半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

卦名の由来

六十四卦には、それぞれ名称が付けられている。乾・坤・屯・蒙・需・訟、等々。しかし、なぜそのように名づけられたのか。今回は卦名についてのお話である。

 

 卦名の由来について、大きく分けて四つの説がある。八卦は事物の観察からできたものなので、ある物象の名によって名づけたとする取象説、卦象は事物の理を代表するので、その義理を取って名づけたとする取義説、爻辞の中から一字あるいは二字を取り出して名づけたとする取筮辞説、その卦爻辞で占うべき事柄をもって名づけたとする取占事説である。とりわけ取筮辞説は、例えば、困のように、初六の爻辞に「臀困于株木」、九二には「困于酒食」、六三には「困于石」、九四には「困于金車」、九五には「困于赤紱」、上六には「困于葛藟」とあり、説得力があるように思える。卦名とその占辞には密接な関係があることは疑いない。しかし、卦名が占辞に全く出てこない卦もあり、すべての卦名の来源を占辞に求めることはできない。そもそも、先に卦名があって占辞が作られたのか、先に占辞があって卦名が付けられたのか、という問題もある。

 

 六十四卦の卦名は、古来より不変であったというわけではなかった。新たに出土した楚竹書『周易』、馬王堆帛書『周易』、阜陽漢簡『周易』に記されている卦名と今本の卦名と異なっている箇所が多数あった。例えば、前漢初期に書写された帛書『周易』では、履が「礼」、艮が「根」と書かれていた。ただ、その相違は、おおむね音が近いことによる仮借とみなせる。漢字が異なるとはいえ、全く乖離しているというわけではなない。後漢末に彫られた熹平石経『周易』の残石にみえる卦名は、大体、現在のと一致している。

 

 しかし、帛書『周易』や熹平石経『周易』では、坤が「川」のように書かれていたことが一つ問題となった。しかも、それが単なる例外ではなく、漢から南北朝に至るまでの石碑の大多数が、「坤」を「川」や「巛」のように彫っていたのである。唐の陸徳明は、「巛」は坤の今字なのだとした。それに対し、毛居正は、「巛」は☷を象ったもので、坤の古字なのであり、陸徳明が今字とするのは誤っているとした。清の王引之は、「川」は「坤」の仮借であり、「巛」は「川」の隷書なのだとした。陳金生は、「坤」は「川」が本来の卦名なのであり、「坤」と「川」は古今字ではなく、音が近かったために相互に仮借されたものに過ぎないとする。また、坤を「川」や「巛」に作るのは、仮借によるものではないという説も立てられている。この「川」を「順」と解すことはできても、「坤」の仮借と解釈することはできないとするのである。坤の象伝に「地勢坤」とある。王弼は、「地形不順、地勢順」と注を付けている。なぜ象伝の「地勢坤」が王弼注では「地勢順」となるのか。これは、説卦伝の「坤は、順なり」に拠ったのではなく、王弼がみた象伝が「地勢川」に作っていたからだとする説が提出されている。漢から魏晋南北朝までは、䷁の卦名は専ら「川」や「巛」とされていたことは確かである。「坤」が卦名として広く普及したのは、隋・唐に至ってからだとされる。

 

 ところで、各卦の象伝では、大部分が「卦象+卦名」の形で記されている。ところが、乾のみ「天行健」と、卦名と一致しないのである。これも、帛書『周易』では乾を「鍵」に作っていたことが注目される。「乾」の卦名が古くは「健」であったとすれば、この象伝もまた「卦象+卦名」の大例から外れていないことになる。乾の卦名も、もとは「鍵」あるいは「健」とされていた可能性がある。

 

 しかし、先秦時代に「乾」「坤」といった卦名が全く存在しなかったわけではない。清華簡『筮法』では、『易』で言う乾坤にあたる卦が「乾」「𡘩」と釈読されている。「𡘩」は坤の異体字とされる。「𡘩」の卦名は、今に伝えられている『帰蔵』にもみられる。もしかすると、こうした卦名の変動は、『易』と六十四卦を共有する別の占書との混淆の結果なのかもしれない。

 

 卦名の由来は、はっきりとはわかっていない。『易』の卦名は、先秦・前漢ではまだ安定しておらず、後漢までにはおおよそ今の形となり、「坤」の卦名は隋唐まではもっぱら「巛」とされていたが、唐以降、「坤」の呼称で定着したとするのが大筋の流れである。

 

今回はここまで。次回は、夏と殷の占書とされる『連山』『帰蔵』について話そうと思う。

 

 

八卦と六十四卦の成りたち

 今回は、『易』の根幹である八卦と六十四卦の成りたちについてのお話である。 

 

 陰爻・陽爻を三画あるいは六画重ねたものを「卦」と呼ぶ。『易緯』では、「卦は、掛なり」とする。つまり、万物の象徴をその記号に関連づけて人に示したことからきたのだという(『周易正義』での解釈)。『説文解字』では、卦は筮(めどぎ)のことだとしている。「卦」と名付けられた理由は、実はよくわかっていない。

 

 八卦の形成に関する説話は、すでに繋辞伝にみえる。それによると、『易』での万物の根源とされる太極から天地が生まれ、天地から四象が生まれ、四象から八卦が生まれたという。四象については諸説あり、金木水火とする説や春夏秋冬とする説などがある。また、伏犠が天下に君臨しているとき、仰いでは天体の現象を観察し、俯いては地上の法則を観察し、鳥獣の文様や動植物のあり様を観察して、八卦を初めて作ったともある。八卦とは、乾☰・坤☷・震☳・巽☴・坎☵・離☲・艮☶・兌☱のことを指す。伏犠が万物の事象をみて八卦を作ったとされることから、八卦にはありとあらゆる象徴が付与されている。例えば、乾は天、坤は地、震は雷、巽は風、坎は水、離は火、艮は山、兌は沢の象徴だとされる。しかも一つだけではなく、おのおの十数個もの象徴が配当されている。それは、とりわけ説卦伝に記されている。こうした八卦の象徴は占断に利用され、『左伝』に卦象を用いた占断例が記録されている。

 

 六十四卦は、八卦を上下に重ねたもの、すなわち陽爻あるいは陰爻が六つ重なったものである。例えば、屯卦は䷂(震下坎上)、否卦は䷋(坤下乾上)で表される。八卦八卦の組み合わせは、六十四通りある。それゆえ、六十四卦と呼ばれる。下にある八卦は、内卦あるいはそのまま下卦と呼ばれ、上にある八卦は、外卦あるいは上卦と呼ばれる。さて、誰が八卦を重ねて六十四卦にしたのかについては、諸説ある。唐までには、(1)伏犠説、(2)神農説、(3)夏禹説、(4)文王説があった。これらはいずれも、偉大な発明品を古代の帝王に結びつけようとする中国の伝統の所産であり、信用するに足りない。明末清初の人である顧炎武は、重卦は文王に始まらないと、六十四卦は文王より前にはあったと論じた。前回のブログで書いたとおり、殷周の甲骨文や青銅器には、今の卦の原初形態と推される数字卦が存在していたことがわかっている。顧炎武は正しかった。文王より前には六つの画を重ねる卦の着想があったことは疑いない。

 

 王家台秦墓からみつかった『帰蔵』と目されている易占書には、卦画とともに卦名も書かれていた。古くは三易と呼ばれる『連山』『帰蔵』『周易』があり、それぞれ夏易・殷易・周易とされる。それと今本の『易』の卦名と比べると、全く同じ卦名があるなど、非常に近い関係にあった。もし王家台秦簡『帰蔵』が本当に殷の占書ならば、『易』はそれを踏襲したことになる。しかし、王家台秦簡『帰蔵』が『易』より前に成立した書物であったか確証はない。

 

 とはいえ、『左伝』には、『易』と同じ六十四卦を共有しながらまた異なる占書があったことを示す記述がある。例えば、魯の襄公九年(前564年)の占筮例に「穆姜 東宮に薨じ、始めて往きて之を筮し、艮の八に之くに遇う。史曰わく、是れ艮の隨に之くを謂う、随は其れ出づ、君必ず速に出でよ、と。姜曰く、亡し。是れ周易に於いて曰わく、隨元亨利貞、咎无し、と」とある。筮して「艮の八に之く」が出、まず史は「艮の随に之く」ということだと解し、占断する。それに対し、姜は、「『周易』に於いて」はと、随の卦辞を持ち出す。史と姜は、ともに随の卦でもって占っているが、姜は『周易』を用いているのに対し、史は別にもとづくところがある。顧炎武は、姜がわざわざ「『周易』に於いて」と前置きしていることに着目し、夏と殷の占書に同じ六十四卦があったことの明証とする。六十四卦は、決して『易』の専売特許ではなかったのである。

 

 数字卦の発見により、六つの画を重ねる形は殷周まで遡ることが明らかとなった。そこで、八卦があって六十四卦ができたわけではなく、先に六十四卦があって、後に八卦が生じたのだとする説が提出されるようになった。それを唱えたのが、韓仲民である。韓仲民は、数字卦は六つの数字で一組になっていること、重卦の説は先秦文献資料に記載が見られないこと(卦象を考えるときは上・下の区別があったとするが、苦しい)、通行本六十四卦の配列が上下の八卦を考慮していないことなどを論拠に、六十四卦を上三爻と下三爻に分けて重卦として考えるのは漢代人の見方だと主張した。

 

 しかし、清華簡『筮法』の発見により、戦国時代には八卦の概念が存在していたことははっきりとした。筮法』には、八卦の卦名や八卦単位での干支配当もみられ、その数字卦には上三爻と下三爻の間に有意な隙間があった。人の形をした絵に頭や手足に八卦を当てはめている「人身図」が書かれていたことも注目される。ただ、八卦の概念が先秦にはすでに存在していたことの明証となるが、八卦から六十四卦に派生したことの証明とまでには至らない。八卦と六十四卦の先後問題は、まだ解決されていない。

 

 今回はここまで。次回は卦名についてお話ししようと思う。

 

 

野間文史先生の学問とその人ーその弐

 

hirodaichutetu.hatenablog.com

  その壱👆、では野間先生の出生から助手時代までを追った。今回はその後、新居浜高専に就職されて母校の広島大学に戻られるあたりまでの経歴と学問を追ってみようと思う。

 

新居浜高専時代~広大中哲に戻られるまで

 1976年、28歳の時に専任講師として愛媛県新居浜工業高等専門学校に就職される。以降13年間新居浜高専にて奉職されるのであるが、この間に発表された論文は現在の野間先生の学問を形成する基礎となるものであった。助手時代から続いた、「説話」シリーズは前回あげた二つに続き「孫叔敖攷(続)」*1を書かれたものの、これを最後に野間先生がこの方面の論文をお書きになることはなかった。以降、野間先生は1年一本もしくは二本というペースで自身のお勤めになる新居浜高専の『紀要』に寄稿を続けられる。だが、注目すべきはその内容である。1980年~1985年『春秋正義』(三伝)、1986年~1987年『尚書正義』、1988~1989年『儀礼正義』『周礼正義』、とそれぞれの引書索引を毎年一本(『左伝』3年、『穀梁伝』1年、『公羊』1年etc)のペースで完成させている。そして、その成果は「五経正義所引定本考」*2、「引書からみた五経正義の成り立ち-所引の緯書を通して-」 *3、「引書からみた五経正義の成り立ち-書伝・書伝略説・洪範五行伝を通して-」*4これらの論文に結実する。上記論文はいずれも博士論文である「五経正義の研究-その成立と展開-」の一部をなしている。

 では、野間先生が「五経正義」研究にシフトチェンジされたきっかけは何だったのであろうか。前回紹介したインタビュー記事の中で少しではあるがその動機について語られている。

 質問者:「野間先生が中国学の中でも経学研究を選ばれたのは、どなたかの影響を受けてのことなのでしょうか?」

野間先生:「直接教えを受けた恩師に言及するならば、当然必ず池田末利先生と御手洗勝先生の両名を挙げなければなりません。この他に、私が今日『五経正義』を研究している、その根底には吉川幸次郎先生の影響があります。吉川先生の日本語訳『尚書正義』が、私を『五経正義』研究に従事するよう導いたのです。私は決して直弟子ではありませんが、何度か学会の中でその公演を聞いて、影響を受けました。「私淑」の弟子と言えるのではないでしょうか。」

  なんと、あの中国文学の碩儒、吉川幸次郎先生の影響があるという。また、引書索引の作成から「五経正義」研究を始められた所以について、1999年の「讀五經正義札記」*5に以下のようにある。

経学研究に志した以上、一通りは「十三経注疏」を読んでおこうと思った。今から二十数年前のことである。その際、何か或るテーマを持って読むに越したことはなかったが、実際のところ読む前から適当なテーマが有るはずもない。そこで取り敢えず「引書索引」を作成することと並行して読みすすめることにした。

 これを書かれた当時から二十数年前は、ちょうど野間先生が新居浜高専に就職された頃にあたる。修士論文では「五経正義」を扱うことはなかったようであるが、上記にもあるとおり、吉川幸次郎先生の影響を受けつつ、新居浜高専の就職を期に引書索引の作成から「五経正義」の研究に着手されたのであろう。

 ここからは、噂の域をでないが、広大時代、野間先生は研究室の学生から敬意をもって影で「広大のカント」と称されていたようである。それは、先生の生活スタイルに起因する。その壱でも述べたとおり、学生時代より今に到るまで朝型の人間であり、教員時代も、毎日早朝の決まった時間に出勤され、淡々と仕事(読書)をされていたようである。そして、定刻の退勤時間になれば寄り道することなくさっと帰る。これを何十年も続けられたという。まさにあの「イマニュエル・カント」を彷彿とさせる生活スタイルなのである。おそらく、新居浜高専時代も毎日変わらぬ生活スタイルを維持されながら、コツコツと引書索引を作られていたのであろう。当時はネットも発展していない時代であり、その苦労も一入である。

 さて、1990年、助教授として広大中哲にお戻りになる。以降の野間先生は非常に精力的に活動を行われる。「引書索引」の成果を基礎に「五経正義」の語法・語彙についても研究を広げられ、また、「五経正義」だけに留まらず「十三経注疏」全体に研究領域を広げられる。さらに、先生の原点である「春秋学」の入門書を出版されるなど、語りきれないほどに成果を残されている。これらについては次回以降に述べていこうと思う。

 

*1:新居浜工業高等専門学校紀要』14、1978

*2:『日本中国學会報』 37、1985

*3:『哲学』40(広島哲学会) 1988

*4:新居浜工業高等専門学校紀要』25、1989

*5:『東洋古典學研究』8、1999

陰⚋陽⚊の起源

 『易』は陰と陽が根幹となっていることはよく知られている。『易』では、陰陽は⚋・⚊で表される。この記号を三つ重ねたものが八卦であり、六つ重ねたものが六十四卦である。では、なぜ⚋・⚊の記号が陰陽の代表とされるのだろうか。今回は、陰⚋陽⚊の起源についてのお話である。

 

 中国の特徴的な考え方に、陰陽思想というものがある。世界のあらゆる物事を陰と陽で説明しようとする考え方である。こうした説は、『易』にも取り入れられていた。「一陰一陽之れを道と謂う」や「乾は、陽物なり。坤は、陰物なり」とあるように、『易』もまた陰と陽によって説明されるのである。陰とは「ひかげ」のことで、陽とは「ひなた」のことを意味している。しかし、『易』での陰陽はそうした原義よりも、象徴的で相反する意味合いで使われる。陽は天―剛―君―父―男―夫を表すのに対し、陰は地―柔―臣―子―女―妻を表すようにである。主に、陽は男性的側面で、陰は女性的側面で捉えられる。『易』では、陽を一本線の「⚊」で、陰を二本線の「⚋」で表される。

 

 では、陰陽を表す⚊・⚋は何なのか。郭沫若は、⚊は男根、⚋は女陰を象った形だとみた。これが敷衍されて、⚊・⚋が男女・父母・陰陽・剛柔・天地の概念となったのだというのである。武内義雄は、易の筮法は亀卜から変化した占法だとし、亀の甲羅を焼いて占った際のひび割れの形が⚊・⚋のもとになっているのではないかとした。

 

 ただ、いずれも想像に過ぎず、その由来についてこれまで分かっていなかった。しかし、昨今の陸続と発見される文物のおかげで、⚊・⚋の正体が明らかになりつつある。⚊・⚋は、もとは数字だったのである。

 

 一九七八年十二月初め、吉林大学で首届中国古文字研究会学術学討論会が開催された。初日の午後、徐錫台は周原から出土した甲骨文の報告を行った。その中で、ある「奇字」が問題となった。それは、単純な記号が六つ重なったものであった。二日目、張政烺は「古代筮法与王演周易」の臨時の講演を行った。そこで、張政烺は、周原甲骨文に刻まれていたその「奇字」は一・五・六・七・八の数字を表すものであり、『易』で言うところの老陽・少陽、老陰・少陰に相当するものだと発表した。つまり、六つの数字は易卦を表すものであるとしたのである。この張政烺の視方は、その会場で肯定的に受け入れられ、大きな反響を得た。しかし、臨時講演で準備不足ということもあり、解決にまでは至らなかった。ただ、今から見れば、この講演は卦爻画の性質と来源についての大きな転換点となった。

 

 張政烺は、回京後、すぐに甲骨・青銅器上の「奇字」が彫られた材料を収集し、「奇字」と数字そして易卦との関連性を証明しようとした。その成果として結実したのが、「試釈周初青銅器銘文中的易卦」である。その論考では、甲骨・青銅器から「奇字」三十二例を収集し、数字の一(f:id:hirodaichutetu:20191127204413p:plain)・五(f:id:hirodaichutetu:20191127204443p:plain)・六(∧)・七(f:id:hirodaichutetu:20191127204502p:plain)・八(f:id:hirodaichutetu:20191127204517p:plain)で構成されていることを明らかにした。そして、奇数を陽、偶数を陰とみたて、一・五・七を陽爻、六・八を陰爻に変換し、易卦と対応させた。不思議なことに、二・三・四の数字は出てこない。張政烺は、数字は縦に刻まれていくので、二・三・四(f:id:hirodaichutetu:20191127204538p:plain)は混同されやすく区別し難くなるので省かれたのだとする。なおその後、九(f:id:hirodaichutetu:20191127204551p:plain)の用例も見つかっている。つまり、甲骨文字・青銅器に彫られた「奇字」は、数字を表しているのであり、実は易卦の原初形態を示すものだとみたのである。この論考は、以降、多大な影響を与え、甲骨・青銅器上の「奇字」が、易卦の起源とみなされるようになった。「奇字」は、「数字卦」と呼ばれるようになる。さらに数字卦は、戦国時代でもなおみられる現象であった。天星観楚簡、包山楚簡には卦爻を含む卜占が出土した。それも、やはり一・六・八・九の数字で構成されていた。こうしたことも、張政烺の説が広く受け入れられる要因となった。

 

 甲骨文字・青銅器そして戦国楚簡の数字卦に含まれる数字には、出現頻度に偏りがあった。全体を通して、一(f:id:hirodaichutetu:20191127204413p:plain )と六(∧)の出現頻度が最も多かった。張政烺は、そこに着目した。一は奇数で陽を表し、六は偶数で陰を表す、一と六こそ、⚊・⚋の前身であったと主張したのである。確かに楚竹書『周易』、馬王堆帛書『周易』、阜陽漢簡『周易』の陽爻と陰爻は、いずれも一と八のような形態で書かれていた。張政烺は、八は∧(六)が二つに割裂したものだとみた。

 

 しかし、張政烺の説に反対意見がなかったわけではなかった。李学勤は、当初から戦国簡において、卦爻の形は、数字と関係がなく、そのまま爻画なのだと主張していた。張政烺の逝去の翌年、二〇〇六年、李宗焜は「数字卦与陰陽爻」という論考を発表した。それは、易の卦爻は、数字卦が変形したものではなく、抽象的な幾何線がもとであり、陰陽説が盛大に流行した後、ついに陰陽の名称がつけられたのだと結論付けるものであった。また呉勇は、「⚊」「⚋」は陰陽卦画なのであり、「一」「五」「六」「八」は四象(老陽・老陰・少陽・少陰)の符号なのであると主張した。少数派ながら、こうした易の卦爻は、数字卦に由来するものではないとする説も唱えられていた。

 

 また折衷案も提出された。甲骨や竹簡などの数字卦は占筮の記録であり、⚊・⚋の前身となった記号は占筮の結果を表す専用の符号なのであるというものである。つまり、筮竹を数えて出た数字をそのまま書いたのが数字卦、その偶数を⚊、奇数を⚋に変換したのが今の易卦の原型だとする。このように数字卦の数字は、今の『易』が筮竹を数えて爻を導き出すように、筮数に関わるものではないかと議論されている。ただ、筮数だとして、数字の出現率の不均衡は不自然ではないかという疑義も提出されている。数字卦の数字の由来については、いまのところ定説はない。

 

 二〇一三年、清華簡『筮法』が公開された。それは、戦国中期ごろに書写された『易』に非常に近い形態を持つ占書であった。その『筮法』に描かれている卦爻は、まさしく数字の一・四・五・六・八・九で表されるものであった。それを受けて、李学勤は、戦国簡にみえる卦爻は数字卦であると考えを改めるに至った。なお『筮法』の「一」は、数字の「七」を表すという説もある。また『筮法』では、四の爻はf:id:hirodaichutetu:20191127204728p:plainのように表されており、他と混同しない形となっていた。

 

 張政烺は⚊は一、⚋は六に由来するとしたが、それに対し、李零は⚊は一に由来するが、⚋は八が起源であると正した。韓仲民は、七は古くは「一」に近い形で書かれていたことから、⚊は七から、⚋は八から来たとする見解を示した。その後、丁四新は、清華簡『筮法』を論拠に、⚊は七を表しているのだと主張している。

 

 ⚊・⚋の前身が何であるかは、今なお議論が交わされている。ただ⚊・⚋が数字に由来するということは、大方の見方である。しかし、数字爻がいつ今の⚊・⚋の形に統一されたのかはわかっていない。楚竹書『周易』ではf:id:hirodaichutetu:20191127204759p:plainf:id:hirodaichutetu:20191127204816p:plain、帛書『周易』ではf:id:hirodaichutetu:20191127204836p:plainf:id:hirodaichutetu:20191127204852p:plain、阜陽漢簡『周易』でもf:id:hirodaichutetu:20191127204908p:plainf:id:hirodaichutetu:20191127204925p:plainと描かれていた。一方、後漢熹平四年(一七五年)に彫られた熹平石経『易経』ではf:id:hirodaichutetu:20191127204942p:plainf:id:hirodaichutetu:20191127204959p:plainに作っている。前漢では依然として『易』の陽爻・陰爻は一と八のような形で書かれていた。それが後漢末までに今の⚊・⚋の形で定着したことが窺える。

 

 さて、⚊・⚋が数字に由来するとすれば、その数字爻がいつ陰と陽とに結びつけられたのかという問題が残されている。陰と陽という字は、卦辞・爻辞ではほとんど出てこない。そのことから、爻には、当初は陰と陽の意義が含まれていなかったとされる。文言伝や繋辞伝といった易伝において、初めて陰と陽の概念をもって説明されるようになる。ただ、彖伝や象伝では、陰陽よりも、剛柔で言い表されることがはるかに多い。これは、易伝の重層性に起因しているのだとみなされ、剛柔二元論は陰陽二元論に先んずるとされる。『易』に陰陽思想が取り入れられたのは、陰陽思想が流行した戦国中末期だとする説も立てられた。⚊・⚋が陽と陰の代表とみなされるのは、『易』の成立当初からの考えではなく、後付けの解釈だとみられている。しかし、⚊・⚋が陽・陰の代表とされるようになったのがいつなのかという問題は、研究途上にある。

 

 今回はここまで。次回は、八卦と六十四卦について話そうと思う。

 

 

古代中国の占い書はなぜ「易」と呼ばれるのか

 儒教経典の一つに『易経』という書がある。『易経』とは、一言で言えば古代中国の占いの書である。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」ということわざやNaruto日向ネジの技である八卦六十四掌は『易経』に由来している。ただ日本人で「エキキョウ」と聞いて占いの書だとピンとくる人はすくないだろう。中国人でも学校で習わないからよく知らないという人がいた。そこで、あまりなじみのない『易経』に興味を持ってもらうために、すこし『易経』について書いていこうと思う。今回は、「易」という名称についてである。

 

 古代中国の占い書は、なぜ「易」と呼ばれるのか。孔頴達は、「夫れ易は、変化の総名」だと言う。「易」の「かわる」という意味を重視し、陰陽の変化がその本質だとみなしたのである。現代でもそれが一般的な見方であり、「易」を、簡単の意味の「イ」ではなく、変化の意味の「エキ」と読むのもそのためである。英語では、「Book of Changes」と訳されるのも同様である。

 

 ただ、「易」には変化だけではなく、他の意味も内包されていたという説がある。それが、易三義説である。『易』という名称には、「易簡」「変易」「不易」の三つの意義が内包しているとする。「易簡」とは簡明であり従いやすいこと、「変易」とは変化して窮まることがないこと、「不易」とは天尊地卑の秩序は変わることはないことを意味する。「易簡」の「易」は、「難易」の「易」の意味からみた解釈である。易三義説が、最も早くみえるのは前漢末以降に成立した緯書である。その内の『易』の解釈書に相当する『易緯乾鑿度』にみえる。鄭玄をはじめとしてその後の注釈者たちもその説を踏襲し、広く受け入れられることになった。とはいえ、易三義説は、漢代における創見とはいえない。「易簡」は繋辞伝の「易かれば則ち知り易く、簡なれば則ち従い易し」、「変易」は繋辞伝の「生生之を易と謂う」に、その根拠が見いだせる。「不易」については、鄭玄『易賛』では、繋辞伝の「天尊く地卑しく、乾坤定まる。卑高以て陳なりて、貴賎位し、動静に常有りて、剛柔断まる」の文句を挙げて、「ひろく行きわった序列で変わらないことを言ったものだ」としている。であるから、易三義説の考え方自体は繋辞伝から導き出され、先秦時代にはすでにあった捉え方であったとみることできる。漢代において、易三義説としてまとめられたのであろう。

 

 では、「易」の字義からはどう言えるだろうか。後漢の許慎の作である『説文解字』では、次のように解釈している。「易は、蜥易、蝘蜓、守宮なり。形を象る。秘書は、日月を易と為し、陰陽を象るなりと説く」と。つまり、「易」の原義は、とかげややもりの象形文字だというのである。とかげややもりは、時と場合によってその色を変化させる。そのことから「易」に「変わる」という字義があるのだとする。また、日と月を合したのが「易」という文字であり、陰陽を象った字だとする説も挙げている。「秘書」とはどういった書物なのか詳らかでないが、緯書の類だとされる。後漢の魏伯陽の著作とされる『周易参同契』にも「日月為易、剛柔相当」とあり、漢代でよく唱えられていた字源解釈であったのであろう。

 

 しかし現在、甲骨文字や金文の研究の進展で、『説文解字』の字解は不正確であることがわかってきている。「易」は、甲骨文字では「f:id:hirodaichutetu:20191121223215p:plain」のように書かれる。季旭昇は、両手で二つの酒器を捧げ持ち、それを傾けて注いだのを受ける形に従っており、会意で「変易」と「賜る」という義を表しているとする。「易」の古字は、とかげの字形といくぶん類似していたために、許慎は取り違えてしまったのだと指摘している。何琳儀は、一つの皿を傾けて水を別の皿に注ぎ入れる義を表し、引伸して変易の義となったとする。「易」の本義については完全に解明されたとは言えないが、『説文解字』の字解が成り立たないことは確かなようである。

 

 古代中国の占い書が「易」と名づけられたのは、やはり変幻自在でいかなる場面にも対応できる「変易」の面を重視してのことであったと考えられる。

 

 今回はここまで。次回は、『易』の陰)の起源について話していこうと思う。 

 

広島大学中国哲学研究室(広島大学中国思想文化学研究室)

広島大学の中国思想文化学では、主に中国哲学を研究してます。

 

それほど人数はいませんが、何とかやってます。

 

このブログでは、広大中哲の中の人が、中国哲学に関すること、

 

あるいは広大中哲の日常をだらだらと書いていきます。

 

よろしく、どうぞ。

 

 

f:id:hirodaichutetu:20190807141926p:plain

 

野間文史先生の学問とその人ーその壱

 野間文史(1948ー)、言わずと知れた中国哲学の大家である。「五経正義」及び「春秋学」を専門とされ『五経正義の研究』(研文出版、1998)はその代表作の一つである。また、一般向けに「経学」を解説した『五経入門』(研文出版、2014)は一般向けとは言いながらも、非常に骨のある本であり、中哲をかじったことがある人であれば一度は手に取ったことがあるのではないだろうか。現在は教員を退職されたものの、まだ記憶に新しい『春秋左伝正義』の全訳や広島大学機関誌『東洋古典学研究』への寄稿など今もなお活躍を続けられている。本ブログの初投稿として何が良いかとあれこれ悩んだ結果、近くにいるようで遥かに遠い存在である野間先生の経歴とその学問形成を追いながら野間先生の学問を今一度見つめ直してみようと思う。

 ①出生~大学院修了まで

  1948年、愛媛県今治市に生まれる(四国本島ではないといううわさ話を聞いたが定かではない)。高校時代は蒲鉾屋さんの二階に下宿をされていたようだ。蒲鉾屋の職人は朝が早く、当時の野間少年も同じように起床し受験勉強をしていたために、爾来今に到るまで朝型の人間になったそうだ。では、野間少年が広島大学中国哲学研究室(広大中哲)を志したきっかけは何だったのであろうか。野間先生が広大を退官される際、広大文学部のメールマガジンに寄稿された挨拶の中でそのゆかりについて以下のように述べられている。

さてその蒲鉾屋さんの長女のご主人が兵庫県で高校教師をしておられ、今治市への里帰りの折りに進路相談に乗ってくださいました。2年生で数学に躓き、3年生で英語に難渋し、強いて言えば漢文が好きだと申したところ、中国哲学という学問分野があり、広島大学には中哲で日本一の先生がおられると言って、文学部を薦めてくださったのです。運良広島大学文学部哲学科中国哲学専攻に入学できた私は、その先生に巡り会いました。先師池田末利教授がその人。ちなみに推薦者であるご主人は広島文理科大学最後の卒業生で、池田教授の受業生でした。

 数学に躓きと英語に難渋された野間少年は”強いて”言えば好きな漢文と勧めもあり1966年広大中哲に入学される。だが、”強いて”言えば好きな漢文をその深淵に誘ったのはその恩師である池田末利先生(1910-2000)であった。上記の続きにも池田先生との思い出が語られている。

やはり池田教授の授業が強く印象に残ります。現在の日本では絶学の危機に瀕している甲骨学・金文学の手ほどきを受けたのは貴重な経験でした。しかしなんといっても厳しい漢文読みの演習で鍛えられたことは忘れがたい。中でも『左伝注疏』の演習。学生生活修了から15年後、幸いにも母校に就職することができた私は、池田教授の顰みに倣って学部の演習に『左伝注疏』を選び、以来20余年間続けてきました。

 野間先生の『左伝注疏』との出会いは池田先生の演習に始まるようだ。やはり、池田先生が野間先生に与えた印象は非常に大きいものだったのであろう。野間先生は以前台湾で行われたインタビューで池田先生から学んだものについて以下のように述べられている。

質問者:「…池田先生の学問は野間先生の経学研究に対しどのような影響を与えましたか?」

野間先生:「一言で言えば、恐らく学問を行う態度でしょう。…池田先生が非常に強調して言われたことは「他人の研究論文を読まずして、書いたものを研究とは言えない」といったことでした。池田先生が学生に伝えたかったことは、先人の研究には真摯に向き合わなければならない、という態度ではないかと思います。」*1

 先行研究に対し真摯に向き合う。その恩師の態度は今も野間先生の学問へと受け継がれているのである。

 また、当時の広大中哲には池田先生以外にも戸田豊三郎先生、御手洗勝先生、友枝龍太郎先生などが在籍されおり、演習では『周易注疏』『論語集注』『荘子補正』『山海経箋疏』など古代~近世に到るまで幅広く読まれていたようだ。池田先生とは『左伝注疏』以外には清人の胡培翬『儀礼正義』、江聲『尚書集注音疏』など清人の著作を多く読まれていたようである。

 では、その壱の最後に野間先生の修士~助手時代の経歴を追いながらその間の研究について述べておこうと思う。野間先生は広大の修士課程卒業後、同大学院博士課程へと進学されD2のとき(1974)に単位取得退学をされる。同年広大中哲の助手となられ、その2年後の1976年新居浜高専高校の講師となられる。さて、その間の研究は今行われているものとは少しく趣を異にする。恐らく修論が元となった処女作「春秋時代における楚国の世俗と王権」(『哲学』24、広島哲学会、1972)は春秋戦国時代に渡って南の雄であった楚国の安定性を世俗と王権の関係から考察されたものである。また、以降は「説話」に注目され、「新序・説苑攷ー説話による思想表現の形式」(『広島大学文学部紀要』35、1976)、「孫叔敖攷-孫叔敖説話と春秋時代の楚国-」(『新居浜工業専門学校紀要』13、1977)のように古代文献に見られる「説話」に対する評価・語られ方に着目され、そこから思想性・歴史性を見出そうとしたものである。はじめのこれらの研究から如何に現在のご専門である「五経正義」へと転換していったのか。これは次回以降に述べていきたいと思う。

 

*1:「従《五經正義》到《十三經注疏》-訪現代日本經學家野間文史教授」、『中國文哲研究通訊』第十六巻・第二期、2006年(原文中国語)