半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

『講周易疏論家義疏』釋讀(一)

【前言】

『講周易疏論家義疏』を読んだ際に、調べたこと、思ったことを記した一種の備忘録である。一応、日本語訳を試みているが、うまく意味が取れないところ、苦し紛れに解釈したところもある。誤りも多々あると思うが、何かの役に立てれば幸いである。なお原文は、谷継明『講周易疏論家義記》校箋翻刻に拠った。

 

【原文】

第一釋卦

論曰、无體也、无體之謂也[1]。繫詞云「易无體、神无方」[2]、故能使无象。象而无象、周流六虛[3]、終而復興、終日變化、亦无變化之相。故論曰、易盡爲道變、以極是理也。而有爲因於无爲、變化因於虛冲。故莊生云「天地与我並生、万物与我同根」[4]。(孝)[老子]云「同出而異名」、又云「衆妙之門」[5]也。故若以(事易)[體][6]爲言、欲見太易[7](言)[之]理。或以化爲象、將顯无象之象。但此體用表裏、事理[8]格量、議理設詞、太易之理始乃見矣[9]。上繫云「聖人之意、其不可見乎。聖人立象以盡意[10]」。然則聖[人]設象、假號乾坤者、將使捨別万象、披釋玄理、弱喪之徒[11]、知歸本理者也。

 

【日本語訳】

論に言う、「无体」というのは、決まった形体がないことを言ったものである。繋辞伝に「易に体无く、神に方无し」と言う。それゆえ象ることがないようにさせることができるのである。象るが(決まった形に)象ることはなく、六爻の位を周遊し、終ればまた興り、終日変化するも、また変化の相無し。それゆえ論に「易がことごとく道の変化であるのは、この上なく(太易の)理であるからである」と言うのである。そして有為は無為に因り、変化は虚冲に因る。それゆえ荘生は「天地と我とは並びに生まれ、万物と我とは同根である」と言い、老子は「出づるところを同じくして名を異にする」と言い、またそれを「衆妙の門」と言う。それゆえもし体の観点から言えば、太易の理を示そうとしたのである。あるいは変化を象としたのは、無象の象を明らかにしようとしたからである。ただ体用は表裏であるので、物事と道理ははかり知れ、理を議論するときは詞を設ければ、太易の理はそうしてはじめて現れるのである。繋辞伝上に「聖人の意は、見ることはできないのであろうか。聖人は象を立てて意を尽くした」と言う。そうであるならば聖人は象を設け、かりそめに乾坤と命名したのは、万象を選別し、(乾坤を選んで乾坤で)玄理を解き明かさせ、若くして拠り所を失ってしまった徒に本理に帰ることを知らしめようとしたからである。

 

【注釈】

[1] 全体的に「論曰」「論家曰」等の引用が、どこまでかかっているのか分からない部分が多い。

[2] 繋辞伝上「故神无方而易无體」

[3] 繋辞伝下「易之為書也不可遠、為道也屢遷、變動不居、周流六虛、上下无常、剛柔相易、不可為典要」。

[4]荘子』斉物篇「天地與我並生、而萬物與我爲一」。

[5]老子』第一章「此兩者、同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門」。

[6] 谷継明は「事易」を「體」の訛誤だとみるが、果たしてそうであるのか議論の余地はある。ここでは、ひとまず谷継明の説に従っておく。

[7] 「太易」は、『易緯乾鑿度』に「故曰、有太易、有太初、有太始、有太素。太易者、未見氣。太初者、氣之始。太始者、形之始。太素者、質之始」とあり、気さえ現れていない原初に位置づけられている。『講周易論家義疏』の「太易」も、万物の本源という意味だと思われる。「太易」という言葉は、『易』自体には見えないが、それに類する語として「太極」がある。しかし、ここにおいて「太易」と「太極」が一対一の関係であるのかは判然としない。先に挙げた『易緯乾鑿度』とほぼ同文が『列子』天瑞篇に見える。これは、『列子』側が『易緯乾鑿度』の文を剽窃したのだと言われている。『講周易論家義疏』の「太易」は、『易緯乾鑿度』に依拠したのか、それとも『列子』か、はたまた別の書物か、という問題が残っている。

[8] 乾・文言「知終終之、可以存義也」章の『義記』に「夫物有其宗、事有其體、故言理則有應理則有應之事、言事即有造事之理。事理融通无㝵」とあることからここの「事理」も現象としての事物とその本体としての理を指すものと考えられる。「格量」は推し量る意であり、仏典疏でよく用いられる。

[9] この一文の言いたいことは、体と用は表裏一体であるので、その体(本体)を知れば、その用(はたらき)も知ることができ、その逆もまた然りということであろう。「太易の理」は、視れども見えず、聴けども聞けず、循えども従えず、直接窺い知ることはできないが、その用(はたらき)を説明すれば、その体(本体)である「太易の理」も現われてくるということを言っているのだと思われる。

[10] 繋辞伝上「子曰、書不盡言、言不盡意。然則聖人之意、其不可見乎。子曰、聖人立象以盡意、設卦以盡情偽、繫辭以盡其言、變而通之以盡利、鼓之舞之以盡神」。

[11]荘子』斉物篇「予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪」。「弱喪」とは、郭注によれば、若くして住処を失ったものを言う。

 

2021/11/06:改訂