半知録

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劉宋明帝の子の幼名の命名法

宋書』の本紀を読んでいると、興味深い記述があった。それは明帝の子の幼名の名づけ方についてである。

 

太宗諸子在孕、皆以周易筮之、即以所得之卦為小字、故帝字慧震。其余皇子亦如之。

太宗(明帝)は子供たちがお腹の中にいる段階で、みな『周易』で占筮し、得た卦で幼字を決めた。それゆえ後廃帝劉昱の幼名は慧震なのである。その他の皇子もまた同様である。

 

明帝は、その子の幼名を決めるときに『周易』で占筮していたというのである。明帝の長子である劉昱の幼名は慧震で、震の卦を得たことが分かる。「其の余の皇子も亦た之くの如し」ともあり、確かに明帝の第三子の劉準の幼名は智観、第八子の劉躋は智渙、第九子の劉賛は智随で、観・渙・随はいずれも卦の名称である。明帝の子の幼名は、「慧あるいは智+卦名」で名づけられていたことが分かる。

 

 なお後廃帝劉昱は、「廃帝」とあるように廃せられた帝で、酔った寝込みを襲われ、首を斬られ弑殺されしまう。その年わずか十五歳である。その本紀は、殺されてもやむなしと言わんばかりに、劉昱の悪行が並べ立てられている。酒池肉林の遊びに耽っていたとか、帝みずから逆臣を車でひき殺したとか、天性として殺すことを好んだとか、まさに言いたい放題である。しかし、十五歳の年端もいかない子が、この年にありがちな反抗期があったとしても、ここまでの悪行を重ねていたとは思えない。誅殺の正当化のための作り話のように思えてならない。ただ劉昱は、かなりの威厳があったようで、夕べ門を開くごとに、門番は「震懾して敢えて視ず」の状態であったという。当たるかな『周易』、劉昱は、人々を「震」わせていたようだ。