半知録

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『日知録』易篇訳「互體」

互體

〔要旨〕

互体説は、二爻より四爻に至るまで、あるいは三爻より五爻に至るまでで一卦をなす説である。それは、すでに『春秋左氏伝』にみえている。しかし、孔子は互体説について言及しておらず、後人が互体説の根拠として繋辞伝の「雑物撰徳」や「二与四・三与五同功而異位」を挙げるのは誤りである。また朱熹は、互体説を取らなかったが、二爻ずつ合わせて一爻とする「似」という先儒も唱えていない方法論を作りだしている。互体説を言うに及ばない。

 〔原文〕

凡卦爻二至四・三至五、兩體交互、各成一卦、先儒謂之互體。其説已見於『左氏』莊公二十二年、「陳侯筮、遇觀之否曰、『風爲天、於土上、山也』」。注、「自二至四有艮象」。【四爻變故。】艮爲山、是也。然夫子未嘗及之、後人以「雜物撰德」之語當之、非也。其所論「二與四・三與五同功而異位」、特就兩爻相較言之、初何嘗有互體之説。

『晉書』荀顗嘗難鍾會「易無互體」、見稱於世。其文不傳。新安王炎晦叔嘗問張南軒曰、「伊川令學者先看王輔嗣・胡翼之・王介甫三家『易』、何也」。南軒曰「三家不論互體故爾」。

朱子『本義』不取互體之説、惟大壯六五云「卦體似兌、有羊象焉」、不言互而言「似」。似者、合両爻爲一爻、則似之也。【又謂頤初九「靈龜」、是伏得離卦。】然此又剏先儒所未有、不如言互體矣。大壯自三至五成兌、兌爲羊、故爻辭並言「羊」。

 

〔日本語訳〕 

 およそ卦爻の二爻より四爻に至るまで、あるいは三爻より五爻に至るまで、〔内卦・外卦の〕両体が交互し、おのおの一卦となすことを、先儒は互体と呼んでいる。その説はすでに『春秋左氏伝』荘公二十二年にみえており、「陳侯が筮して、観が否に変じると出て、次のように判じた。『風(巽)が天(乾)となり、土(乾)の上に吹けば、山となります』」とあるのが、【〔観䷓が否䷋となったのは〕四爻が変じたためである。】それである。後人が〔繋辞伝の〕「物を雑へて徳を撰ぶ」の語をもって〔互体説の根拠として〕当てるのは、誤りである。その〔互体説に関連して〕論じられるところの「二と四と、三と五と功を同じくして位を異にす」とは、とくに二つの爻を較べて言ったものであり、初めからどうして互体の説があったと言えようか。

『晋書』に荀顗はかつて鍾会の「『易』に互体はない」という論を難じて、世に称せられたという話が載せられている。その文は伝わっていない。新安の王炎はかつて張南軒に、「伊川先生が学ぶ者にまず王輔嗣・胡翼之・王介甫の三家の易解釈をみさせたのは、どうしてか」と質問した。南軒は、「その三家はただ互体を論じなかったからである」と答えた。

 朱子の『本義』では互体の説を取らず、ただ大壮䷡の九五には「卦体が兌に似ており、であるから羊の象がある」と言って、互体と言わず「似る」と言う。「似る」とは、〔大壮の初九と九二、九三と九四、六五と上五の〕二爻ずつ合わせて一爻とすれば、兌☱に似るということである。【また頤䷚の初九で「霊亀」とあるのは、伏すと〔頤䷚の中間の陰爻が一つの陰爻となり、亀の象を持つ〕離☲卦を得られるからである。】しかしこれとて先儒のいまだなかったものを創りだしており、互体を言ったほうがまだましである。大壮の三爻より五爻までで兌を形成し、兌は羊を表す。それゆえ〔大壮の〕爻辞はならびに「羊」と言うのである。

 

〔解説〕

繋辞伝の「物を雑へて徳を撰ぶ」を互体説の根拠とするのは、『朱子語類』巻六七・易三・綱領下・卦変卦体第十三条に見え、宋代に唱えられた説か。また繋辞伝の「二与四同功」「三与五同功」が互体説を示すものと解した者には、古くは荀爽がいる。