半知録

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『日知録』易篇訳「朱子周易本義」①

朱子周易本義

【要旨】

周易』は、伏羲が八卦を画き、文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作ることにより、上下経二篇となった。孔子は十翼を作った。前漢では、経と伝は別に行われていたが、後漢に至って、合せられて一書となった。

 

【原文】

周易』自伏羲畫卦、文王作彖辭、周公作爻辭、謂之經。經分上下二篇。孔子作十翼、謂之傳。傳分十篇、彖傳上下二篇、象傳上下二篇、繫辭傳上下二篇、文言・説卦傳・序卦傳・雜卦傳各一篇。【『漢書』藝文志、「『易經』十二篇」、師古曰、「上下經及十翼、故十二篇」。孔氏『正義』曰、「十翼者、上彖一下、彖二上、象三下、象四上、繫五下、繫六、文言七、説卦八、序卦九、雜卦十」。 陸德明『釋文』曰、「太史公論六家要旨引『天下同歸而殊途、一致而百慮』、謂之『易大傳』。班固謂孔子晩而好易、讀之韋編三絶、而爲之傳。傳即十翼也」。前漢六經与傳皆別行、至後漢、諸儒始合、經傳為一。】

 

【日本語訳】

周易』は、伏羲が八卦を画き、文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作ってから、「経」と呼ばれるようになった。「経」は、上下二篇に分けられている。孔子は十翼を作り、これを「伝」と呼ぶ。「伝」は、十篇に分けられ、彖伝は上下二篇、象伝は上下二篇、繋辞伝は上下二篇、文言伝・説卦伝・序卦伝・雑卦伝はそれぞれ一篇である。【『漢書』芸文志には「『易経』十二篇」とある、その顔師古の注には「上下経および十翼なので、十二篇とされる」とある。孔穎達の『周易正義』では、「十翼は、上彖一下、彖二上、象三下、象四上、繋五下、繋六、文言七、説卦八、序卦九、雑卦十」とある。陸徳明の『経典釈文』に、「太史公が六家の要旨について論じて、『天下の帰すところは同じであるもそれに至る道は異なり、到達地点は一つでも思慮は百通りある』を引き、これを『易大伝』の文とする。班固は、『孔子は晩年になって『易』を好むようになり、何度も繰り返して熟読し、これに伝を作った』と言う。その伝が十翼である」と言う。前漢においては、六経とその伝は別に行われていたが、後漢に至って、諸儒がはじめて経と伝とを合して一つとなしたのである。】

〔続く〕

 

【解説】

  伏羲が八卦を画き、文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作ったとする説は、『周易正義』序「第四論卦辞爻辞誰作」に記載され、とりたてて珍奇な説ではない。現在の『易』は卦辞・爻辞の経文と十翼とが渾然一体となっているが、前漢においては経と伝とは別々に通行していたとする。戦国時代や前漢の墓から出土した『易』では、経と伝とが合せられたものはなく、卦辞・爻辞が独立して一書となしていた。確かに、顧炎武が言うように、前漢まではいまだ経と伝とが雑えられていなかった可能性が高い。

 なお、原文では陸徳明『経典釈文』の中に「太史公論六家要旨引天下同帰而殊途、一致而百慮、謂之易大伝」の文が引かれているが、原典に当たると該当する文はない。『経典釈文』注解伝述人には、「班固曰、孔子晚而好易、読之韋編三絶、而為之伝。伝即十翼也」とある。すると、「陸德明釋文曰」は、正しくは下文の「班固謂」の上に置かれるべきであろう。ただ、顧炎武が間違えたのか、刊刻する際に誤ったのかは分からない。「太史公論六家要㫖」云々は、『史記』太史公自序の文である。