半知録

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『日本書紀』と中国古典籍

 今回からは「日本書紀』と中国古典籍」と題し、筆者が卒業論文に際して、調べていたことを少し紹介してみたいと思います。

 

 さて、『日本書紀』とは、天地開闢から持統朝に至る日本の歴史を記した、本邦最初の勅撰国史です。その編纂過程においては、おおくの漢籍由来の文句が本文に用いられ、文章が整えられていたようです。これを専門的には「潤色」と呼びます。『日本書紀』の出典研究は、夙に室町・鎌倉時代に始まり、江戸時代の尾張藩藩士河村秀根『書紀集解』に至っては、その典拠の多くが示されるようになりました。

 

 しかし、ここで問題となるのがそれらの出典をどこから引用したのかということです。河村秀根等はその典拠となる漢籍を逐一挙げて、奈良時代漢籍受容の一端を明らかにしようとしましたが、実はそれらの引用は、逐一漢籍を紐解いてなされたものではなかったようなのです

 

 そのことを始めに指摘したのが大阪市立大学名誉教授の小島憲之氏(1913-1998)でした。小島氏は『日本書紀』に見られる潤色の多くは、唐代の勅撰類書『芸文類聚』によってなされたものであると、指摘しました。次回以降に見て行きますが、この指摘は以降の『日本書紀』出典研究に多大な影響を与えています。

 

以下、その実例を見てみたいと思います。

 

廿一年…秋八月辛卯朔、詔曰、咨、大連、惟茲磐井弗率汝徂征物部麁鹿火大連再拜言、嗟、夫磐井西戎之姧猾。負川阻而不庭憑山峻而稱亂敗德反道、侮嫚自賢在昔道臣爰及室屋、助帝而罰、拯民塗炭。彼此一時。唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。詔曰、良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。重詔曰、大將民之司命。社稷存亡、於是乎在勗哉、恭行天罰天皇親操斧鉞、授大連曰長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。

 

 ここは継体天皇が大連、物部麁鹿火(ものべのあらかひ)へ磐井征伐の詔を下した一節となります。その文辞には多くの潤色が見られ、『書紀集解』は『尚書』『左伝』『文選』『六韜』『史記』など複数の典拠を挙げています。しかし、実際には『芸文類聚』巻五九(武部【戦伐、将師】)所載の条文のみでそのすべての典拠を挙げることができてしまうのです。

 

 

「戦伐」

尚書曰・・・惟恭行天、夫子勗哉……

○又曰、帝曰、咨、禹、惟茲有苗弗率。汝徂征……

侮慢(▲)自賢、反道敗德・・・。

○魏楊修出征賦曰、嗟、夫吳之小夷、負川阻而不廷(▲)……。

○晋張載平呉頌曰・・・憑山阻水……。

○晋陸士龍南征賦曰、大安二年八月、姦臣羊玄之皇甫商、敢行稱亂……。

○魏文帝於黎陽作詩曰・・・又詩曰・・・在昔、周武爰暨(▲)公旦、載主而征、救(▲)民塗炭。彼此一時。唯天所讚(▲)……。

 

「将師」

○黄石公三略曰、良將之軍也。恕己治人、推惠施恩、士力日新、戰如風發、攻如河決

○抱朴子曰、大將民之司命、社稷存亡、於是乎在

淮南子曰……主親操鉞、授將軍曰、此上至天者、將軍制之……。

漢書曰……又曰……闑以內寡人制之。闑以外將軍制之。軍功爵賞(▲)……。

  ※▲=文字の異同を示す(人名・地名等を除く)。 

 

 多少の文字異同は見られますが、『芸文類聚』が引用する範囲からのみ潤色がなされています。仮に、『日本書紀』編者が直接漢籍を紐解き、その文辞を潤色したと考えたとしても、ここまで引用範囲が一致するとは考えがたいものです。そのように考えると、継体紀21年の一節は『藝文類聚』に依拠しなければ、述作しがたいことが分かります。つまり、『日本書紀』の編者はストーリーに類似する「類書」の項目を開き、潤色を行っていた可能性が高いということです。

 

 上記以外にも、『芸文類聚』を利用したと思われる例は少なくありません。以上により『日本書紀』の編纂には唐の『芸文類聚』が利用されたのだ!となればいいのですが、話はそう簡単ではないのです。その問題の発端は『日本書紀』巻一(神代上)冒頭(古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙……)の文辞が、北宋の『太平御覧』の引用範囲と一致することにありました。さて、ここであれ?と思われる方もいるでしょう。そう、720年に完成した『日本書紀』の編者が900年代後半に成立した『太平御覧』を直接みることは不可能なのです。それでは、なぜ『太平御覧』の引用範囲と一致することが問題となるのでしょうか。これを紐解く鍵は、「類書」の成立過程にあります。今回はここで擱筆として、次回以降にその問題を見ていきたいと思います。