半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

野間文史先生の学問とその人ーその壱

 野間文史(1948ー)、言わずと知れた中国哲学の大家である。「五経正義」及び「春秋学」を専門とされ『五経正義の研究』(研文出版、1998)はその代表作の一つである。また、一般向けに「経学」を解説した『五経入門』(研文出版、2014)は一般向けとは言いながらも、非常に骨のある本であり、中哲をかじったことがある人であれば一度は手に取ったことがあるのではないだろうか。現在は教員を退職されたものの、まだ記憶に新しい『春秋左伝正義』の全訳や広島大学機関誌『東洋古典学研究』への寄稿など今もなお活躍を続けられている。本ブログの初投稿として何が良いかとあれこれ悩んだ結果、近くにいるようで遥かに遠い存在である野間先生の経歴とその学問形成を追いながら野間先生の学問を今一度見つめ直してみようと思う。

 ①出生~大学院修了まで

  1948年、愛媛県今治市に生まれる(四国本島ではないといううわさ話を聞いたが定かではない)。高校時代は蒲鉾屋さんの二階に下宿をされていたようだ。蒲鉾屋の職人は朝が早く、当時の野間少年も同じように起床し受験勉強をしていたために、爾来今に到るまで朝型の人間になったそうだ。では、野間少年が広島大学中国哲学研究室(広大中哲)を志したきっかけは何だったのであろうか。野間先生が広大を退官される際、広大文学部のメールマガジンに寄稿された挨拶の中でそのゆかりについて以下のように述べられている。

さてその蒲鉾屋さんの長女のご主人が兵庫県で高校教師をしておられ、今治市への里帰りの折りに進路相談に乗ってくださいました。2年生で数学に躓き、3年生で英語に難渋し、強いて言えば漢文が好きだと申したところ、中国哲学という学問分野があり、広島大学には中哲で日本一の先生がおられると言って、文学部を薦めてくださったのです。運良広島大学文学部哲学科中国哲学専攻に入学できた私は、その先生に巡り会いました。先師池田末利教授がその人。ちなみに推薦者であるご主人は広島文理科大学最後の卒業生で、池田教授の受業生でした。

 数学に躓きと英語に難渋された野間少年は”強いて”言えば好きな漢文と勧めもあり1966年広大中哲に入学される。だが、”強いて”言えば好きな漢文をその深淵に誘ったのはその恩師である池田末利先生(1910-2000)であった。上記の続きにも池田先生との思い出が語られている。

やはり池田教授の授業が強く印象に残ります。現在の日本では絶学の危機に瀕している甲骨学・金文学の手ほどきを受けたのは貴重な経験でした。しかしなんといっても厳しい漢文読みの演習で鍛えられたことは忘れがたい。中でも『左伝注疏』の演習。学生生活修了から15年後、幸いにも母校に就職することができた私は、池田教授の顰みに倣って学部の演習に『左伝注疏』を選び、以来20余年間続けてきました。

 野間先生の『左伝注疏』との出会いは池田先生の演習に始まるようだ。やはり、池田先生が野間先生に与えた印象は非常に大きいものだったのであろう。野間先生は以前台湾で行われたインタビューで池田先生から学んだものについて以下のように述べられている。

質問者:「…池田先生の学問は野間先生の経学研究に対しどのような影響を与えましたか?」

野間先生:「一言で言えば、恐らく学問を行う態度でしょう。…池田先生が非常に強調して言われたことは「他人の研究論文を読まずして、書いたものを研究とは言えない」といったことでした。池田先生が学生に伝えたかったことは、先人の研究には真摯に向き合わなければならない、という態度ではないかと思います。」*1

 先行研究に対し真摯に向き合う。その恩師の態度は今も野間先生の学問へと受け継がれているのである。

 また、当時の広大中哲には池田先生以外にも戸田豊三郎先生、御手洗勝先生、友枝龍太郎先生などが在籍されおり、演習では『周易注疏』『論語集注』『荘子補正』『山海経箋疏』など古代~近世に到るまで幅広く読まれていたようだ。池田先生とは『左伝注疏』以外には清人の胡培翬『儀礼正義』、江聲『尚書集注音疏』など清人の著作を多く読まれていたようである。

 では、その壱の最後に野間先生の修士~助手時代の経歴を追いながらその間の研究について述べておこうと思う。野間先生は広大の修士課程卒業後、同大学院博士課程へと進学されD2のとき(1974)に単位取得退学をされる。同年広大中哲の助手となられ、その2年後の1976年新居浜高専高校の講師となられる。さて、その間の研究は今行われているものとは少しく趣を異にする。恐らく修論が元となった処女作「春秋時代における楚国の世俗と王権」(『哲学』24、広島哲学会、1972)は春秋戦国時代に渡って南の雄であった楚国の安定性を世俗と王権の関係から考察されたものである。また、以降は「説話」に注目され、「新序・説苑攷ー説話による思想表現の形式」(『広島大学文学部紀要』35、1976)、「孫叔敖攷-孫叔敖説話と春秋時代の楚国-」(『新居浜工業専門学校紀要』13、1977)のように古代文献に見られる「説話」に対する評価・語られ方に着目され、そこから思想性・歴史性を見出そうとしたものである。はじめのこれらの研究から如何に現在のご専門である「五経正義」へと転換していったのか。これは次回以降に述べていきたいと思う。

 

*1:「従《五經正義》到《十三經注疏》-訪現代日本經學家野間文史教授」、『中國文哲研究通訊』第十六巻・第二期、2006年(原文中国語)