半知録

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野間文史先生の学問とその人ーその四(完)

 

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これまで三回に渡って微力ながらも「野間文史先生の学問とその人」を追ってきた。出生から、高校時代の蒲鉾屋さんへの下宿、下宿先のお兄さんのすすめで広大中哲を志され、師である池田末利先生をはじめとし、名だたる先師から業を受け、それらの学問方法を自家薬籠中の物とされつつ、野間先生の学問は形成されていった。もちろん、ただすべてを継承しただけではない。野間先生の現在に至る業績は先生の地道で堅実な学問なしに語ることはできない。

 

それに代表されるのが、新居浜高専時代に作成にあたられた『五経正義』の「引書索引」である。インターネットによる文献検索が発達した現在、「引書索引」は無用の産物かと言うとそうではない。引書の範囲、出典、その表記など『五経正義』の引書については今もなお未解決の問題が散見される。野間先生は「引書索引」を作る過程で発見された『五経正義』の「引書」の特徴・傾向、および表記について精覈な研究を続けられた。また、「引書索引」と同時に作成にあたる各「経書」の読書を進められ『五経正義』、また『爾雅注疏』『論語正義』等の成書過程・修辞・表現に関しても卓越した研究成果を挙げられてる。また、『五経入門』を代表とする「経学」「春秋学」を平易ながらも周密に解説された概説書も多くの読者から一定の評価を得るところとなっている。さらに直近では『春秋左伝正義』の全訳を完遂され今もなお活躍を続けられている*1

 

上述の如く、野間先生の学問といえば、やはり「経学」「春秋学」乃至『五経正義』である。では、野間先生にとっての「経学」とは如何なるものなのであろうか。また、先生が「経学」の中でもとりわけ『左伝』に関心をもたれる理由は何故なのであろうか。本連載の最後にこれらをまとめておきたい。以下に、「その壱」「その弐」において引用した、インタビュー記事を今一度引用しながらその答えを探りたいと思う。

 

 まずはその端緒を見てみたいと思う(「その壱」と被る部分もあるがご了承願いたい。)

 

…学生の頃、教えを受けた先生方の「演習」の内容は、ほとんどすべて「経書」でありました。また、学生時代より私の認識の中では所謂「中哲の学問は即ち〈経学〉である」との烙印を押されていたとも言えるでしょう。*2

 

池田末利先生の『左伝』演習を始めとし、御手洗勝先生の『周礼注疏』『周易注疏』、戸田豊三郎先生の『学庸章句』『周易本義』等「経書」を読む演習が豊富であったようだ。現在であっても「経書」を読む演習のない中哲はないとは思われるが、当時は今にもまして「経書」への関心・重視があったとも言えるだろうか。

 

 では、続いてその「経学観」に関わる部分を少々長文となるが見てゆきたいと思う。

 

 

質問者:野間先生にとって、「経学」を研究する意義とは何でしょうか?

 

野間先生:要点をかいつまんで言えば、「経学」はまさに「中国学」の根底であると思うのです。私は所謂「経書概説」の授業*3の初回においては、まず「四部分類法」についてお話をします。…「四部分類法」の特徴は経部を最高位に置き、その他の三つをその下に置くことにあります。私の授業においてはほぼこういった話から、「経書」の中国学における位置について解説をしています。当然、現代の日本の中国学者の中には「道教を理解しなければ、中国思想を理解できない」と仰る方もいらっしゃいます。しかし私個人としては、「経学」は中国古典中の古典であり、中国トップクラスの学者たちが、二千年に渡って、精魂を傾けて作り出した結晶であると思うのです。ですので、もし「経学」に接しなければ、我々はおそらく中国人の思想を理解することができないでしょう。それゆえ私は中国思想の根本は「経学」にあると思うのです。

 

質問者:野間先生が経学研究を志してから、既に三十年近くが経過しましたが、今これまでの研究を回顧されるとき、「経学」を研究対象に選ばれたことに対して、どのような感想をお持ちですか?

 

野間先生:私は経学研究を選んだことに対して全く後悔しておりません。…私個人がどれだけ懸命に研究を行っても、「経学」は奥深く、どれだけ時間を要そうとも、その終着点にたどり着くことはできない、つまり経学研究に終わりはないといつも痛感させられます。私個人としては、「経学」の世界は、奥義深蘊たる学問であると考えていますので、「経学」以外の学問領域を研究してみようという思いはありませんでした。また、他の領域の学問研究に従事した方が良いのではないかとも考えませんでした。…それに比べれば、私は比較的にこれまでの研究基礎・成果を基に、一歩ずつ研究を深めていきたいと考えています。ただ私のこれまでの研究がどの程度の深度かといえば、私個人が思いますに、私の経学研究は、非常に浅狭なもので、ただ「経学」世界の堂奥を簡単に窺ったに過ぎません。

 

野間先生をして「堂奥を簡単に窺ったに過ぎない」と言わしめる「経学」の世界に底は無いのであろうか。これは「経学」を学べば学ぶほどに痛感させられるものではあるが、今改めてその言葉がずっしりと心に響いたような感がある。一歩の大きさは違えども一歩一歩前に進むしかないのである。経学世界の「堂奥」を窺えるその日まで。

 

野間先生にとって「経学」とは中国学の根底であり、その世界は飽くなき探究心をもってしてもその終着点には辿り着くことのできない世界であると言える。だが、そんな世界の中であっても一歩一歩見えないゴールに向かって積重ねていくことが却って野間先生の性に合うのであろう。

 

さて、続いて野間先生の『左伝』についての「想い」について見てゆきたいと思う。

 

質問者:…野間先生が「経学」研究を決心されたとき、初めに『十三経注疏』を読むことから初められたそうですが、中でもとりわけ『五経正義』を選ばれて、主な研究対象とされたのは何故でしょうか?

 

野間先生:私が経学研究の道を歩む上で、私が初めに触れた注疏が『左伝注疏』(池田先生の演習)でした。大学の卒業論文は『左伝』方面の研究でしたし、その後も『左伝』の研究を続けてきました。…今日に至っても、私は『左伝』に対して非常に研究意欲を持っています、私の経学研究は『左伝』から始まりましたからね。けれどもよく考えてみると、私の『左伝』に対する研究は事もあろうにスタート地点に留まっていて、却って注疏の学である『五経正義』を研究して今に至ります。

 

これは以前の繰り返しとなるが、野間先生の『左伝』に対する思い入れは、やはり池田先生の演習での出会に起因する。もし、池田先生が『左伝』の演習を開いていなければ、野間先生の『左伝』研究、ひいては「春秋学」研究は存在し得なかったかもしれない。

 

また、このインタビューが行われたのが2002年9月のことである。インタビューの中で「スタート地点に留まっている」と仰られた野間先生の『左伝』研究は2020年の今に至っては1つの到達点に達せられた感がある。『春秋三伝』の概説書、『左伝正義』の全訳など、『左伝』研究に裨益するところは非常に大きい。

 

それでは最後となるが、野間先生の考える「仮説の意義」について紹介して本連載を締めくくりたいと思う。

 

質問者:研究を行う過程において、もし何かを証明したいけれど、証明するに足る材料が乏しい場合は、推論によって仮説を立てるしかありませんが、「仮説」について野間先生はどうお考えですか?

 

野間先生:…「胡適記念館」の中に掛けられていた胡適先生の言葉に「大膽的假説、小心的求證」と有りましたが、私も昨日の講演では、邢昺『論語正義』について、大胆に私が立てた所の「仮説」を述べました。…ただ私がここで立てた仮説はとんだ見当違いであるかもしれませんので、或いはそれによって議論が活発になりましょう。それは少なくともこの方面に関する研究においてまた一歩前進するところがあると言えます。この意義において言えば、果敢に論を立てることも厭いません。研究過程においては、うまく整理できず、結論を見出せなければ直ちに歩みを止めるのではなく、絶えず違った見方ができないかを模索し、進んで何か仮説を立てるのです。当然、私の言った意味は決して己の意見を絶対的なものとして執着するということではありません。

 

「仮説」(論)を立てる上で、そこにしっかりとした根拠がなければ荒唐無稽になりかねい。やはり、読者を説得しうる「根拠」(基礎)が重要となる、つまり「大膽的假説、小心的求證」ということに他ならない。これは、研究論文というものを書く上では、もはや当然のことなのかもしれない。ただ、それをうまく実際に描けるかどうかは別の問題である。筆者が思うに、野間先生の学問は丹念な基礎研究を基にそれを丁寧に描きだせるところにその要があるのではないだろうか。 「根拠」と「仮説」このバランスが絶妙なのである。

 

最後に、野間先生の学問とその人を通して感じたことは、やはり基礎研究の大切さ、日々の積重ね、そして、それを基に、絶え間なく思索を重ね、自論を立てる大切さである。基本的なことではあるかもしれないが、常に戒めておかなければ知らぬ間にどちらかに傾いてしまうものである。今改めて肝に銘じておきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:達而録さんが「野間文史『春秋左傳正義譯注』第五冊について」と題し4回に渡り非常に参考となる読書箚記を書かれています。ぜひ合わせて御覧ください。

*2:「従《五經正義》到《十三經注疏》-訪現代日本經學家野間文史教授」(『中國文哲研究通訊』第十六巻・第二期、2006年)(原文中国語)以下の引用すべてこれに同じ。

*3:広大での講義。受講した先輩によれば著書『五経入門』の内容がそのまま授業になったような感じとのこと。