半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

陳翀老師を弔う文

2025年皐月己亥 近年稀に見る早さの梅雨入りで陰欝の天が一面に広がる時節に広島大学文学部中国文学教室の陳翀先生(以下、陳先生と略称します)が逝去されました。享年50歳、あまりにも早く辞世されてしまいました。

 

私は元広大中哲の人間であり、指導学生でもありません。ましてや「幼不誄長、礼也」(『礼記』曽子問)と言われる中で、本来私のような若輩が陳先生にこのような追悼文を書くべきではないのかもしれません。ただ、忝くも陳先生から頂戴した学恩に少しでも報いたい気持ちから、いつも満面の笑みで接してくださった在りし日の陳先生を思い浮かべ陳先生との思い出に耽ってみたいと思います。関係各位のみなさまどうぞご寛恕ください。

 

陳先生は中国江西省のご出身です。普段は非常に流暢な日本語を話されていましたが、まれに耳にする中文は巻舌音の少ない南方風の発音でした。先生は能書家で若いころは書道家を目指されていたそうです。中国で数年老師を務められた後に、日本へ留学されました。福岡教育大学大学院で修士号九州大学大学院で博士号を取得されました。博士課程では中文教室の竹村則行先生から厳しく親身な指導を受けたと、にこやかにおっしゃられていたことを記憶しています。その成果は『白居易の文学と白氏文集の成立―廬山から東アジアへ』にまとめられています。近年は旧鈔本を中心とする東アジア漢籍交流史の研究に取り組んでおられました。2019年には『日宋漢籍交流史の諸相―文選と史記、そして白氏文集』を上梓されています。

 

私事ですが、陳先生の授業には学部生時代の中国文学講義と修士時代の『文選』の演習に参加しました。講義の内容は白居易長恨歌」の本文の変遷を取り上げられていたことのほかはあまり記憶に残ってないのですが(申し訳ありません……)、演習では『文選』の蜀都賦を読まれていました。『六臣注文選』(贛州本?)を底本として、担当者が国宝『集注文選』やその他の刊本と対校させながら、指定範囲の本文・注文を解読していく一般的な演習スタイルでした。いつも満面笑容の陳先生とは一転して、厳然老師でした。私も一部を担当させていただきました。いま思えば浅はかですが、当時は担当箇所の句切りをすべて全釈漢文大系の『文選』に頼って臨んでしまいました。当該箇所を忘れてしまいましたが、陳先生から「なんでそこで切れるの?」と問われしどろもどろになった記憶があります。というのも広大中文の小尾郊一先生が訳されたものだったからです。文選の大家がまさか間違うわけがないと妄信していました。また、ある一句を訳す際に、私が「……はおそらく〇〇という意味だと思います」という言い方をすると、先生は「たぶんではダメです」とビシッとおっしゃられました。ドキッとしたのを今でも覚えています。学部生の頃には気づきませんでしたが、陳先生は学問に対して極めて真摯に厳格に向き合われる方でした。こんな言い方をしては失礼極まりありませんが、それを機に陳先生に対する印象が一変しました。大変勉強させていただきました。

 

陳先生はよく声をかけてくださいました。私が中国での留学先を決める際もアドバイスをくださいました。『日中学会報』へ拙稿が掲載された折、就職後学会でお目にかかった時にもいつもの屈託のない満面の笑みで祝福してくださいました。後者の際に少し体調を崩したとおっしゃられていましたが、まさかそれが最後の会話になるとは思いませんでした。

 

広島大学文学部所属教員が記す「人文学へのいざない」に陳先生は以下のようなことを書かれています。

世の中には、いかにも奇妙な話がたくさん存在します。私が博士論文の作成に苦しんでいた時、研究対象である白楽天が、毎日のように私の夢の中に現れてきました。夢の中、二人で何をやっていたのか、あまり覚えていません。会うたびにお酒をたくさん飲み、結局、毎回私が酔い潰れていたような記憶がうっすらと残っています(以下略)

先生と酒を酌み交わしたことはありませんが、かなりの酒豪だったようです。今頃いつもの笑容で白楽天と酒を何度も酌み交わしているのでしょうか。はたまた演習の時のような鋭いご指摘で白楽天を困らせているのでしょうか。私は先生の笑顔を忘れることはありません。そして、先生の懿績は後進の鑑となることでしょう。

 

陳翀先生のご冥福を心からお祈りします。