半知録

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『日本書紀』と中国古典籍②

hirodaichutetu.hatenablog.com

前回の記事👆では

 

①『日本書紀』の文辞には「潤色」が見られること。

②その潤色の多くは類書によった可能性が高いこと。

③その依拠した類書は、唐の『芸文類聚』による可能性が高い?こと。

 

などを述べました。今回の記事のメインは「類書」の成立過程についてです

 

 ちなみに、「類書」とは今の百科事典のような書物で、【天】【地】などの項目を設け、項目に関する文章を経史子集より集めて、それを箇条書きにしてある性格の書物です。項目に関する経史子集の文章が一挙に見ることができ、非常に便利なため、日中において古くから重宝されてきました。その編纂は三国の魏に始まるとされており、唐の『芸文類聚』、北宋の『太平御覧』などが代表的な類書となります。

 

 さて、本題に入る前に、前回末尾でちらっと述べた問題に少し立ち入っておきたいと思います。日本書紀』の編纂に類書が用いられたことは、前回の通り間違いないのですが、その利用類書が次の大きな問題となります。前回ご紹介した、継体紀21年の文章と『芸文類聚』所載条文の一致率を見ると、その利用類書は『芸文類聚』であろうと確信してしまいそうですが……日本書紀』巻一(神代上)冒頭部分の典拠を考えたとき、『芸文類聚』利用説に疑義が生じてしまうのです。以下、実際に見てみましょう。

 

神代上冒頭

古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉

 

『藝文類聚』巻一(天部、天)

徐整三五曆紀曰、天地混(▲)沌如雞子盤古生其中…天地開闢陽清為天、陰濁為地盤古在(▲)其中

 この一節に対して『書紀集解』は『淮南子』『三五暦紀』などの典拠あげています。しかし、三国の徐整『三五暦紀』が直接利用されたとは考え難いのです。なぜならば、『三五暦紀』は中国においても早々に姿を消し、平安期の漢籍目録『日本国見在書目』にもその名がないためです。つまり、日本書紀』編者が『三五暦紀』を手にしていた可能性は低く、その文章は類書に依った可能性が高いのです

 

 しかし、その有力候補の『芸文類聚』では「溟涬而含牙」の一句も、『淮南子』の「天地未剖、陰陽不分」および「其淸陽者~天先成而地後定」の文辞も見いだすことができません。対して、『太平御覧』巻一(天部、元気)には「溟涬而含牙」の一句を含む『三五暦紀』および上記『淮南子』の一部の文章が所載されており、その典拠としては『太平御覧』の方がふさわしいように見えます

 

 しかし、『太平御覧』は宋代の……っと、えらく前置きが長くなってしまいましたが……以下、「類書」の成立過程における、ある重要な点をご紹介し、『太平御覧』の条文と『日本書紀』冒頭が重なることの重要性について述べたいと思います。

 

 中国史上最初の類書、三国魏の『皇覧』が編纂されて以降、梁の『華林遍略』、北斉の『修文殿御覧』、唐の『芸文類聚』と時代を追うごとに類書が編纂されていきました。これらの類書の編纂においては、一つの大きな特徴がありました。それは前代の類書を底本にしていると言うことでした。

 

 まず、『修文殿御覧』の編纂について

『太平御覧』巻六〇一(文部、著書)所載の『三国典略』に

 『三國典略』曰…取『芳(ママ)林遍略』加『十六國春秋』、六經、『拾遺錄』、『魏史』等書……後改為『修文殿御覽』。

とあって前代の『華林遍略』を底本とした上で、『十六国春秋』等を新たに加えて、成立したことがわかります。

 

 次に『芸文類聚』についても、その歐陽詢(557―641)序に

……『流别』、『文選』專取其文、『皇覧』、『偏略』直書其事……爰詔、撰其事且文。棄其浮雜、刪其冗長、金箱玉印、比類相從、號曰藝文類聚、凡一百卷……

とあって、集は『文章流別集』や『文選』、経史子は『皇覧』、『偏略』を底本に取り、それらの冗長を削り文章を整えて、成立したことが分かります。

 

 以上のように、新たに類書が編纂される場合には、前代の類書が底本となることが多いのです。そのため、その所載の条文もまた底本と一致する可能性が高いということになります。そして、『太平御覧』もその序文で、前代の『修文殿御覧』、『芸文類聚』、『文思博要』によったことを述べています。また、特に『太平御覧』は『修文殿御覧』の文章をそのまま踏襲する傾向にあったようです。実際、その佚文と『太平御覧』の一致率はとても高く、『修文殿御覧』天部には「溟涬而含牙」を含む『三五暦紀』が所載されていたことが明らかとなっています。*1

 

 ここまで、説明してくると、『太平御覧』の条文が『日本書紀』冒頭の文辞と一致することがなぜ重要かが分かってくると思います。つまり、『太平御覧』との一致=『修文殿御覧』との一致であり日本書紀』冒頭における『修文殿御覧』利用説が浮上してくるのです。そうすると、冒頭で『修文殿御覧』を用いた以上、以下に見られる潤色も『修文殿御覧』によってなされた可能性も浮上してくることとなります。*2

 

 さて、果たして、『日本書紀』編纂に用いられた類書は、『芸文類聚』と『修文殿御覧』のいずれだったのでしょうか。このことを考えるためには、『日本書紀』の他の箇所と『太平御覧』所載文とを比較する必要があります。今回はここで擱筆として、次回はそのことを検討してみたいと思います。そして、この両説の争いに終止符を打つべく現れた、第三の説についてもご紹介したいと思います

*1:これらの点については、森鹿三氏(1906ー1980)「修文殿御覧について」、勝村哲也氏(1937ー2003)「『修文殿御覧』新考」等参照。

*2:『修文殿御覧』利用説の首唱者は、勝村氏である。「修文殿御覧天部の復元」(山田慶兒編『 中国の科学と科学者』1978年)等参照。