半知録

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『日知録』易篇訳「三易」

 

凡例

一、底本は黄汝成『日知録集釈』(同治八年広州述古堂重刊本)とし、『集釈』は省いた。

二、本文は『原抄本日知録』(文史哲出版社、一九七〇年再販本)や原拠によって校訂する場合がある。諱字は原字に戻した。

三、原注は【 】によって区別した。

 

三易

【要旨】

「易」という名称は、文王が初めて名づけたものである。『周礼』に「三易の法」として『連山』『帰蔵』『周易』を挙げている。しかし、『連山』『帰蔵』は『易』はなく、後人が『周易』に因んで「三易」と名づけた。

 

【原文】

夫子言「包羲氏始畫八卦」、不言作『易』、而曰「『易』之興也、其於中古乎」、又曰、「『易』之興也、其當殷之末世、周之盛德邪。當文王與紂之事邪」、是文王所作之辭、始名爲『易』。而『周官』大卜「掌三易之法、一曰連山、二曰歸臧、三曰周易。連山・歸臧、非『易』也、而云「三易」者、後人因『易』之名以名之也。猶之『墨子』書言「周之春秋」、「燕之春秋」、「宋之春秋」、「齊之春秋」。周・燕・齊・宋之史、非必皆『春秋』也、而云「春秋」者、因魯史之名以名之也。

『左伝』僖十五年、戰於韓。卜徒父筮之曰、「吉、其卦遇蠱曰、『千乘三去、三去之餘、獲其雄狐』」。成十六年、戰於鄢陵。公筮之、史曰、「吉、其卦遇復曰、『南國䠞、射其元王、中厥目』」。此皆不用『周易』、而別有引據之辭、卽所謂「三易之法」也、【卜徒父以卜人而掌、此猶『周官』之大卜。】而傳不言『易』。

 

 

【日本語訳】 

 夫子(孔子)は、「伏羲がはじめて八卦を画いた」とは言うが、『易』を作ったとまでは言っておらず、〔繋辞伝に〕「『易』が盛んになったのは、中古のことであろうか」と言い、また「『易』が盛んになったのは、殷の末世、周の盛徳のときに当たるであろうか。文王と紂王の時代に当たるであろうか」と言っているのは、文王が作った卦辞のことで、そこではじめて『易』と名づけられたのである。しかし『周官』に「大卜は三易の法を掌るものである。一に『連山』と言い、二に『帰蔵』と言い、三に『周易』と言う」と、『連山』『帰蔵』は『易』ではないのにも関わらず、「三易」と言っているのは、後人が『易』の名に因んで名づけたからである。それは、『墨子』の書で「周の春秋」「燕の春秋」「宋の春秋」「斉の春秋」と呼んでいるようなものである。周・燕・宋・斉の歴史書は、必ずしもみな『春秋』ではないのに、「春秋」と言われるのは、魯の歴史書の〔『春秋』の〕名に因んで呼んだからである。

 『春秋左氏伝』には以下のようにある。僖公十五年、韓で戦った。卜徒父は筮を立てて、こう答えた。「これぞ大吉。その卦は蠱と出ました。『千輌の兵車、三度駆られ、三度駆られた末に、雄の狐を捕獲せん』とあります」と。成公十六年、鄢陵で戦った。公が筮を立てさせたところ、史官はこう奏した。「吉でございます。復の卦が出ました。『南の国が䠞まりて、其の元王を射、厥の目に中たる』とあります」と。これらは『周易』を用いておらず、他に典拠がある占辞を引いてある。これが、いわゆる「三易の法」であるが、【卜徒父は卜人であることをもって占事を掌り、『周官』で言う大卜のような役割に相当する。】『左氏伝』は『易』とは言っていない。

   ※『春秋左氏伝』の翻訳は、岩波文庫小倉芳彦訳を参照。

 

【解説】

周易』の経文は、卦辞と爻辞の占辞で構成される。顧炎武は、卦辞は文王が、爻辞は周公旦が書いたとする。『易』という名称は、文王が卦辞を書いたときにそう名づけたのであり、それ以前にはなかったとすることに、顧炎武の独自性がある。