人服之意。】。

 

 〔日本語訳〕

人主の居るところを邑と言う。『詩経』に「殷の邑は礼俗がよく整っていて盛大であり、四方の民はこれに倣う」とあり、『尚書』には「尹の身は、西邑の夏に見えた」、「大邑周に帰服した」、「新しく大邑を東国の洛水に造ろうとした」、「それゆえわたしは汝らを大邑の商に求めたのだ」とあり、【武王の妃を邑姜と言う。】『白虎通』には、「夏〔の首都〕は夏邑と呼ばれ、商は商邑と呼ばれ、周は京師と呼ばれる」とあるのが、それである。【『周官』において始めて四井を邑と〔単なる土地の区分と〕なされた。】泰の上六は、政教が次第に衰えていった後であり、ただ一人だけで内府を守り、号令だけを出して国門から出でず、この状態で軍を率いれば、よい結果にはならない。君子はこの状況にあって、中正を守ってしかるべき時を待つべきである。周の桓王はこのことを理解していなかった。それゆえひとたび軍を用いて、〔反撃に遭って〕祝聃の矢が桓王の肩にあたる結果となってしまった。唐の昭宗もこのことを理解していなかった。それゆえひとたび軍を用いて、邠岐の兵が天子の御前を犯す結果となってしまった。そうであるならば泰安を保とうとする者は、事前に計画を練ねらないでよいことがあろうか。

『易』で言う「邑」とは、すべて内治のことである。夬に「邑から告げる」と言うのは康王が畢公に「善をなす者を明らかにし悪をなす者を困らせ、善風を立て善声を揚げよ」と命じたようなものである。晋の上九に「邑を討伐する」と言うのは、王国の大夫が、「大夫の乗った車がからからと音を立てて駆け巡る、大夫の服は萩の芽のように青色が映えている」と、国人はこれを恐れて、あえて逃げ出さなかったようなものである。みずから〔邑を〕治めて〔人々を〕従わせるのは、聖人が採用するところである。【比の九五に「邑の人々が警戒しない」とあるのも、また国内の政治が治まって遠方の人々がこれに服するという意味である。】

 

〔解説〕

 泰上六の爻辞「城復于隍、勿用師。自邑告命、貞吝」に対する解釈である。この解釈の特徴は、 人主が居る集落を「邑」と言うのだとすることである。「『易』で言う「邑」とは、すべて内治のことである」は、顧炎武の独自解釈ではなく、晋の上九爻辞の『周易程氏伝』に「伐其居邑者、治内也。言伐邑謂内自治也」とあるように、程頤の説に従っている。