半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

陰⚋陽⚊の起源

 『易』は陰と陽が根幹となっていることはよく知られている。『易』では、陰陽は⚋・⚊で表される。この記号を三つ重ねたものが八卦であり、六つ重ねたものが六十四卦である。では、なぜ⚋・⚊の記号が陰陽の代表とされるのだろうか。今回は、陰⚋陽⚊の起源についてのお話である。

 

 中国の特徴的な考え方に、陰陽思想というものがある。世界のあらゆる物事を陰と陽で説明しようとする考え方である。こうした説は、『易』にも取り入れられていた。「一陰一陽之れを道と謂う」や「乾は、陽物なり。坤は、陰物なり」とあるように、『易』もまた陰と陽によって説明されるのである。陰とは「ひかげ」のことで、陽とは「ひなた」のことを意味している。しかし、『易』での陰陽はそうした原義よりも、象徴的で相反する意味合いで使われる。陽は天―剛―君―父―男―夫を表すのに対し、陰は地―柔―臣―子―女―妻を表すようにである。主に、陽は男性的側面で、陰は女性的側面で捉えられる。『易』では、陽を一本線の「⚊」で、陰を二本線の「⚋」で表される。

 

 では、陰陽を表す⚊・⚋は何なのか。郭沫若は、⚊は男根、⚋は女陰を象った形だとみた。これが敷衍されて、⚊・⚋が男女・父母・陰陽・剛柔・天地の概念となったのだというのである。武内義雄は、易の筮法は亀卜から変化した占法だとし、亀の甲羅を焼いて占った際のひび割れの形が⚊・⚋のもとになっているのではないかとした。

 

 ただ、いずれも想像に過ぎず、その由来についてこれまで分かっていなかった。しかし、昨今の陸続と発見される文物のおかげで、⚊・⚋の正体が明らかになりつつある。⚊・⚋は、もとは数字だったのである。

 

 一九七八年十二月初め、吉林大学で首届中国古文字研究会学術学討論会が開催された。初日の午後、徐錫台は周原から出土した甲骨文の報告を行った。その中で、ある「奇字」が問題となった。それは、単純な記号が六つ重なったものであった。二日目、張政烺は「古代筮法与王演周易」の臨時の講演を行った。そこで、張政烺は、周原甲骨文に刻まれていたその「奇字」は一・五・六・七・八の数字を表すものであり、『易』で言うところの老陽・少陽、老陰・少陰に相当するものだと発表した。つまり、六つの数字は易卦を表すものであるとしたのである。この張政烺の視方は、その会場で肯定的に受け入れられ、大きな反響を得た。しかし、臨時講演で準備不足ということもあり、解決にまでは至らなかった。ただ、今から見れば、この講演は卦爻画の性質と来源についての大きな転換点となった。

 

 張政烺は、回京後、すぐに甲骨・青銅器上の「奇字」が彫られた材料を収集し、「奇字」と数字そして易卦との関連性を証明しようとした。その成果として結実したのが、「試釈周初青銅器銘文中的易卦」である。その論考では、甲骨・青銅器から「奇字」三十二例を収集し、数字の一(f:id:hirodaichutetu:20191127204413p:plain)・五(f:id:hirodaichutetu:20191127204443p:plain)・六(∧)・七(f:id:hirodaichutetu:20191127204502p:plain)・八(f:id:hirodaichutetu:20191127204517p:plain)で構成されていることを明らかにした。そして、奇数を陽、偶数を陰とみたて、一・五・七を陽爻、六・八を陰爻に変換し、易卦と対応させた。不思議なことに、二・三・四の数字は出てこない。張政烺は、数字は縦に刻まれていくので、二・三・四(f:id:hirodaichutetu:20191127204538p:plain)は混同されやすく区別し難くなるので省かれたのだとする。なおその後、九(f:id:hirodaichutetu:20191127204551p:plain)の用例も見つかっている。つまり、甲骨文字・青銅器に彫られた「奇字」は、数字を表しているのであり、実は易卦の原初形態を示すものだとみたのである。この論考は、以降、多大な影響を与え、甲骨・青銅器上の「奇字」が、易卦の起源とみなされるようになった。「奇字」は、「数字卦」と呼ばれるようになる。さらに数字卦は、戦国時代でもなおみられる現象であった。天星観楚簡、包山楚簡には卦爻を含む卜占が出土した。それも、やはり一・六・八・九の数字で構成されていた。こうしたことも、張政烺の説が広く受け入れられる要因となった。

 

 甲骨文字・青銅器そして戦国楚簡の数字卦に含まれる数字には、出現頻度に偏りがあった。全体を通して、一(f:id:hirodaichutetu:20191127204413p:plain )と六(∧)の出現頻度が最も多かった。張政烺は、そこに着目した。一は奇数で陽を表し、六は偶数で陰を表す、一と六こそ、⚊・⚋の前身であったと主張したのである。確かに楚竹書『周易』、馬王堆帛書『周易』、阜陽漢簡『周易』の陽爻と陰爻は、いずれも一と八のような形態で書かれていた。張政烺は、八は∧(六)が二つに割裂したものだとみた。

 

 しかし、張政烺の説に反対意見がなかったわけではなかった。李学勤は、当初から戦国簡において、卦爻の形は、数字と関係がなく、そのまま爻画なのだと主張していた。張政烺の逝去の翌年、二〇〇六年、李宗焜は「数字卦与陰陽爻」という論考を発表した。それは、易の卦爻は、数字卦が変形したものではなく、抽象的な幾何線がもとであり、陰陽説が盛大に流行した後、ついに陰陽の名称がつけられたのだと結論付けるものであった。また呉勇は、「⚊」「⚋」は陰陽卦画なのであり、「一」「五」「六」「八」は四象(老陽・老陰・少陽・少陰)の符号なのであると主張した。少数派ながら、こうした易の卦爻は、数字卦に由来するものではないとする説も唱えられていた。

 

 また折衷案も提出された。甲骨や竹簡などの数字卦は占筮の記録であり、⚊・⚋の前身となった記号は占筮の結果を表す専用の符号なのであるというものである。つまり、筮竹を数えて出た数字をそのまま書いたのが数字卦、その偶数を⚊、奇数を⚋に変換したのが今の易卦の原型だとする。このように数字卦の数字は、今の『易』が筮竹を数えて爻を導き出すように、筮数に関わるものではないかと議論されている。ただ、筮数だとして、数字の出現率の不均衡は不自然ではないかという疑義も提出されている。数字卦の数字の由来については、いまのところ定説はない。

 

 二〇一三年、清華簡『筮法』が公開された。それは、戦国中期ごろに書写された『易』に非常に近い形態を持つ占書であった。その『筮法』に描かれている卦爻は、まさしく数字の一・四・五・六・八・九で表されるものであった。それを受けて、李学勤は、戦国簡にみえる卦爻は数字卦であると考えを改めるに至った。なお『筮法』の「一」は、数字の「七」を表すという説もある。また『筮法』では、四の爻はf:id:hirodaichutetu:20191127204728p:plainのように表されており、他と混同しない形となっていた。

 

 張政烺は⚊は一、⚋は六に由来するとしたが、それに対し、李零は⚊は一に由来するが、⚋は八が起源であると正した。韓仲民は、七は古くは「一」に近い形で書かれていたことから、⚊は七から、⚋は八から来たとする見解を示した。その後、丁四新は、清華簡『筮法』を論拠に、⚊は七を表しているのだと主張している。

 

 ⚊・⚋の前身が何であるかは、今なお議論が交わされている。ただ⚊・⚋が数字に由来するということは、大方の見方である。しかし、数字爻がいつ今の⚊・⚋の形に統一されたのかはわかっていない。楚竹書『周易』ではf:id:hirodaichutetu:20191127204759p:plainf:id:hirodaichutetu:20191127204816p:plain、帛書『周易』ではf:id:hirodaichutetu:20191127204836p:plainf:id:hirodaichutetu:20191127204852p:plain、阜陽漢簡『周易』でもf:id:hirodaichutetu:20191127204908p:plainf:id:hirodaichutetu:20191127204925p:plainと描かれていた。一方、後漢熹平四年(一七五年)に彫られた熹平石経『易経』ではf:id:hirodaichutetu:20191127204942p:plainf:id:hirodaichutetu:20191127204959p:plainに作っている。前漢では依然として『易』の陽爻・陰爻は一と八のような形で書かれていた。それが後漢末までに今の⚊・⚋の形で定着したことが窺える。

 

 さて、⚊・⚋が数字に由来するとすれば、その数字爻がいつ陰と陽とに結びつけられたのかという問題が残されている。陰と陽という字は、卦辞・爻辞ではほとんど出てこない。そのことから、爻には、当初は陰と陽の意義が含まれていなかったとされる。文言伝や繋辞伝といった易伝において、初めて陰と陽の概念をもって説明されるようになる。ただ、彖伝や象伝では、陰陽よりも、剛柔で言い表されることがはるかに多い。これは、易伝の重層性に起因しているのだとみなされ、剛柔二元論は陰陽二元論に先んずるとされる。『易』に陰陽思想が取り入れられたのは、陰陽思想が流行した戦国中末期だとする説も立てられた。⚊・⚋が陽と陰の代表とみなされるのは、『易』の成立当初からの考えではなく、後付けの解釈だとみられている。しかし、⚊・⚋が陽・陰の代表とされるようになったのがいつなのかという問題は、研究途上にある。

 

 今回はここまで。次回は、八卦と六十四卦について話そうと思う。