半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

『群書治要』についてーその③

 

hirodaichutetu.hatenablog.com

 

 

hirodaichutetu.hatenablog.com

  

 かなり遅くなってしまいましたが、今回は「尾張本」の改変について具体的な例を挙げながらご紹介していきたいと思います(なお、各本の詳細については上引①②をご参照いただけますと、幸いです)。以下、

尾張本」:『四部叢刊』所収本

「元和本」:東京大学東洋文化研究所所蔵本(同研究所漢籍善本影印資料庫)

「金沢本」:宮内庁書陵部所蔵本(漢籍集覧)

「九条本」:東京国立博物館所蔵本(e国宝)

「慶長写本」:国立古文書館所蔵本(同館デジタルアーカイブ

『孝経注疏』:(清嘉慶二十年南昌府学重刊宋本)

『経典釈文』:(清抱経堂叢書本)

を使用します。(引用中の、句読点、加色は筆者による。)


㈠ 巻九所収『孝経』における改変

 

 先に、この『群書治要』所収『孝経』の性格について簡単に述べておきます。はじめに、その付されている注については、鄭玄注(以下、鄭氏注)ということになっていますが、諸説あります。これは、江戸時代、尾張藩士等の発見にかかるものであり、寛政年間には、岡田挺之がこの『群書治要』所収『孝経』鄭氏注を底本に『孝経鄭注』を刊行しました。のちには、長らく散佚していた中国へ舶載され、鮑廷博『知不足斎叢書』第二十一集へ収録されました。清にもたらされた『孝経鄭注』は厳可均、臧庸、皮錫瑞等によって、更に考証、輯佚、校勘が行われ今に至ります。

 

 続いて、本文については、鄭氏注が附されていることからも明らかですが、所謂『今文孝経』が採用されているようです。以下補足になりますが、秦の焚書坑儒によってもれなく焼却された『孝経』は、漢初に至り、河間の顔芝が秘蔵していたものを、子の顔貞が朝廷に献上しました。これが上記『今文孝経』の起こりと言われています。ただ、『孝経』には今文・古文の別があることは周知のことでしょう。前漢武帝期に曲阜の孔子旧宅の壁中から発掘されたという所謂『古文孝経』は弘安国が伝を作ったと伝えられています。南北朝時代の梁代までは伝わっていたようですが、以降一時的に行われなくなり、隋代に至り再び発見され、それを用いて劉炫『孝経述義』が撰述されたと言われています。

 

 さて、前置きが少し長くなりましたが、早速その改変を見ていきたいと思います。

 

尾張本」(3a-9{左記の場合3葉表(b:裏)、9行目を示す、以下同じ})

【経】因(眉注:因上舊有子曰二字,删之)天之道。
【注】春生夏長、秋收冬藏、順四時以奉事天道。

 ここでは、「尾張本」本文「因天之道」の「因」字の上に「旧本」には「子曰」の二字があったが、これを(余分と考え)削ったとあります。では、先に、ここで言う「旧本」を見ていきましょう。

 

 「金沢本」「慶長写本」「元和本」(「九条本」当該巻現存せず)

【経】子曰、因天之道。
【注】春生夏長、秋收冬藏、順四時以奉事*1*2道。

 「尾張本」に先行する所謂「旧本」はみな「子曰」を冠しています。はて、どちらが『群書治要』の原貌なのでしょうか。


 その手懸りとして、一度、通行本(唐玄宗注『孝経』)がどうなっているのかを見ておきましょう。

『孝経注疏』巻三(1a-5)

【経】用天之道。
【注】春生夏長、秋斂冬藏、挙事順時、此用天道也。

 通行本では、そもそも「因」ではなく「用」が用いられています。実は、ここは、今文・古文の間に文字の異同がある箇所です。『今文孝経』は通行本と同じく、『古文孝経』は上記、所謂「旧本」の字句と合致するのです。

 

 恐らく「尾張本」刊校者は、「旧本」のように「子曰」があるのは古文の経文であり、通行本が今文の経文であると判断し、それによって、「旧本」の字句を改めたものであると思われます。では、この改変が妥当であったかどうかが問題となります。先に、結論を言うとやはり釈然としません。

 

 そもそも、もし『今文孝経』の字句に改めるのならば、「子曰」を削るだけでなく、「因」も「用」に改めるべきではないでしょうか。もちろん、「尾張本」刊行当時、既に鄭氏注『今文孝経』は流布していなかったわけですから、その真相を突き止めることができなかったことは仕方のないことですが、「子曰」のない御注『孝経』を今文の字句と認めるならば、なぜ、その二字だけを不要と判断したのでしょうか。

 

 しかし、この箇所はどちらが本来の姿であるか、定めがたいのも事実です。清余蕭客『古経解鉤沈』巻二十四によれば「影宋蜀大字本」には「子曰因天之道」と作っていたようです。また、『敦煌経部文献合集』によれば、敦煌より発見された『今文孝経』のうちの一本も、「子曰因天之道」と作るものがあるようです。ただ、同じく敦煌文書の『鄭注孝経』(P.3428)は通行本と同じく「用天之道」とあり、一体『群書治要』編纂当時に採用されたものが、何れであったか釈然としないのです。

 

 しかしながら、上記の状況を踏まえるならば、「尾張本」刊行時は現在にもまして史料的制約があったものの、やはりその改変には慎重を期すべきであった、と言えるでしょう。

 

 なお、皮錫瑞『孝経鄭注疏』は、「子曰因天之道」を採用していますが、これは『古経解鉤沈』に見える「影宋蜀大字本」の情報、および「尾張本」眉注を参考にしたものであると思われます。もし、皮氏が敦煌本『鄭注孝経』(P.3428)目睹し得ていれば、「用天之道」を採用していたかもしれません。

 

 

 

尾張本」(7a-3)

【経】子曰、五之属三千。

【注】五刑者、謂墨、劓、臏、宮(眉注:宮下旧有割字、删之)大辟也。

 ここは、尾張本」注「宮」字の下に「旧本」には「割」字があったが、これを削ったとあります。では、先ほどと同じく、続いて「旧本」を見ていきましょう。

 

「金沢本」

【経】同上

【注】五刑者、謂劓、、臏、宮、大辟也。

 

「慶長写本」「元和本」

【経】同上

【注】五刑者、謂墨、臏、宮、大辟也。

 まず、各「旧本」にはみな「割」字があることがわかります。加えて、注目していただきたいのが、「金沢本」と他二「旧本」の「劓↔」の乙です。これは後に問題となりますので、記しておきます。さて、この箇所もどちらがその原貌であるかを、検討する前に、通行本を先に見ておきましょう。

 

『孝経注疏』巻六(2b-7~8)

【経】同上

【注】五刑者、謂墨、劓、、宮、大辟也。

 通行本に「割」字がないのは、「尾張本」と同じです。通行本を以て、改めたのでしょうか。しかし、通行本の「」は「尾張本」では「」に作っており、異同があります。ただ、『群書治要』間にその異同は見られませんので、今回は問題にしないことにします。やはり問題となるのは、「割」字の有無です。

 

 では、この問題解決の手懸りとして、はじめに陸徳明『経典釈文』を見てみることにしましょう。『経典釈文』「孝経音義」は「鄭氏注」を底本として採用していますので、『群書治要』所収『孝経』との対校が有効な場合が往々にしてあるのです。この箇所は、上記『群書治要』所引鄭氏注の続きを丁度「孝経音義」が徴引していますので、こちらを見ていきましょう。

 

 『経典釈文』(「孝経音義」)巻二十三(【夾注】は省きます。)

【鄭氏注】:科条三千謂劓、墨、宮割、大辟。穿窬盜竊者「劓」。劫賊傷人者「墨」。男女不与礼交者「宮割」。壊人垣牆、開人関𨷲者「臏」、手殺人者「大辟」。

 

 続いて、敦煌本『鄭注孝経』(P.3428)を見ていきます。

【経】:同上

【注】:五刑有五科、(科)条三千。五刑謂劓、墨、宮割、大辟。穿…<欠>…賊傷人者「墨」。男女不以礼交者「宮割」。逾人垣牆、開人関𨷲「臏」、手殺人者「大…

 『経典釈文』および敦煌本『鄭注孝経』の何れも「宮」字の下に「割」字があることが分かります。また、『群書治要』には見えない、続きの部分に「男女不与礼交者、宮割」とあることからも、前出の「宮割」を後ろでさらに、解釈していることが分かります。

 

 上記に鑑みれば、ここは、本来「宮割」とあるべき箇所だったのではないでしょうか。「尾張本」刊校者はやはり、通行本『孝経』もしくは、『周礼』(秋官・司刑)鄭玄注所引の『尚書大伝』「男女不以義交者、其刑宮」等によってその「割」字を削ったものと思われます。ただ、「宮」一字であってもそれが「宮刑」であることを示すことができますが、「宮」「割」はそれぞれその意味するところが異なるため、「宮割」二字である方がより正確と言えます。以下、参考として、『太平御覧』巻六四八(刑法十四、宮割)所引『尚書刑徳放』を引いておきます。

 

曰、宮者、女子淫亂,執置宮中不得出。割者、丈夫淫,割其勢也。

宮は、女が性にふしだらで、それを捕えて宮中に幽閉すること。割は、男が性にふしだらで、それの勢(生殖器)を羅切(去勢)すること。

 「宮」は女の淫乱に対して、「割」は男の淫乱に対して、処される刑罰であり、同じく淫刑であってもその意味する所が異なるのです。『白虎通徳論』巻八(五刑)にも(王引之『経義述聞』の校勘によれば)同じ文章が見えています。

 

 さて、まとまりなく(「尾張本」)『群書治要』所引『孝経』の改変を見てまいりましたが如何でしたでしょうか?それぞれ、些細な違いではあるものの、(特に後者は)刊校者がもう少し慎重に考証をしていれば、不要な改変と判明するものでした。

 上記の例以外にも、まだまだ、少なからず不要な改変がありそうですが、今回はこのくらいにしておきたいと思います。次回は、本連載とはそれますが、上記、「金沢本」と他二「旧本」の「劓↔」の乙について少し考えてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:「金沢本」「事」字記於傍。

*2:「金沢本」「天」下有「之」字。

顔回の実直さ

孔子の高弟に顔回がいる。

顔回、字は子淵。そのことから顔淵とも呼ばれる。孔子より三十歳若かったという。

孔子に最も将来を嘱望されるも、孔子に先だって亡くなり、悲運な人物として知られている。孔子顔回の死に際して、「噫、天 予を喪ぼせり。天 予を喪ぼせり」と慟哭したことは有名である。

 

 昨今、先秦以来の竹簡が雨後のたけのこのように発見されている。その中には、これまで伝わっていなかった孔子と弟子たちの会話記録も含まれていた。ここで注目したいのが、上海図書館蔵戦国楚竹書の『君子為礼』である。その内容は、孔子顔回との対話が主だったものとなっている。そのうち、顔回の実直さを表す次のような説話が残されている。

顔淵侍於夫子。夫子曰、「君子為礼、以依於仁」。顔淵作而答曰、「回不敏、弗能少居也」。夫子曰、「坐、吾語汝。言之而不義、口勿言也。視之而不義、目勿視也。聴之而不義、耳勿聴也。動之而不義、身毋動焉」。顔淵退、数日不出、□〔欠字〕之曰、「吾子何其瘠也」。曰、「然、吾親聞於夫子、欲行之不能、欲去之而不可、吾是以瘠也」。

顔淵は孔子の側につき従っていた。先生が、「君子が礼を行うときは、仁に依るのだ」とおっしゃった。顔淵は立ち上がって返答して言った、「わたし回はおろかでございます、少しの間もそこに居ることはできません」。孔子はおっしゃられた、「座せ、わたしが君に教えよう。言うときにそれが正しくなければ、口では言ってはいけない。見るときにそれが正しくなければ、目では視てはいけない。聞くときにそれが正しくなければ、耳では聞いてはならない。行動するときに正しくなけば、身は動いてはならない」。顔淵は退いて、数日出てこなかった、〔孔子は〕おっしゃった、「吾が子よ痩せたのか」。〔顔淵は〕答えた、「そうです。わたしは身近で先生のお言葉を聞き、行おうとしたのですがうまくいかず、去ろうとしたのですができませんでした。わたしはそうして痩せてしまったのです」。

 

  この説話を読んだとき、孔子が、「吾れ回と言うこと終日、違わざること愚なるがごとし。退きて其の私を省れば、亦た以て発するに足る。回や、愚ならず」、「之を語りて惰らざる者は、其れ回なるか」と、顔回を評価したことが胸に落ちた気がした。孔子の言葉を真に受け、実直いや愚直にも実践しようとした者は、顔回しかいなかったであろう

 

 同じく上海図書館蔵戦国楚竹書『従政』に次のようにある。

君子聞善言、改其言、見善行、納其身焉、可謂学矣。

君子はよい言葉を聞いて、その言動を改め、よい行いを見て、その身に取り入れる、「学」と言うことができる。

 顔回は、まことに「学」を実践しようとした人物だと言える。季康子が弟子の中で学を好む者は誰かと問おとき、孔子は「顔回なる者有り、学を好み、怒りを遷さず、過ちを貳せず、不幸に短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり」と返答したのも頷ける。

 

 以上の説話で興味深い点がもう一つある。それは、『論語』に似たような記述があるということである。それが、「克己復礼」の典拠でもある次の文である。

顔淵問仁。子曰、「克己復礼為仁。一日克己復礼、天下帰仁焉。為仁由己、而由人乎哉」。顔淵曰、「請問其目」。子曰、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」。顔淵曰、「回雖不敏、請事斯語矣」。

顏淵が仁のことをおたずねした。先生は言われた、「わが身をつつしんで礼にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、天下は仁になつくようになる。仁を行うのは自分次第だ。どうして人だのみができようか」。顏淵が「どうその要点をお聞かせください」。先生は言われた「礼にはずれたことは見ず、礼にはずれたことは聞かず、礼にはずれたことは言わず、礼にはずれたことはしないのだ」。顏淵は言った、「回はおろかでございますが、このお言葉を実行させていただきます」(金谷治訳)。

 見て分かるとおり、物語の筋はおおよそ同じである。この文と『君子為礼』の文は、異伝の類だろう。『論語』に記されている孔子と弟子の言行録が唯一絶対というわけではなく、先秦時代には様々なバリエーションの孔子説話があったことが分かる。現在、伝わっているのは氷山の一角でしかない。ただ、どれが本当にあった出来事だったかは判断の難しいところである。世に聞こえた孔子学団ともなると、説話の捏造や話が盛られることが当たり前のように行われたはずである。

 

 とはいえ、今回挙げた『君子為礼』の一文は、孔子が愛してやまなかった顔回の人柄をより的確に表した説話だと思うのである。こうした説話が伝わらなかったことは惜しいことであり、同時に今に発見されたことは幸運なことであったと思う。

 

 このように出土文献から孔子学団の新たな一面が明らかになりつつある。今の中国学の醍醐味のひとつである。

蝶と蛾のはざま

 

・蝶と蛾の違いって何だろう?

 

 蝶は綺麗で、蛾は汚い。

 蝶は昼間に活動するが、蛾は夜に活動する。

 蝶は羽を立てて止まるが、蛾は羽を広げて止まる 。等々。

 

 しかし、分類学上、蝶と蛾は同じ鱗翅目で区別されない。

 蝶と蛾を区分けしない言語だってある(フランス・ドイツなど)。

 蝶と蛾に分けなくてもよかったわけである。

 でも、日本では分けている。

 なぜ?

 

 蝶と蛾の区別は、日本の問題というより、中国の文脈で考えなくてはならない。

 中国にも蝶と蛾の区分けが存在しているからである。むしろそちらが本場である。

 日本は、蝶と蛾の漢字を受容し、中国の分類をそのまま受け取ったに過ぎない。

 

・蝶と蛾の区分けが生じた原因を求めるにはどうしたらよい?

 

 「蝶」と「蛾」を表す漢字が、どのように認識されてきたから導き出せるのではない

 か。 中国・日本での「蛾」と「蝶」の用例を収集し、そこに通底する認識を探れば、

 蝶と蛾の区分けが生じた原因が分かるではないだろうか。

 

・「蛾」の用例

 中国

  『説文解字』虫部:蛾、羅也。 同虫部:𧒎、蚕化飛虫。

  『爾雅』釈虫:䖸、羅。郭樸注:蚕䖸。疏:此即蚕蛹所変者也。

  『玉篇』:蚕蛾也。

  『類篇』:蚕化飛虫。

  『斉民要術』:蚖珍三月既績、出蛾取卵、七八日便剖卵蚕生。

 

 中国最古の字書である『説文解字』では、「蛾は、羅である」と言う。しかし、 

 「羅」が何を指すのか今ひとつ分からない。そこで、『爾雅』を見ると、「䖸は、羅

 である」、晋の人である郭樸の注に「蚕䖸」とある。さらにその郭樸注に対する注に

 は、「これは蚕蛹が変態したものである」と言っている。つまり、「蛾」とは蚕蛾

 指すと言うのである。また『説文解字』の「蛾」の別字である「𧒎」には、「蚕が飛

 虫に化したものである」というのも、まさに蚕蛾を指している。『玉篇』『類篇』

 『斉民要術』の「蛾」の用例も、蚕蛾を意味している。

 

 日本

  『篆隷万象名義』:蝅。

  『新撰字鏡』:螘也、蟻也、安利(あり)、比々留(ひひる)。

  『輔仁本草』:螈蚕蛾…和名比々留。

  『倭名類聚鈔』:説文云、蛾【音峩。和名比々流】、蚕作飛虫也。

 

 日本での「蛾」の用例も見てみると、大体、中国の書籍の孫引きで、中国の認識を踏

 襲している。

  一つ気になるのが、『新撰字鏡』で「蛾」に「蟻也、安利(あり)」という読みを

 与えている点である。蟻(あり)と言えば、もちろんあの黒くて小さい昆虫のことを

 指している。蟻は昔は「蛾」と呼ばれていたのだろうか。すごく違和感がある。少し

 調べてみると、蚕の生まれたばかりの幼虫は「蟻蚕」と呼ばれる。それは、黒くて小

 さく、蟻に似ていることから来ている。ここで言う「蟻也、安利(あり)」は、蟻そ

 のものではなくて、蚕の幼虫である蚕蛾を指していると思われる。すると、やはり

 「蛾」は蚕と結びつきが強い。

 

  以上のことから、「蛾」は、基本的に蚕蛾のことを指していたと結論づけられる。

 そして蚕蛾は、私たちが「蛾」として認識する典型的な容貌を有している。

f:id:hirodaichutetu:20200506160400p:plain

蚕蛾

・「蝶」の用例

 中国

   蝶   『玉篇』:蝶、胡蝶也

    『南方草木状』:是媚草上有蟲。老蛻為蝶、赤黄色。

   蛺・蜨 『説文解字』虫部:蛺蜨也

   蛺蝶  『古今注』:蛺蝶、一名野蛾、一名風蝶。江 

       東人謂鳥撻末。色白背青者是。

       其有大於蝙蝠者、或黒色、青斑

       大者、曰鳳子、一名鳳車、亦曰鬼車。

       生江南柑橘園中。

 

 中国での「蝶」の用例は、それほど多くない。『玉篇』には「蝶は、胡蝶である」と

 あり、「蝶」はチョウチョと認識していたと見えるが、「胡蝶」とあるだけでそのよ

 うに考えるのは早計である。当時の認識は今と異なっていた可能性があるからであ

 る。

  晋ごろの著作だとされる『南方草木状』には、「これは、媚草の上にいる虫であ

 る。老いて脱皮し蝶となり、その色は赤黄である」とある。この「蝶」は、まさにチ

 ョウチョのことを言っている。 

  「蝶」の類義語の「蛺・蜨」に対し、『説文解字』は、「蛺蜨のことである」と言

 ってるが、今ひとつ掴めない。晋の崔豹撰だとされる『古今注』には、「蛺蝶は、一

 名野蛾、一名風蝶。江東人は鳥撻末と呼んでいる。その色は白で背は青であるもの

 が、そうである」云々とあり、モンシロチョウといったチョウチョを指していると考

 えられる。

  『古今注』で注目されるのが、「蛺蝶」に「野蛾」という別名があったことであ

 る。では、なぜ「野蛾」と呼ばれていたのか。もし「蛾」が蚕蛾のことを指している

 とすると理解できる。蚕は完全に家畜化され、人間の手助けなしでは生きられない体

 にされていた。蚕蛾は、羽はあるが全く飛べない。蚕は、自然界には居らず、人間の

 住む屋内で飼われていた。一方、チョウチョは、主に自然界に生息し、野原で華麗に

 飛んでいた。「野原にいる蚕蛾に似た生きもの」としてチョウチョが「野蛾」と呼ば

 れたものと思われる。

  ここで重要なのは、「蛾」のイメージをもって「蝶」を説明していることである。

 その逆は見られない。つまり、「蛾」を基準として「蝶」を区別していたのである。

 

日本の用例

  蝶

  『篆隷万象名義』:蛱。

  『新撰字鏡』:蛱也。加波比良古(かはひらこ)。

  『倭名類聚鈔』:蝶、兼名苑云、蛺蝶、頰蝶二音。

          一名野蛾。【形似蛾而色白者也。】

 

  日本での「蝶」の認識は、中国と同じである。『倭名類聚鈔』に「形は蛾に似て色

 は白いものである」とあり、今と変わらない認識であったことが分かる。ここで言う

 「蛾」も蚕蛾として捉えるべきであろう。

 

 以上のことから、次のように結論づけられる。

 

   蛾:蚕の成虫。蚕蛾。

   蝶:野原にいる蛾(蚕蛾)に似た色鮮やかな生きもの

 

・蝶と蛾の区別の仕方

 

     蚕の成虫(蚕蛾)に似ているか、似ていないか

 

  古くは、中国あるいは日本では、蚕蛾に似ている生きものを「蛾」と呼び、蚕蛾に

 形は似ているが容貌が大きく異なる生きものを「蝶」と呼んで区分けしたものと考え

 られる。

  本来、区分けする必然性がないものに「蛾」と「蝶」の区別が生じたのは、中国に

 養蚕の文化があったためだと考えられる。蚕が身近なものであったため、蚕の成虫を

 基準に、似ている生きものとしての「蛾」と似ていない生きものとしての「蝶」とい

 う区分けが生じたと思われる。

 

  子供に、これは「蝶」と「蛾」どっちなの、と問われれば、次のように答えるべき

 なのかもしれない。

 

   蚕蛾を見て。似ていると思えば、それは「蛾」だ。似ていないと思えば、それ

  は「蝶」だよ、と。

 

 

 

『周易本義』と『原本周易本義』

 『四庫全書』に『周易本義』と『原本周易本義』が一緒に収録されている。『周易本義』とは、朱熹の『易』に対する注釈書である。一見すると、『周易本義』と『原本周易本義』は、構成はやや異なるが、内容は同じようにみえる。しかし、構成が異なるだけで同書を二つも入れたはずもなく、何かしらの重大な相違があったはずである。『周易本義』と『原本周易本義』の由来は何なのか、「原本」とはどういった意味なのか、少し述べておきたい。

 

 かくいう私も、『四庫全書』に『周易本義』と『原本周易本義』があることなど、『日知録』を読むまで全く気にしてなかった。『本義』を読むとき、『四庫全書』を使うことはないからである。『日知録』「朱子周易本義」の項に次にようにある。

今四書版本毎張十八行、毎行十七字、而註皆小字、『書』『詩』『礼記』並同。惟『易』毎張二十二行、毎行二十三字、而『本義』皆作大字、与各経不同、明為後来所刻。是依監版『伝義』本、而刊去程『伝』。凡『本義』中言「程伝義矣」者、又添一「伝曰」、而引其文、皆今代人所為也。坊刻擅改古書、宜有厳禁、是学臣之責。

 

今の『四書集注』の版本は、毎張十八行、毎行十七字、注はすべて小字で、『書集伝』『詩集伝』『礼記集説』もすべて同じ版式である。ところが、『周易本義』のみ毎張二十二行、毎行二十三字、『本義』の文はみな大字となっており、その他の経の版式と同じではなく、明らかに後来の人によって刊刻された本である。およそ『周易本義』中で「程伝備矣」と言っている箇所では、「伝曰」が付け加えられ、程頤の伝の文が引かれており、すべて今代の人の所為である。坊刻の勝手気ままに古書を改めることは、是非とも禁絶すべきであり、〔そのことを許容する〕学臣の責任である。

  ここで顧炎武は、通行している『四書集注』の内、『書集伝』『詩集伝』『礼記集説』は同じ版式だが、『周易本義』だけ異なっており、それが後人の改変によるものだと指摘する。そうした古書を改変、そしてそれを受容する学臣たちを批判している。

 

 ここで注目するのが、顧炎武が言及する『周易本義』である。それは、毎張二十二行、毎行二十三字で、『周易本義』中の「程伝備矣」の後に、「伝曰」が付け加えられ、程頤の伝が引かれていたという。程頤の伝とは、『伊川易伝』(または『周易程氏伝』)のことである。当然、朱熹の『周易本義』には程頤の伝は含まれているはずもなく、本来の『周易本義』の形ではなかったわけである。その『周易本義』がどの本なのかを探していくうちに行き着いたのが、『四庫全書』の『周易本義』と『原本周易本義』である。

 

 『周易本義』中の「程伝備矣」がある場所を探すと、履の象伝、夬の象伝にみえる。履の象伝を例に取る。『周易本義』と『原本周易本義』とを比較しよう。右が『周易本義』、左が『原本周易本義』である。

f:id:hirodaichutetu:20200430153257p:plainf:id:hirodaichutetu:20200430153030p:plain

 

 履の象伝「上天下澤履君子以辨上下定民志」の注に着目すると、『周易本義』では「程伝備矣」の後に「伝曰」が続いているが、『原文周易本義』では「程伝備矣」で終わっている。そして『周易本義』が引く「伝曰」の文は、程頤の伝である。

 

 顧炎武が言及する『周易本義』の特徴と『四庫全書』中の『周易本義』と合致するのである。そのことはつまり、顧炎武が言う今代の人によって改変された『周易本義』とは、『四庫全書』中の『周易本義』のことだったのである。正確を期せば、『四庫全書』が元にした『周易本義』と言うべきであろう。

 

 では、その『周易本義』は、どのようにして程頤の伝を含む形となったのだろうか。顧炎武は言う。

永楽中、修『大全』、乃取朱子卷次割裂、附之程伝之後、而朱子所定之古文仍復殽乱。・・・後来士子厭程伝之多、棄去不読、専用『本義』。而『大全』之本乃朝廷所頒、不敢輒改。遂即監版『伝義』之本刋去程伝、而以程之次序為朱之次序。

 

永楽年間、『易経伝義大全』が編纂され、そうしてはじめて朱子の巻次を取って切り離され、程頤の伝を引いた後に附されて、朱子が定めた古文の形がまた錯乱した状態に戻ったのである。・・・後来の人士は程頤の『伝』の多きを嫌い 捨て去って読まず、専ら『周易本義』を用いるのみであった。しかし、『大全』の本は朝廷が頒布したものであったから、大胆にも改めようとする者はいなかった。だが遂に監版『易経伝義大全』の本に拠りその中の程頤の伝を除き去り、程頤の次序を朱熹の次序とする本が現れた。

 それが、『周易本義』なのである。つまり、『易経伝義大全』(朱程合刻本)→(程伝除去)→『周易本義』という過程を踏んで成った本であった。『周易本義』が『原本周易本義』と構成を異にし、程伝が含まれていたのも、『易経伝義大全』の名残なのである。

 

 こうした改変を行った人物はわかっている。明の成矩である。成矩編『周易本義』こそ、『四庫全書』の『周易本義』であった。ただ成矩編『周易本義』の原本はほとんど出回っておらず、私も実物は見ていない。『故宮珍本叢刊』第一冊に『新刻官版周易本義』として収録されているようだ。故宮博物院のサイトに『新刻官版周易本義』の書影と解題がある。しかし、顧炎武が言う、毎張二十二行、毎行二十三字と版式が異なり、顧炎武が見た成矩編『周易本義』ではない。郭明芳「東海」藏《周易本義》為胡儔重刊本考」では、成矩刻本の検討を行っている。そこに挙げられている書影は、顧炎武が言う版式と合致する。

 

 さて『四庫全書』の『周易本義』は成矩編『周易本義』だと判明したが、『原本周易本義』は何なのか。ずばり宋代に刊行されたそのままの朱熹の『周易本義』である。「原本」と冠せられているのは、そういった意味である。『四庫全書総目提要』によれば、『原本周易本義』は咸淳元年呉革刊本とされる。なお、『周易本義』および『原本周易本義』の『提要』の議論は、『日知録』の「朱子周易本義」にほとんど依拠している。

 

 長々と書いてしまった。結論をまとめると、『四庫全書』の『周易本義』は成矩編『周易本義』、『原本周易本義』は朱熹撰『周易本義』である。朱熹の『周易本義』を読む際、もし『四庫全書』を参照するなら、『周易本義』を使ってはいけない。それは罠だ。正しくは『原本周易本義』を見なければならない。

 

『群書治要』についてー②

 

hirodaichutetu.hatenablog.com

 

 今回は『群書治要』「尾張本」について略述して行きたいと思います。「尾張本」(或いは「天明版」)は天明7年(1787)に尾張で刊行された整版を指します。その刊行過程については、「尾張本」冒頭、天明七年林信敬「校正群書治要序」に次いで付されている、天明五年細井徳民「刊群書治要考例」にその大要が明らかですので、こちらを少し見ていきたいと思います。

 

謹考國史、承和、貞觀之際經筵屢講此書、距今殆千年、而宋明諸儒無一言及者、則其亡失已久。…伹知金澤之舊藏亦缺三本、近世活本亦難得、如其繕本、隨寫隨誤。勢世以音訛所處以訓謬、間有不可讀者。我孝昭二世子好學、及讀此書、有志挍刊、幸魏氏所引原書、今存者十七八。乃博募異本於四方、日與侍臣照對是正、業未成、不幸皆早逝。今世子深悼之、請繼其志、勗諸臣、相與卒其業。於是我公上自內庫之藏、㫄至公卿大夫之家、請以比之、借以對之、乃命臣人見桼、…臣岡田挺之…臣德民等、考異同、定疑似。臣等議曰「是非不疑者、就正之。兩可者、共存。」又「與所引錯綜大異者、疑魏氏所見、其亦有異本歟。」又「有彼全備、而此甚省者、葢魏氏之志、唯主治要、不事修辭、亦足以觀魏氏經國之器、規模宏大、取舍之意、大非後世諸儒所及也。今逐次補之、則失魏氏之意、故不為也。不得原書者、則敢附臆考以待後賢。」以是為例、讎挍以上。天明五年乙巳春二月乙未尾張國校督學臣細井德民謹識*1

 

 これは前回の繰り返しとなりますが、宋明に至って夙にその書は散佚し、旧金沢文庫伝来の鎌倉時代の旧鈔本(「金沢本」)を底本に、銅活字によって元和2年(1616)に刊行された「元和本」がその印本の嚆矢でありました。それから距たること171年後の天明7年にその「元和本」を底本に刊行されたのがこの「尾張本」です。上記の「考例」によりますと、孝昭二世子、即ち尾張藩九代藩主徳川宗睦(1733~1800)の二世嗣、治休(1753~1773)、治興(1756~1776)はこの『群書治要』を読み、校刊の志があった。そこで『群書治要』に徴引される所の現存書を四方(広く周囲)から集めさせ、日々侍臣と対校を行っていた。だが、不幸にも二世嗣は志半ばで流行病により夭折してしまう。その志は宗睦の養世嗣、治行(1760~1793)に引き継がれ、天明7年にその完成を見るという。ただ、天明5年にこの「考例」が提出されたということは、大本となる稿本は出来上がっており、その上で再度、上記の「考例」に従い整理を加えたということなのかもしれません。

 

 さて、次はその校勘方針についてみていきたいと思います。

 ①「是非不疑者、就正之。兩可者、共存。」

 先に注意しておくと「考例」に「幸魏氏所引原書、今存者十七八。博募異本於四方」(幸いにも魏氏(魏徴)が編纂の際に引いた所の原書のうち、現在7~8割程度現存している。そのため広く周囲より異本を募った。)とあることから考えると以下に見える「考例」はすべて原書と『群書治要』との校勘において、と理解して問題ないと思われます。ただ、この刊校に際して、「金沢本」或いは他の『群書治要』が用いられたか否かについては、もう少し考えてみなければなりません。

 さて、①の「考例」は、是非の判断において、(原書との対校の上)疑いの余地なく(『群書治要』の本文が)誤りと思われるものについてはそれを改め、彼此に異同があるものの、双方とも可と思われるものについては、双方を残す、と理解してよいでしょう。

 

 ②「與所引錯綜大異者、疑魏氏所見、其亦有異本歟。」

 これは、『群書治要』が引く所と原書との間に何等かの錯綜がある、或いは大きく異同がある場合には、編纂当時、魏徴が見た該本は現存本と異なる系統のものであったことを疑い、それを改めないということでしょうか。

 

 ③「有彼全備、而此甚省者、葢魏氏之志、唯主治要、不事修辭、亦足以觀魏氏經國之器、規模宏大、取舍之意、大非後世諸儒所及也。今逐次補之、則失魏氏之意、故不為也。不得原書者、則敢附臆考以待後賢。」

 『群書治要』は「類書」の性格を持ち合わせるものですから、その引用文は概ね原書から抄写(抜き書き)されたものです。ただ、その中から何を採り何を採らなかったかを見ることは、魏徴等の編纂方針を窺う手掛かりとも言えます。つまり、その取捨選択に「魏氏之意」を読み取れるということです。そのため「尾張本」の校勘に際しても、その抄写に対して原書を用いて補うということはしないということでしょう。ただ、原書を得られないものについては「敢えて臆考を附して以て後賢を待つ」という方針を示しており、言わば積極的な態度とも言えます。

 

 さて、「考例」を見る限りにおいてその刊校は、魏徴等が編纂した『群書治要』の原貌を尊重し、「隨寫隨誤。…間有不可讀者」(写すれば写するたびに誤りが生じ、一部読むことのできない箇所がある)の状態にあったものをその原貌に帰すことに重点を置いて行われたものと見ることができます。しかし、その実際は原貌を尊重したものとは思い難い改変が施されています。この具体例については次回に回すことにして、以下にもう少し尾張藩における『群書治要』についてご紹介しておきたいと思います。

 

 尾崎論文によると、寛永18年(1641)には既に「元和本」が尾張に齎されており、尾張藩の藩儒であった江戸初期の儒者杏庵 (1585~1643)による校点が加えられていたものがあったようですが、明治維新に際し散佚してしまったようです。また、上述の藩主徳川宗睦、『書紀集解』で著名な尾張藩士河村秀根(1723~1792)の兄、河村秀穎(1718~1783)らの「元和本」を底本としたとされる、写本が残されており、尾張においては早くから重宝されていたことを窺わせます。また尾張藩では「尾張本」刊行の天明7年以降も、幾度か追刷が行われた中で、寛政三年(1791)に大規模な印行が行われたようで、これを「寛政三年本」と言います。この「寛政三年本」は正確には「天明版」の修本であり、全巻に渉って本文より眉上・欄外の校語に至るまで補修が施されています。なお、清国へ輸出された『群書治要』は尾張藩刊行の上記二種であって、寛政8年(1796)に輸出され、道光27年(1847)刊の『連筠簃叢書』所収本は「寛政三年本」を底本に、咸豊7年(1857)『粤雅堂叢書』第26集所収本および『四部叢刊』所収本は「天明版」を底本にという具合であります。

 

 今回はこのくらいにして、次回は「尾張本」の改変について具体例を挙げながらみていきたいと思います。

 

 

hirodaichutetu.hatenablog.com

 

  

 

 

 

*1:「四部叢刊本」に依る。

『群書治要』についてー①

 

 『群書治要』とは唐初、唐太宗の勅命により魏徴らによって編纂された、全五十巻の「類書」*1である。『唐会要』によれば太宗が前代の諸王の得失を通覧せんがために、「六経」より「諸子」に渉ってそれらの事跡を蒐集させたものであると。つまり経・史・子の各書より「治政の要点」を抜粋したものである。

 

 さて、よく知られていることではありますが、その中国での流伝は宋代に至って途絶え、現行の『群書治要』はすべて、日本由来の「旧鈔本」の流れを汲むものであります。最も有名なもので言えば、『四部叢刊』所収の底本には尾張で刊刻され、清代に中国へ逆輸入された「尾張天明七年(1787年)本」(以下、「尾張本」)が採用されています。この「尾張本」がどのような経緯で中国へ舶載されたかについてはやや煩わしいのでここでは贅言しませんが、舶来するやいなや清人学者の広く重んじる所となりました。少し触れておきますと、王念孫『読書雑誌』、厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』などはその恩恵を存分に受けたものと言えます。唐宋以後既に散佚していたものを比較的まとまった形で伝えている、伝世文献であっても宋刊本に由来しない唐鈔本由来の文辞を留めていることもあり、校勘資料・輯佚資料としてなどその価値は高く評価されていたようです。

 

 では、今回はこの『群書治要』の何を問題にするつもりかと言いますと、それは清人学者へ大いに裨益をもたらした「尾張本」の「妄改」についてです。「尾張本」が当時の清朝学術へ齎した功績は計り知れないものがあることは既に述べましたが、先行する「旧鈔本」および印本と対校してみると、かなり(時には妄りに)改変を施していることが明らかになりました。そこで、本シリーズではその「妄改」に焦点を当てて書いていこうと思います。今回の①では「尾張本」に先行する代表的な「旧鈔本」および印本をまとめておきたいと思います。

 

① 九条家本ー<平安写>

 

 この九条家本については是沢恭三「群書治要について」、尾崎康「群書治要とその現存本」に詳しい(以下の諸写本および印本も尾崎論文に詳しい)ので、ここでは簡単にその梗概を紹介しておきたいと思います。

 この九条家本はその名にもあるとおり、九条家伝来の旧蔵品です。かの東京大空襲によって東京赤坂の九条公爵邸は灰燼に帰したものの、奇跡的に一つの土蔵が焼け残り、その中に蔵されていた鈔本の一つとして発見されたものです。後に東京国立博物館に買い上げられ1952年に国宝に指定されました(現在はe国宝で閲覧可。)。

 この九条家本は全50巻中のただ13巻を残すだけの残本ではありますが、現存する『群書治要』中、最古の写本であり、後述する後出の鎌倉写「金沢本」および前述の「尾張本」との関係などからその「旧鈔本」間における系統・伝承に関して貴重な情報を今に伝えています。また、装丁は巻子本でありますが、尾崎氏曰く、その料紙は非常に美麗かつ優雅なものであるとのこと。書物の装丁とその書物の当時における位置、いわばヒエラルキーというものは密接に関係しているものです*2。その点からもみても平安期宮中における『群書治要』の位置は非常に高かったと言えるかもしれません。

 

② 金沢本ー<鎌倉写>

 

 この「金沢本」は同写本中最も広く知られており、最初の印本であり、後の印本の底本ともなる後述の「元和版」の底本であるため、現行の『群書治要』の祖本はすべて「金沢本」ということになります。

 さて、「金沢本」もその呼称のとおり、「金沢文庫」旧蔵品であります。鎌倉中期頃の写本と見られており、現在は宮内庁書陵部の所蔵となっています。また、現在では汲古書院より出版された洋装(全七冊)の影印本があり、広く用いられています。追記:宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧 および、国立国会図書館デジタルアーカイブにてデジタル閲覧可能となっております。

 ただ、この「金沢本」とて足本ではありません。これもよく知られていることではありますが、現行の「群書治要」はすべて全50巻中の3巻(巻4、13、20)を闕く47巻本であり、それはこの「金沢本」に由来するものであります。一体いつごろその3巻が失われたのかについては、後考を俟たねばなりませんが、「金沢本」の巻末のほとんどに奥書が、本文中には「ヲコト点」、その傍ら・眉上には校合の跡が残されており、その成り立ちについて多くの情報を留めています。

 

③ 慶長写本ー<慶長写>

 

 この「慶長写本」は広く知られていませんが、徳川家康の命による「元和版」の刊行に先立ち、慶長15年(1610)に家康が鎌倉五山の僧に命じて「金沢本」を謄写させ、「元和版」の底本として参照されたものと見られています*3。その謄写は「金沢本」にかなり忠実であり、異体字は通行体に改められているものの、ヲコト点・音訓符等についても概ねそのまま書き写されています。現在は国立古文書館所蔵であり、「国立古文書館デジタルアーカイブ」においてネット閲覧可能となっています。

 「慶長写本」が貴重な理由は、「元和版」の刊行方針を窺うことのできる数少ない資料であるからです。「慶長写本」が謄写した「金沢本」が「元和版」の唯一の底本であったとは考えにくいですが、この「慶長写本」「元和版」を簡単に対校させてみるだけでも、その異同は少なくありません。中には、『群書治要』所収の原典を見なければ改変し難いと思われるものもあり、その刊行方針においては必ずしもその原貌を保存するという点に重点は置かれていなかったとも言えるかもしれません。

 

④ 元和本ー<元和刊>

 

 この「元和本」(或いは「駿河版」)の編纂過程については夙にその記録が残されており、近藤守重『右文故事』巻五に比較的まとまった形で要約がなされています。

 この「元和本」は『大蔵一覧集』の銅活字印刷に続いて、刊行された銅活字による印刷物です。その経過は元和二年(1617)の二月に着手し、その年の五月に完成したとされています。ただ四箇月という驚異的な速さで刊行に至るものの、活字出版を命じた家康はちょうど刊行のひと月前である元和二年4月に薨御し、その完成を見ることはなかったようです。生前一部刷り上がった活字を見て大いに喜んだともありますから、さぞかし無念であったでしょう。

 さて、現行の元和本は駿府で刊行されたのち、元和五年に紀伊徳川家初代当主、徳川頼宜が紀伊へ転封される折に『大蔵一覧集』と共に紀州へ運ばれたらしく、現存の「元和本」はすべて、紀伊藩から各所へ配られたものと考えられているようです。

 また、紀伊藩は「元和版」が刊行された230年後の弘化三年(1846)に「元和本」刊行の際に用いられた銅活字を再び用い、『群書治要』の再刊を行っています。この刊行は「尾張本」よりも後のものであるので、ここでは贅言しないことにします。

 

 非常におおざっぱにではありますが、「尾張本」に至る写本・印本について略述しました。次回は本シリーズのメインである「尾張本」について書いていこうと思います。

 

hirodaichutetu.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

*1:「類書」に分類されないことも多い。

*2:この点に関して、佐々木孝浩『日本古典書誌学論』に詳しい。

*3:慶長写本」及び「元和版」については上記尾崎論文、福井保『江戸幕府刊行物』(1985、雄松堂出版)に詳しい。

王引之は『秘冊彙函』を使っていた

 王引之は、『秘冊彙函』を使っていた!だからどうしたと言われればそれまでですが、ちょっとした小話として聞いてください。 

 

 王引之(1766年-1834年)の著作に『経義述聞』があります。この本は、父である王念孫から伝え聞いたことを踏まえ、経伝の字句の訓詁を論じたものです。『周易』・『尚書』・『毛詩』・『周礼』・『儀礼』・『大戴礼記』・『礼記』・『春秋左伝』・『国語』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』・『爾雅』と多岐にわたります。ここでは、冒頭の『周易』に注目します。

 

 王引之は、『周易』の訓詁を論じるにあたって、唐の李鼎祚の『周易集解』を多用しています。『周易集解』は、数種類の版本が残されていて、それぞれ多少の字句の異同があります。では、王引之はどの版本を使ったのかと言えば、『秘冊彙函』所収本国立公文書館デジタルアーカイブにて公開されていたので、貼っておきますね)なのです。『秘冊彙函』とは、明の胡震亨らが編纂した叢書になります。明の毛晋の『津逮秘書』のもとになった叢書でもあります(詳しくは、劉斯倫「『津逮秘書』所収の『秘冊彙函』版について」を読みましょう

 

 なぜ秘冊彙函本を使ったかわかるのかと言えば、秘冊彙函本独特の文字の相違を踏襲しているからです。『経義述聞』弟(「第」の打ち間違えではありせんよ)一「光」の項に、次のような『周易集解』からの引用がみえます。

注「其危乃光」曰、「徳大即心小、功高而意下、故曰其危乃光也。」

 これは夬の彖伝に対する注です。これを『周易集解』の諸本と比べてみましょう。

聚学堂刻本・津逮秘書本・雅雨堂叢書本・学津討源本・四庫全書本

「徳大即心小、功高而意下、故曰其危乃光也。」

秘冊彙函本

「徳大即心小、功高而意下、故曰其危乃光也。」

 『経義述聞』では、「即」の下に「以」がありますね。これは、秘冊彙函本にしかみられないのです。とすれば、王引之は、秘冊彙函本から引用したことになるでしょう。

 

 また「師或輿尸」の項では、

師六三「師或輿尸、凶」、虞注曰、「同人、離為戈兵、為折首、故『輿尸、凶』矣」。【『集解』誤作盧氏説。張氏皋聞訂為虞翻説。】

 つまり、『周易集解』では誤って「盧氏」に作っているが、「虞翻」とするのが正しいと言っているのです。しかし、雅雨堂叢書本・学津討源本・四庫全書本では「虞翻」となっています。これらの本を見ただけでは、王引之は何を言っているのか、ちゃんと「虞翻」に作っているではないか、となります。一方で、聚学堂刻本・秘冊彙函本・津逮秘書本をみますと、「盧氏」に作っています。ですから、これらの版本によれば理解できます。その内の秘冊彙函本に則ったのでしょう。

 

 王引之は、『周易集解』は秘冊彙函本を使用しています。秘冊彙函本を前にすると、王引之はこの本を傍らに置いて『経義述聞』を書いていたのかと感慨深いものがありますね。というわけで、『経義述聞』の典拠探し際は秘冊彙函本をみましょう。

 

 なお、秘冊彙函本は善本ではありません。その底本は趙清常から得た伝写本によっており、脱誤が非常に多いです。胡震亨自身それを自覚しており、原本を求め校合したかったが、会試が迫っていてその暇がなかったと言っています(なお、落第した模様)。ですので、みなさんは秘冊彙函本を底本として使うのはやめましょう。