半知録

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劉邦の父母の名は

宋書』符瑞志上

漢高帝父曰劉執嘉。執嘉之母、夢赤鳥若龍戱己、而生執嘉、是為太上皇帝。母名含始、是為昭霊后。昭霊后游於洛池、有玉鷄銜赤珠、刻曰玉英、吞此者王。昭霊后取而吞之、又寝於大沢、夢与神遇。是時靁電晦冥、太上皇視之、見蛟龍在其上、遂有身而生季、是為高帝。

漢の高帝(高祖)の父は劉執嘉と言う。執嘉の母が、龍のような赤鳥が己に戯れるのを夢を見、執嘉を生んだ。これが太上皇帝である。母の名は含始、これが昭霊后である。昭霊后は洛池に遊んだとき、赤珠を銜えた玉雞を見つけ、そこには「玉英を呑む者は王となる」と刻まれていた。昭霊后はこれを取り呑み込んだ。そうして大沢で眠ると、神と遇う夢を見た。そのとき稲妻が走り暗闇となった。太上皇は見上げると、蛟龍がその上に在るのを目撃した。遂に身ごもり季を生んだ。これが高帝(高祖)である。

 以上は、漢の高祖の出生譚である。奇怪な出生ではあるが、中国の帝王にはこうした権威づけのための異常出生譚はよく見られることである。上海博物館蔵戦国楚竹書の『子羔』に契は燕の卵を飲んで生まれたことが書かれており、戦国時代には異常出生譚は存在していた。この説話で気になったのが、そうした異常出生ではなく、劉邦の父母の名である。ここでは、父の名は「執嘉」、母は「含始」とされる。

 最も古い劉邦の伝記は、『史記』高祖本紀である。そこでは劉邦の出生について以下のように記されている。

高祖、沛豊邑中陽里人、姓劉氏、字季。父曰太公、母曰劉媼。其先劉媼嘗息大澤之陂、夢与神遇。是時雷電晦冥、太公往視、則見蛟龍於其上。已而有身、遂産高祖。

高祖は、沛県豊邑中陽里の人、姓は劉氏、字は季。父は太公と言い、母は劉媼と言う。その先、劉媼はかつて大沢の岸辺に憩い、神と遇う夢を見た。そのとき稲妻が走り暗闇となり、太公は行きて見上げると、蛟龍がその上にいることを目撃した。それが止むと身ごもり、遂に高祖を生んだ。

 『史記』では、劉邦の父は「太公」、母は「劉媼」としている。しかし、「太公」と「媼」は本名ではない。「太公」は男性高年者に対する敬称、「媼」は女性高年者に対する呼び名(『索隠』引く韋昭の説)とされる。であるから、「劉太公」は「劉のおじさま」、「劉媼」は「劉のおばさま」のような意味となる。『史記』には「執嘉」「含始」の名は全く出てこない。『漢書』でも同様である。それでは、『宋書』の言う劉邦の父母の名「執嘉」「含始」はどこから来たのか。

 その手掛かりが、『史記』高祖本紀の注釈にある。その『正義』に「『春秋握成図』に「劉媼夢赤鳥如龍、戲己、生執嘉」と引かれ、また『索隠』には「又拠『春秋握成図』以為執嘉妻含始、遊洛池、生劉季。『詩含神霧』亦云」とある。『詩含神霧』『春秋握成図』はともに緯書の一篇である。緯書とは、孔子経書の不足を補うために作ったとされる書物のことである。緯書と呼ばれるのも、経書と対をなすためである。しかし緯書は、孔子の手になるものではなく、前漢末ごろに編纂されたとされる、いわば偽典である。そこに初めて「執嘉」「含始」の名が現れる。『詩含神霧』『春秋握成図』よれば、劉媼が執嘉を産み、執嘉の妻、含始が劉季を産んだいうことになる。

 また『正義』において、西晋の皇甫謐が編纂した歴史書『帝王世紀』に「漢昭霊后含始、游洛池、有宝雞銜赤珠出炫日后吞之、生高祖」を引き、「『詩含神霧』も亦た云う」と言う。顔師古は「皇甫謐らはみだりに讖記を引き、好奇が先走り、強いて高祖の父母の名字を付けたが、みな正史の説くところではなく、思うに取るところではない」と指弾する。『帝王世紀』が緯書の説を多く採用していることは周知の事実である。劉邦の父母の名「執嘉」「含始」も、皇甫謐は緯書に依拠して記したと考えられる。

 「執嘉(嘉を執る)」「含始(始めを含む)」という名は、極めて作為性を感じさせる。また劉邦の父の名は、「煓」であったという説がある。これも漢王朝の開祖を生んだ者として都合のよい名前となっている。「煓」の偏は「火」で、その旁は「はじまり」という意味である。漢王朝は、前漢末以降、火徳とされる。であるから、「煓」は、火徳である漢王朝の開祖、劉邦の父にふさわしい名と言える。これも緯書説かどうかは不明だが、前漢末以降に創作された名に違いない。

 劉邦の父母の名「執嘉」「含始」は、緯書に由来すると考えられる。そして先に挙げた『宋書』符瑞志の記載は、緯書に依拠したに相違ない。『宋書』符瑞志上でのその他の古帝王の事績が、緯書に同一の記載がみられることもそれを裏付ける。つまり、劉邦の父母の名「執嘉」「含始」は、前漢末ごろに創作された名で、後漢で緯書が経書につぐ権威を持つことによって広まったと考えられる。そして、『帝王世紀』や『宋書』符瑞志に取り入れることによって、あたかも史実かのように認識され、『新唐書』宰相世系で劉氏の出自について「生煓、字執嘉。生四子、伯・仲・邦・交。邦、漢高祖也」と記されるに至ったのである。結局、劉邦の父母の名は、司馬遷の時点でよく分からなかったのだから、今となっては知りようがない。

 以上のような緯書によって捏造され、あたかも史実であるかのように伝えられている歴史的事象は他にもあるであろう。『宋書』符瑞志上の劉邦より前の古帝王の記録は、おおかた緯書の歴史観が反映されている。もしその記載と一致するものがあれば、緯書の捏造された説ではないかと疑ったほうがよいであろう。