半知録

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漢代揲筮考(二)

漢代揲筮考(一)の続き。漢代での揲筮の在り方について探求していく。

 

 唐の孔頴達は、一爻の老陽・老陰・少陽・少陰を決める際、「四営」によって四十九本から取り除かれた蓍から考える。「四営」とは、

  一、四十九本を両手で二分する。

  二、左手に持つ蓍から一本を取り、左手の小指と薬指の間に掛ける。

  三、左手および右手の蓍を四本ずつ数える。

  四、その余った蓍を左手の小指と薬指の間に掛けていた一本と合する。

の四つの動作のことである。その最初の「一揲」では、かならず五か九となる 。次の「二揲」では、前の「一揲」で取った蓍を四十九本から除いた本数でまた「四営」を行う。すると、かならず四か八になる 。「三揲」では、さらに「二揲」で取った蓍を除いて「四営」を行う。同様に、かならず四か八になる 。こうして三度の「四営」を行い、取り除いた蓍の数の組み合わせで、老陽・老陰・少陽・少陰を決定する。

 老陽は、三度の取り除いた蓍がすべて最小の数であった場合である。すなわち、五・四・四のときである。老陰は、三度の取り除いた蓍がすべて最多の数であった場合、九・八・八、少陽は、取り除いた蓍が二度大きい数で一度少ない数であった場合、九・八・四、九・四・八、五・八・八のときである。

 少陰は、取り除いた蓍が一度大きい数で二度少ない数であった場合である。すなわち、九・四・四あるいは、五・八・四、五・四・八のときである。

 まとめると、以下のようになる。

  老陽:五・四・四

  老陰:九・八・八

  少陽:九・八・四、九・四・八、五・八・八

  少陰:九・四・四、五・八・四、五・四・八

 しかし、黄宗羲が「今正策を棄てて余策に就くるは、是れ経文に背く 」と批判するように、正確には除いた蓍からではなく、残った蓍から求めなくてはならない。四十九本から五本、四本、四本と除いていけば、三十六本となる。三十六を四で割ると、九となる。九は老陽の数であるから、その爻は老陽とされる。四十九本から九本、八本、八本と除いていけば、二十四となり、二十四を四で割れば、六となる。六は老陰の数であるから、その爻は老陰とされる。四十九本から九・八・四あるいは、九・四・八、五・八・八取り除いた場合、二十八となり、四で割れば、七となる。七は少陽の数であるから、その爻は少陽とされる。四十九本から九・四・四あるいは、五・八・四、五・四・八を取り除いた場合、三十二となり、四で割れば、八となる。八は少陰の数であるから、その爻は少陰とされる。

  「四営」を三度行って初めて一爻が完成し、そして一卦六爻を導きだすためには十八回も同じことを繰り返さなければならない。繋辞伝の「十有八変にして卦と成す 」とは、そのことを述べたものである。なお、六爻は初爻から上爻、下から上に向かって決めていく。

 しかし、唐の孔頴達が言う方法は、漢代の揲筮法を反映しているのかという疑問が残る。

 前漢末の人である揚雄(前五三年~十八年)の著作に『太玄経』というものがある。この書は、『易経』を模倣して作られたことはよく知られている。例えば、『易』が六十四卦であるのに対し、『太玄経』は八十一首ある。『易経』には⚊・⚋で構成されるのに対し、『太玄経』は⚊・⚋・𝌀で構成される。『易経』は一卦に六画を重ねるのに対し、『太玄経』は一首に四画を重ねる。『易経』は卦辞・爻辞があるのに対して、『太玄経』は首辞・賛辞がある。等々。当然ながら、その揲筮法も模倣している 。『太玄経』での揲筮法は、玄数篇に記されている。

三十有六而筴視焉。天以三分、終於六成、故十有八策。天不施、地不成、因而倍之、地則虚三以扮天十八也。別一以挂于左手之小指、中分其余。以三搜之、并余於艻。一艻之後而数、其余七為一、八為二、九為三。六筭而策道窮也

三十有六にして筴 焉に視る。天三を以て分かち、六成に終ゆ、故に十有八策なり。天施さざれば、地成らず、因りて之を倍し、地は則ち三を虚しくして以て天十八に扮するなり。一を別ちて以て左手の小指に挂け、其の余りを中分す。三を以て之を搜し、余を艻に并す。一艻の後にして数え、其の余七を一と為し、八を二と為し、九を三と為す。六筭にして策道窮むるなり 。

 『太玄経』では、天策十八と地策十八の三十六策を用いる。「地は則ち三を虚しくす」とは、地策十八の内、三策を除くということである。であるから、実質、三十三策を使用することになる。これは、『易』の揲筮法での五十本から一本を抜き去る動作に倣っている。特に注目すべきは、「一を別ちて以て左手の小指に挂け、其の余りを中分す。三を以て之を搜し、余を艻に并す」の部分である。これは、明らかに繋辞伝の「分而為二以象両、掛一以象三、揲之以四以象四時、帰奇於扐以象閏」になぞえられている。その動作は、以下の通りである。

  一、三十三策から一策を抜き、左手の小指と薬指の間に掛ける。

  二、三十二策を両手で半分に分ける。

  三、左手・右手の策をそれぞれ三本ずつ数え、その余りを左手の小指と薬指の間    

    に掛けて置いて一策と合わせる。

 この『太玄経』の揲法には、揚雄の頃に行われていた『易』の揲筮法が反映されているとみて間違いない。そうすると、前漢末ごろの揲筮法と孔頴達が記す揲筮法には、それほど大きな違いはなかったことが伺える。強いて相違点を挙げれば、孔頴達の揲筮法では、蓍を両手で分けた後、左手から一本を抜いていたが、『太玄経』の揲法では、蓍を両手で分ける前に、一本を抜いていることである。

 また、後漢の荀爽は、「二たび策を揲えて左手の一指の間に掛け、三指の間満ちて、一爻と成す 」とし、「一揲」で得た蓍を左手の小指と薬指の間に掛け、次の「二揲」で得た蓍は左手の薬指と中指の間に掛け、「三揲」で得た蓍は左手の中指と人差し指の間に掛け、小指から人差し指までの三つの間が満たされ、一爻が完成するとしている。「一揲」のたびにその取り出した蓍を左手の指間に挟んでいる。これは、孔頴達の『正義』には記されていなかった動作である。「一揲」ごとに左手の指間に挟み込んでいくことは、後漢から三国までの人である虞翻の注にも見える。そのことから、漢代の揲筮法では、「一揲」ごとに指間に挟み込んでいたことが知れる。

 さて、孔頴達と荀爽および虞翻の揲筮法を比べると、多少の解釈の違いがみられるものの、蓍四十九本を両手で二分し、そこから一本を取り、四本ずつ数えてその余りを前の一本に合する、という工程は同じであった。また『太玄経』の揲筮法とも、おおよそ一致していた。そのことから、孔頴達の揲筮法は、漢代の揲筮法と大きな違いはなかったと言える。そうしたことから、漢代の揲筮法は、以下のようであったと推定される。

  

  一、蓍五十本から一本を取り除く。

  二、蓍を両手で二分する。

  三、左手に持つ蓍から一本を取り、左手の小指と薬指の間に掛ける。

  四、左手および右手の蓍を四本ずつ数える。

  五、その余った蓍を左手の小指と薬指の間に掛けていた一本と合する。そして、左  

    手の小指と薬指の間に掛けたままにしておく。

  六、二~六までの動作を繰り返す(三では左手の薬指と中指の間に掛ける)。その

    ことによって出た蓍は、左手の薬指と中指の間に掛けておく。

  七、また二~六までの動作を繰り返す(三では左手の中指と人差し指の間に掛け

    る)。そのことによって出た蓍は、左手の中指と人差し指の間に掛けておく。   八、四十九本のうち、左手の指間に掛けていた蓍を除いた本数を数え、老陽(三十

    六策)・老陰(二十四策)・少陽(二十八策)・少陰(三十二策)かを決定す

    る。

  九、一~八までの動作を繰り返し、六爻を導き出す。