半知録

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『日知録』易篇訳「妣」

 【原文】

『爾雅』「父曰考、母曰妣」。愚考古人自祖母以上通謂之妣、經文多以妣對祖、而竝言之。若『詩』之云「似續妣祖」、「烝畀祖妣」、『易』之云「過其祖、遇其妣」、是也。『左傳』昭十年、「邑姜、晉之妣也」。平公之去邑姜蓋二十世矣。【『儀禮』士昏禮「勗帥以敬先妣之嗣」、蓋繼世主祭之通辭。】「過其祖、遇其妣」、據文義、妣當在祖之上。「不及其君、遇其臣」、臣則在君之下也。昔人未論此義。周人以姜嫄爲妣、【『周禮』大司樂注「周人以后稷爲始祖、而姜嫄無所配。是以特立廟祭之、謂之閟宮」。】『周語』謂之「皇妣太姜」、是以妣先乎祖。『周禮』大司樂「享先妣」在「享先祖」之前。而斯干之詩曰「似續妣祖」、箋曰「妣、先妣姜嫄也。祖、先祖也」。或乃謂變文以協韻、是不然矣。【朱子『本義』以晋六二爲「享先妣之吉占」。】或曰「易爻何得及此」。夫「帝乙歸妹」、「箕子之明夷」、「王用享于岐山」、爻辭屢言之矣。『易』本『周易』、故多以周之事言之。小畜卦辭「密雲不雨、自我西郊」。『本義』「我者、文王自我也」。

 

 

【日本語訳】

『爾雅』に「父は考と言い、母は妣と言う」とある。愚考するに、古人は祖母より上を総じて妣と言ったのであり、経文の多くは妣をもって祖と対をなし、並びに言及している。『詩』の「妣祖に似(つ)ぎ続く」、「祖妣に烝め畀え」、『易』の「其の祖を過ぎ、其の妣に遇う」とあるのが、それである。『左伝』昭公十年に、「邑姜は、晋の妣である」とある。平公から邑姜までは思うに二十世である【『儀礼』士昏礼に「〔宗廟の事を〕敬をもって勤め率い、先妣(母の後)に継がせよ」とあるのは、思うに世主の祭祀を受け継がされるための通辞であろう】。〔小過六二爻辞にある〕「その祖を過ぎ、その妣に遇う」は、文義によれば、妣はまさに祖の上の世代にあるはずである。〔同じく〕「その君に及び、その臣に遇う」は、臣はすなわち君の下にある者である。昔人はいまだこの義を論じていない。周人は姜嫄を妣となした【『周礼』大司楽の鄭玄注に「周人は后稷を始祖として、〔その母である〕姜嫄は宗廟に配しなかった。そこで別に廟を立てて姜嫄を祭った、これを閟宮と言う」とある】。『国語』周語に「皇妣太姜」とあることので、妣は祖に先立つ。『周礼』大司楽において「先妣を享る」が「先祖を享る」の前にあるのもそのためである。さらに斯干の詩に「妣祖に似ぎ続く」とあり、鄭玄の箋では「妣は、先妣姜嫄のこと。祖は、先祖のことである」とする。または〔「祖妣」を「妣祖」として〕文を変えて韻が合うようにしたとする説があるが、そうではない。【朱子の『周易本義』では、晋六二を「先妣を祭ることの吉とする占辞である」とする】。あるひとは言う、「『易』の爻辞でどうしてこうしたことに言及するのか」と。それは、「帝乙帰妹」、「箕子の明夷」、「王用て岐山に享る」とあるように、『易』の爻辞では〔周王朝に関することを〕しばしば言う。『易』は『周易』にもとづくのであり、それゆえ多く周王朝の事柄に言及するのである。小畜の卦辞に「密雲があっても雨は降らず、我が西郊から沸き起こる」とあり、『周易本義』では「我とは、文王の自称である」としている。