2026年6月17日(水)、野間先生がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。野間先生が残されたご業績はもはや言うまでもなく、中国哲学を志すものであれば、これまで一度ならず二度も三度も、先生の文章に学ばれたことと思います。それは今後も変わることはありませんが、巨星墜つの感を禁じえません。
私は幸いにも、晩年の野間先生と接する機会を多く得ました。ことの始まりは2023年6月ごろでした。私は野間先生とそれまで面識はありませんでしたが、思い切って修論をもとに執筆した処女論文の抜き刷りを野間先生へご送付したところ、先生は数日のうちにメールでご返信をくださいました。「修論でこのレベルなら十分でしょう。先生方の指導の宜しきを得ておられる」といった趣旨のお褒めの言葉に続けて、「いろいろと言いたいこともあるが、メールではあれなので、一度拙宅にお越しなりませんか?」とのお誘いを受けました。その一週間後ぐらいでしょうか、野間先生のご邸宅(東広島市)に参上し、初めて野間先生のお目にかかりました。お会いしたときの感覚をありのままに申せば、「この方が、あの野間先生!!(p.s.意外と背が高い)ついにお会いできた!」といった感じでした。というのも、『五経入門』を読んで以来、広大中哲の大先輩(先生)ということもあり、ずっと私淑していた先生にお会いできた嬉しさがありました。そして、その日のうちに、これから週に一度、皇侃『論語義疏』を一緒に読んでいきましょう、ということになったのです。
野間先生との『論語義疏』読書会は、たいてい毎週水か木の午後14時ごろからスタートしていました。野間先生は高校時代より変わらずの朝型で、早朝に起床し、11時ごろまで読書をされ、そのあとは車で10分ほどのショッピングセンターにあるフードコートか、うどん屋にて昼食を召し上がられるのがルーティンでした。そのため午後以降であればずっとご在宅ということで、上の時間帯となったように記憶しています(私は超夜型なので助かりました…)。武内義雄校訂本を底本として皇侃自序より『論語義疏』を読みはじめました。野間先生は大正12年(1923)刊行の原本を印刷したものを手元に置いておられました。訓読法や六朝独自の語法など非常に貴重なことを教わりました。とくに前者については、池田末利先生や御手洗勝先生・戸田豊三郎先生などの影響をうけつつ、野間先生の訓読法が確立されたことを知りました。また、それらの先生方と野間先生の思い出話も多くお聞きしました。戸田先生の退職記念講義を古いテープレコーダーに録音したこと、(保存されているものを実際に聞かせてもらいました)、何ににか忘れてしまいましたが御手洗先生に直筆のサインをもらったこと、野間先生が学部2年生のころ、東洋史の板野長八先生の研究室にガチガチに緊張しながらご質問へいったこと、新居浜高専時代にパチンコ屋を巡回し学生が遊戯していないか見回りにいったこと、十三経注疏を読み始めたころのこと、池田先生に「お前は索引屋になったのか」とチクリと言われたことなど、野間先生にお叱りを受けそうですが、『論語義疏』の内容よりも、こういった他愛もない話のことが鮮明に思い出されます。遺作となった、『東洋古典学研究』61(2026年5月)掲載の「中国哲学研究室教授列伝 ①池田末利教授」にお書きになっている内容は、どれもお聞きしたことがあるものでした。読書会は2024月3月まで続きました。為政篇の半ばでしたが、私が同年4月より広島県外に就職したため、中断せざるを得なくなってしまいました。今思えば文字通り有難い時間でした。
2026年6月27日(土)、野間先生は男三兄弟の長男で、三男にあたる弟さんのご厚意により、野間先生のご自宅にある仏壇へ手を合わすことができました。広大中哲の先生・職員、OBOG数名でお参りさせていただきました。野間先生の弟さんは非常に丁重にご挨拶くださいました。その眼には光るものが浮かんでいたように思います。先生のご自宅は生前と同じく、モデルハウスのようにホコリ一つなく整然としていました。そういえば、いつお伺いしても、本や椅子や机などの物たちはそれぞれ所定の場所にきっちりと置かれていました。野間先生の性格がそのまま空間に表れているようでした。その変わらぬ空間を見ると、野間先生はもういないことが信じられませんでした。今はただただ悲しい。
先生が私の就職を喜んでくださったこと、『日中学会報』の掲載をお褒めくださったことなど、個人的な思い出はまだまだ尽きませんが、今回はここまでにしたいと思います。
野間先生ありがとうございました。