半知録

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『講周易疏論家義疏』釋讀(二)

【原文】

第三釋結義。夫太易之理、本自豁然。乾坤之象、因誰而興耶。上繫云、易有太極、極生兩儀、儀生四象、象生八卦[1]。論曰、太易无外、故能生乾坤。有内、故能生万法之象。可謂能生之理、必因自生之業、自生之業、必因能生之功。故自生之生、亦非自生所生。能生之能、(承丞)[誠]非能生之能。並无宰主、因曰无爲。本无生理、何物因生。孔子易伝云、有之用極、无之功顯[2]。自无之有、還之於无。荘子云、上不資於无、下不依於有、不知所以然而然、忽然而生、故曰自然之生也。且易无體者、通生无礙也。神无方者、造象无方也。故太易之理、(不)不當爲體、只非无有應生[3]之理、亦非(是)[无][4]有无生之道、故天地之生、万法之興、並是无。當生与无生之理而有之也。體用相論、義家不同。諸家云无用、用而不用、不用之用、而无用也。此家之…

 

【日本語訳】

第三釋結義。太易の理は、もとよりおのずから豁然である。乾坤の象は、誰に因り興ったのか。上繋に「易に太極があり、太極は両儀を生み、両儀四象を生み、四象八卦を生む」とある。論に言う、太易に外なく、それゆえ乾坤を生むことができる。内があるがゆえに、万法の象を生むことができる。能生の理は、必ず自生の業に因り、自生の業は、必ず能生の功に因ると言うことができる。それゆえ自生の生もまた、自生が生むところではない。能生の能は、まことに能生の能ではない。並びに主宰なく、因って無為と言う。もとより無は理を生み、どうして物が〔無に〕因って生まれるのか。孔子易伝に「有の用が極まれば、無の功が顕かとなる。無より有に往き、また无に還る」と言う。荘子に言う、「上は無を助けず、下は有に依らず、そうであってそうである理由を知らず、忽然として生まれる。それゆえ自然の生と言う」と。かつ「易に体无し」とは、生に通じるのに妨げるものはないということである。「神に方无し」とは、象を造るのに決まった方がないということである。それゆえ太易の理は、〔万物の〕本体とみなすべきではなく、ただ生むことができる理だけでなく、また無が生んだ道でもある。それゆえ〔太易の理もまた無から生じたので〕天地の生、万法の興は、並びに無なのである。生むことができることと無が生んだ理があるのだ。体用について相論ずることは、義家は同じでない。諸家は言う無用であって、用いて用いず、用いずして用いて、そうして無用である、と。この家の…

 

【注釈】

[1] 繫辞伝上「易有太極、是生兩儀、兩儀生四象四象八卦」。『講周易疏論家義記』の一つの特徴に、引用が正確ではないということがある。

[2]孔子易伝」と言うが、実際は 韓康伯の注である。繋辞伝上「一陰一陽之謂道」、韓康伯注「道者何。无之稱也。无不通也、无不由也。況之曰道、寂然(天)〔无〕體、不可為象、必有之用極、而无之功顯。故至乎神无方而易无體、而道可見矣」。

[3] 「應生」の「應」は、下文の「當生」に対応していると考えられるので、「おうじる」ではなく、「まさに~べし」の意であろう。

[4] 「是」は、「无」の誤りだと思われる。「只非无有應生之理、亦非是有无生之道」は、原文をそのまま解すると、「(太易の理は)ただ応生の理があることはないのではない(つまり、ある)だけでなく、また無生の道ではない」となり、不自然な文となる。ここは、「太易の理」が、「応生の理」だけでなく、「無生の道」であることを言っているのだと思う。であるから、「是」は「无」の誤りではないかと考えた。ここでは、「是」を「无」に改めて解すことにする。