半知録

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『宋書』符瑞志の瑞祥記録の典拠はなんだろう?

 劉宋王朝の正史である『宋書』を読んでいて、気になるところがありました。『宋書』に符瑞志というのがあり、その名の通り吉兆や瑞祥を記した一篇です。巻上・中・下に分けられ、巻上は伏羲をはじめとする古帝王や前漢から宋までの皇帝に現れた吉兆を記し、巻中・巻下は前漢から宋までの様々な瑞祥の出現記録を列挙しています。

 

 わたしが興味を持ったのが、巻中・巻下に列記されている瑞祥の出現記録は何に依拠したのかです。というのは、前漢での瑞祥の記録を見ると、班固の『漢書』の記載とよく似ているなと思いました。もしかすると他の史書から抜き書きしたのではないか、との考えが浮かびました。そこで、簡単に調べてみました。その調査結果を記しておきたいと思います。

 

前漢

 最初に思った通り、班固の『漢書』から取っていました。すべて調べてみると、瑞祥の記録をその本紀から抜き書きしていることが分かりました。さらに言うと、『漢書』の本紀からしか瑞祥の記録を取っていません。

 

後漢

 范曄の『後漢書』と対応させると、一致する記載もあるのだけども、ない場合や文字の異同もそこそこあります。また『東観漢記』でも調べてみると、合致するものもあるが、ないことの方が多いです。どうも范曄の『後漢書』や『東観漢記』が典拠ではなさそうだなという印象です。後漢の歴史書は、現在、范曄のが後漢の正史とされていますが、多数の後漢の歴史書がありました。范曄は、それ以前の複数の後漢の歴史書を斟酌して『後漢書』を完成させたのです。おそらく范曄の『後漢書』より前の「後漢書」から抜き書きしたのではないかと思います。

 

三国時代

 陳寿の『三国志』と比較すると、かなりの割合で合致します。とくに呉の瑞祥の記録は、九割方、呉書にあり、しかも一字一句同じであることが多いです。魏の場合も、魏書にある場合が多いのですが、一致率では呉書に劣ります。符瑞志での蜀の瑞祥の記録は一例しかないのですが、蜀書と一致します。陳寿の『三国志』を典拠にしたとも言えなくもないですが、陳寿の『三国志』にはその瑞祥の記録はないが、『魏略』や『呉録』にはあったりします。また陳寿の『三国志』の呉書は、韋昭の『呉書』を元にしたという話もあり、陳寿が元とした本を使った可能性もあるかなと思います。

 話は変わりますが、符瑞志での魏・呉・蜀での瑞祥の記録に多寡があることは面白いなと思いました。蜀での瑞祥の記録は極めて少なく、呉での瑞祥の記録はかなり豊富です。劉備らは瑞祥に興味がなかったのか、あるいは瑞祥の記録する余裕がなかったのか。呉で瑞祥の記録が豊富なのは、呉の第二代皇帝である孫亮が瑞応図を彫らせて作らせたという話があるように、呉帝が瑞祥に並々ならぬ関心があったからだろうと思います。

 

○晋

『晋書』と比べると、全くと言っていいほど一致しません。それもそのはず今の『晋書』は唐の編纂になるもので、『宋書』で使われているはずがありません。それ以前に複数の『晋書』はあったのですが、散逸して残っていません。ですから、何を典拠にしたのか分かりません。ただ、参考にしたのではないかと疑っているのが、劉宋の何法盛『晋中興書』です。『晋中興書』にも、符瑞志と同じように瑞祥の記録を集めた篇があり、その佚文と『宋書』での瑞祥の説明や晋の瑞祥の記録が一致するところがあります。『宋書』符瑞志を作るにあたって、『晋中興書』を参考にした可能性もあるのではないでしょうか。しかし、一致しない箇所もあったり、判断が難しいところです。

 

 特に結論はありませんが、『宋書』符瑞志の瑞祥の記録は歴代の歴史書から抜き書きしたとは言えると思います。さっさと検索にかけただけですので、誤りがあってもご了承ください。興味がある人は、是非、『宋書』符瑞志の成り立ちについて研究してください。