半知録

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年号の名づけ方について

宋書』礼志一

魏明帝初、司空王朗議、「古者有年數、無年號、漢初猶然。或有世而改、有中元・後元、元改彌數、中・後之號不足、故更假取美名、非古也。述春秋之事、曰隱公元年、則簡而易知。載漢世之事、曰建元元年、則後不見。宜若古稱元而已」。明帝不從。乃詔曰、「先帝即位之元、則有延康之號、受禪之初、亦有黃初之稱。今名年可也」。於是尚書奏、「『易』曰『乾道變化、各正性命。保合大和、乃利貞。首出庶物、萬國咸寧』。宜為太和元年」。

魏の明帝の初め、司空王朗は議して、「いにしえは年数があって、年号はなく、漢初は依然としてそうでありました。あるいは(秦王朝では「秦二世元年」のように)世があって改め、(前漢の景帝では)中元・後元があり、元が改まりだんだんと数えていきましたが、中・後の号では足らなくなったため、さらにかりに美名を取ったのであります。それはいにしえのあり方ではありません。春秋の事を述べますと、「隠公元年」と言い、簡略であって分かりやすくなっております。漢世の事を載せますと、「建元元年」と言い、後は示しません。是非ともいにしえのように元と称すだけにしてくださいませ」と述べた。明帝は従わなかった。そこで詔して言った、「先帝の即位の始めには、延康の号があり、禅譲を受けた初めにも、黄初の称があった。今、年に名づけることを可とする」と。ここにおいて尚書は、「『易』に『乾道変化、各正性命。保合大和、乃利貞。首出庶物、万国咸寧』とあります。是非とも太和元年としますようお願い申し上げます」と上奏した。 

 

 以上は、三国魏で行われた改元議論の一部である。王朗は、いにしえには年号はなく、ただ年数だけで示していたとし、いにしえのあり方に従うべきだと主張した。王朗は年号廃止論者だったわけである。それに対し、明帝は、先代には延康や黄初の年号があったことから、年号を付けることを可とした。そこで、尚書の上奏を受け、「太和元年」に改元したのである。

 さて、「太和」の年号は、『易』の乾彖伝の「保合大和」に基いて名づけられたのは明らかであるのだが、「太和」と「大和」で文字が異なっている。現行本は確かに「保合大和」に作るのだが、実は「保合太和」に作る本もあった。ここでは「保合太和」であったから「太和」したはずで、ここは「保合大和」を「保合太和」に訂正すべきである。

 

 年号は、王朗が言うように、中国古来からあったものではなく、実は前漢に始まったものなのである。中国最初の年号は、武帝の「建元」とされる。顔師古は、「古の帝王の未だ年号有らざるより、始めて此に起こる」と注を付けている。しかし厳密には、年号は建元元年(前140年)に始まったわけではない。「建元」の年号は、追号なのである。

有司言元宜以天瑞命、不宜以一二數。一元曰建元、二元以長星曰元光、三元以郊得一角獸曰元狩云(『史記』封禅書)。

有司は言った、元号はぜひとも天の瑞祥によって名づけるべきで、一、二をもって数えるべきではありません。最初の年号を建元、次の年号は長星が現れたので元光、その次は郊祭で一角獣を得たので元狩と名づけましょう。

 この上奏文は、武帝の元鼎三年(前112年)のこととされる。武帝は、この上奏を裁可し、「建元」や「元光」「元狩」といった年号を追号し、その名称はめでたい事柄・瑞祥に依拠して名づけるよう取り決められた。以降の前漢の年号は、基本的にこの命名法を守っている。ただ後漢の年号は、縁起のよい漢字を使ってはいるが、瑞祥をもとに名づけているようにも、経書等に典拠を求めたようにも見えない。どのように年号を決定したのかは、一切その記載はない。

 瑞祥をもって年号を決めることは、基本的な命名法として漢代以降も行われている。例えば、三国魏の「青龍」の年号は青龍が現れたことよるし(『三国志』魏書・明帝紀)、呉の年号の「黄龍」「嘉禾」「赤烏」「神鳳」「甘露」「鳳凰」などは明らかに瑞祥に基いている。

 そうしたことを踏まえ、先に挙げた『易』の文に依拠して年号を決めたことを見ると、単なる改元議論ではなく、年号の命名法の新たな展開という側面が浮かび上がってくる。「太和」は、経書に典拠を求めた最初の年号と言えるのではなかろうか。これ以降、『易』に由来するであろう年号がたびたび見える。史書では年号の典拠について一一記すことはなく推測にはなるのだが、西晋の「咸寧」は乾の彖伝「万国咸寧」、東晋の「大亨」は『易』の常用語、唐の「貞観」は繋辞伝の「天地之道、貞観者也」、同「咸亨」は咸の卦辞「咸、亨」に由来するはずである。

 さて、年号は、現在、中国では廃止され、日本でしか使われていない。その日本の年号の命名法は、中国のやり方を踏襲している。日本の最初の年号は「大化」とされ、以降、「白雉」「朱鳥」「大宝」「慶雲」と続く。日本の最初期は、漢代の故事に従って、瑞祥に依拠して年号を決めていた。それが途中から漢籍に典拠を求めるように変わった。「天応」(781年)は、伊勢斎宮に美雲が現れ、「天より之に応」じたことから名づけられ、瑞祥による命名である。その次の「延暦」(782年)は、『後漢書』「夫熊経鳥伸、雖延歷之術、非傷寒之理」に由来するとされ、漢籍による命名である。ここが転換点である。

 日本が漢籍に典拠を求めるようになった理由は、瑞祥による命名に限界を感じたことあるだろうが、おそらく唐で以上に挙げたように経書に依拠して年号を決めていた事実を遣唐使を通じて知ったからであろう。また最初に挙げた『宋書』の記述も認識していたはずである。

 そして近年、年号の名づけ方に新たな展開を見せた。現在の年号「令和」は、『万葉集』が出典とされ、初めて国書に典拠を求めた年号となった。以後、年号は国書から決めることが通例となるに違いない。わたしたちは、年号の歴史の転換点に生きている。