半知録

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『日知録』易篇訳「成有渝无咎」

成有渝无咎

〔要旨〕

豫上六の爻辞に「成れども渝ふる有れば、咎无し」とあるのは、人は過ちを犯しても初めから改めることができず、その過ちを反省しないことを知らしめるためである。

 

〔原文〕

昔穆王欲肆其心、周行天下、將皆必有車轍馬迹焉、祭公謀父作祈招之詩、以止王心、王是以獲殁於祗宮。傳曰、「人誰無過、過而能改、善莫大焉」。聖人慮人之有過不能改之於初、且將遂其非而不反也、敎之以「成有渝无咎」。雖其漸染之深、放肆之久、而惕然自省、猶可以不至於敗亡。以視夫「迷復之凶」、不可同年而論矣、故曰「惟狂克念作聖」。

 

〔日本語訳〕

昔、周の穆王がほしいままに天下を周遊し、至るところに車轍・馬迹の跡を残そうとしたとき、祭公謀父は『祈招』の詩を作って王の心を引き止め、その結果、王は無事に祗宮で死ぬことができた。『春秋左氏伝』には「人は誰にも過ちがあります。過っても改められれば、たいへん立派なことなのです」とある。聖人は、人が過ちを犯してはじめから改めることができず、その過ちをおしすすめ反省しないことに思いめぐらし、〔豫の上六の爻辞で〕「成ったことであっても悔い改めれば、咎はない」としてこのことを知らしめたのである。しだいに染まっていくことの根深さ、勝手気ままにふるまうことの長きにおよぶとはいえ、注意深く慎重に自省したならば、やはり敗亡という結果までには至らない。〔軍隊を派遣するも、大敗し、国君にまで災いが及んでしまう〕「復に迷うの凶」と較べれば、年を同じくして論じ尽くすことのできないほどの相違がある。それゆえ〔『尚書』に〕「狂人でもよく思いをめぐらせば聖人となる」とあるのである。