半知録

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『群書治要』についてー①

 

 『群書治要』とは唐初、唐太宗の勅命により魏徴らによって編纂された、全五十巻の「類書」*1である。『唐会要』によれば太宗が前代の諸王の得失を通覧せんがために、「六経」より「諸子」に渉ってそれらの事跡を蒐集させたものであると。つまり経・史・子の各書より「治政の要点」を抜粋したものである。

 

 さて、よく知られていることではありますが、その中国での流伝は宋代に至って途絶え、現行の『群書治要』はすべて、日本由来の「旧鈔本」の流れを汲むものであります。最も有名なもので言えば、『四部叢刊』所収の底本には尾張で刊刻され、清代に中国へ逆輸入された「尾張天明七年(1787年)本」(以下、「尾張本」)が採用されています。この「尾張本」がどのような経緯で中国へ舶載されたかについてはやや煩わしいのでここでは贅言しませんが、舶来するやいなや清人学者の広く重んじる所となりました。少し触れておきますと、王念孫『読書雑誌』、厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』などはその恩恵を存分に受けたものと言えます。唐宋以後既に散佚していたものを比較的まとまった形で伝えている、伝世文献であっても宋刊本に由来しない唐鈔本由来の文辞を留めていることもあり、校勘資料・輯佚資料としてなどその価値は高く評価されていたようです。

 

 では、今回はこの『群書治要』の何を問題にするつもりかと言いますと、それは清人学者へ大いに裨益をもたらした「尾張本」の「妄改」についてです。「尾張本」が当時の清朝学術へ齎した功績は計り知れないものがあることは既に述べましたが、先行する「旧鈔本」および印本と対校してみると、かなり(時には妄りに)改変を施していることが明らかになりました。そこで、本シリーズではその「妄改」に焦点を当てて書いていこうと思います。今回の①では「尾張本」に先行する代表的な「旧鈔本」および印本をまとめておきたいと思います。

 

① 九条家本ー<平安写>

 

 この九条家本については是沢恭三「群書治要について」、尾崎康「群書治要とその現存本」に詳しい(以下の諸写本および印本も尾崎論文に詳しい)ので、ここでは簡単にその梗概を紹介しておきたいと思います。

 この九条家本はその名にもあるとおり、九条家伝来の旧蔵品です。かの東京大空襲によって東京赤坂の九条公爵邸は灰燼に帰したものの、奇跡的に一つの土蔵が焼け残り、その中に蔵されていた鈔本の一つとして発見されたものです。後に東京国立博物館に買い上げられ1952年に国宝に指定されました(現在はe国宝で閲覧可。)。

 この九条家本は全50巻中のただ13巻を残すだけの残本ではありますが、現存する『群書治要』中、最古の写本であり、後述する後出の鎌倉写「金沢本」および前述の「尾張本」との関係などからその「旧鈔本」間における系統・伝承に関して貴重な情報を今に伝えています。また、装丁は巻子本でありますが、尾崎氏曰く、その料紙は非常に美麗かつ優雅なものであるとのこと。書物の装丁とその書物の当時における位置、いわばヒエラルキーというものは密接に関係しているものです*2。その点からもみても平安期宮中における『群書治要』の位置は非常に高かったと言えるかもしれません。

 

② 金沢本ー<鎌倉写>

 

 この「金沢本」は同写本中最も広く知られており、最初の印本であり、後の印本の底本ともなる後述の「元和版」の底本であるため、現行の『群書治要』の祖本はすべて「金沢本」ということになります。

 さて、「金沢本」もその呼称のとおり、「金沢文庫」旧蔵品であります。鎌倉中期頃の写本と見られており、現在は宮内庁書陵部の所蔵となっています。また、現在では汲古書院より出版された洋装(全七冊)の影印本があり、広く用いられています。追記:宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧 および、国立国会図書館デジタルアーカイブにてデジタル閲覧可能となっております。

 ただ、この「金沢本」とて足本ではありません。これもよく知られていることではありますが、現行の「群書治要」はすべて全50巻中の3巻(巻4、13、20)を闕く47巻本であり、それはこの「金沢本」に由来するものであります。一体いつごろその3巻が失われたのかについては、後考を俟たねばなりませんが、「金沢本」の巻末のほとんどに奥書が、本文中には「ヲコト点」、その傍ら・眉上には校合の跡が残されており、その成り立ちについて多くの情報を留めています。

 

③ 慶長写本ー<慶長写>

 

 この「慶長写本」は広く知られていませんが、徳川家康の命による「元和版」の刊行に先立ち、慶長15年(1610)に家康が鎌倉五山の僧に命じて「金沢本」を謄写させ、「元和版」の底本として参照されたものと見られています*3。その謄写は「金沢本」にかなり忠実であり、異体字は通行体に改められているものの、ヲコト点・音訓符等についても概ねそのまま書き写されています。現在は国立古文書館所蔵であり、「国立古文書館デジタルアーカイブ」においてネット閲覧可能となっています。

 「慶長写本」が貴重な理由は、「元和版」の刊行方針を窺うことのできる数少ない資料であるからです。「慶長写本」が謄写した「金沢本」が「元和版」の唯一の底本であったとは考えにくいですが、この「慶長写本」「元和版」を簡単に対校させてみるだけでも、その異同は少なくありません。中には、『群書治要』所収の原典を見なければ改変し難いと思われるものもあり、その刊行方針においては必ずしもその原貌を保存するという点に重点は置かれていなかったとも言えるかもしれません。

 

④ 元和本ー<元和刊>

 

 この「元和本」(或いは「駿河版」)の編纂過程については夙にその記録が残されており、近藤守重『右文故事』巻五に比較的まとまった形で要約がなされています。

 この「元和本」は『大蔵一覧集』の銅活字印刷に続いて、刊行された銅活字による印刷物です。その経過は元和二年(1617)の二月に着手し、その年の五月に完成したとされています。ただ四箇月という驚異的な速さで刊行に至るものの、活字出版を命じた家康はちょうど刊行のひと月前である元和二年4月に薨御し、その完成を見ることはなかったようです。生前一部刷り上がった活字を見て大いに喜んだともありますから、さぞかし無念であったでしょう。

 さて、現行の元和本は駿府で刊行されたのち、元和五年に紀伊徳川家初代当主、徳川頼宜が紀伊へ転封される折に『大蔵一覧集』と共に紀州へ運ばれたらしく、現存の「元和本」はすべて、紀伊藩から各所へ配られたものと考えられているようです。

 また、紀伊藩は「元和版」が刊行された230年後の弘化三年(1846)に「元和本」刊行の際に用いられた銅活字を再び用い、『群書治要』の再刊を行っています。この刊行は「尾張本」よりも後のものであるので、ここでは贅言しないことにします。

 

 非常におおざっぱにではありますが、「尾張本」に至る写本・印本について略述しました。次回は本シリーズのメインである「尾張本」について書いていこうと思います。

 

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*1:「類書」に分類されないことも多い。

*2:この点に関して、佐々木孝浩『日本古典書誌学論』に詳しい。

*3:慶長写本」及び「元和版」については上記尾崎論文、福井保『江戸幕府刊行物』(1985、雄松堂出版)に詳しい。