半知録

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『日知録』易篇訳「師出以律」

師出以律

〔要旨〕

師の初九爻辞「師出以律」の「律」とは、殷の湯王や周の武王のような仁義を心構えとし、斉の桓公や晋の文公のような節制を用途とする意味である。『易』の卦辞で言う「貞(正しさ)」に相当する。

 

〔原文〕

以湯・武之仁義為心、以桓・文之節制爲用、斯之謂律。律卽卦辭之所謂貞也。『論語』言「子之所愼者戰」。長勺以詐而敗齊、泓以不禽二毛而敗於楚、『春秋』皆不予之。故「先爲不可勝、以待敵之可勝」。雖三王之兵、未有易此者也。

 

〔日本語訳〕 

 

殷の湯王や周の武王のような仁義を心構えとし、斉の桓公や晋の文公のような節制を用途とする、これを律と言うのだ。律は卦辞の「貞(正しさ)」に相当する。『論語』には「先生が慎重になされたものは、戦争」とある。〔魯は〕長勺において詐術をもってして斉を破り、〔宋は〕泓において白髪まじりの者を捕虜にしないことをもって楚に敗れた。『春秋』では、みなこれらを賞賛することはない。それゆえ〔『孫子』の〕「〔昔の戦いに巧みであった者は〕まずだれにも勝つことができない体制を築き上げて、敵がだれでも打ち破れる状態になることを待つ」という戦略は、三王の兵であっても、いまだこれを変えた者はいない。

 

〔解説〕

顧炎武が「律」を節制と結びつけたのは、師の初九爻辞の程頤の伝「律謂號令、節制行師之道、以號令節制為本、所以統制於衆」から着想を得たものか。なお冒頭の「以湯・武之仁義為心、以桓・文之節制爲用」は、『荀子』議兵篇に似た記述が見える。

 

『日知録』易篇訳「九二君徳」

九二君徳

〔要旨〕

乾の九二が、臣下の位にも関わらず、君徳があるとされるのは、人臣は、まず人君となる徳を保持して、そうして理想的な君主となりえるからである。

 

〔原文〕 

爲人臣者、必先具有人君之德、而後可以堯・舜其君、故伊尹之言曰、「惟尹躬暨湯、咸有一徳」。武王之誓亦曰、「予有亂臣十人同心同德」。

 

 〔日本語訳〕

人臣というのは、かならず先ずつぶさに人君となる徳を保持し、そうした後に堯・舜のような理想的な君主たりえる〔であるから臣下の位である乾の九二に君徳があるとされるのである〕。それゆえ伊尹の言に「わたし伊尹と湯王は、みな純一な徳を身につけていた」とあり、武王の誓にも「予には主だった臣下が十人いるだけであるが、心も徳も一つにまとまっている」とあるのだ。

 

〔解説〕

 前回の「六爻言位」では、顧炎武は、五爻を君の位、二・三・四爻を臣の位とし、初爻と上爻には君臣の位はないとした。乾の文言伝に、その九二爻辞の解釈として「易曰、見龍在田、利見大人、君德也」と、臣下の位であるはずの九二を「君徳」とする。ここでは、そのことを問題としている。

 

『日知録』易篇訳「六爻言位」

六爻言位

〔要旨〕

易伝にみえる「位」には、二つの意義がある。一つは人の貴賎の位、もう一つは六爻の位置を表す位である。「位」を一つの意義で解釈しようとしても、牽強付会に陥るだけである。言葉は一つの事柄だけを表すというわけではなく、それぞれに文脈に適した意味を持つ。

 

〔原文〕

易傳中言位者有二義。「列貴賤者存乎位」、五爲君位、二・三・四爲臣位、故皆曰「同功而異位」。而初・上爲無位之爻、譬之於人、初爲未仕之人、上則隱淪之士、皆不爲臣也。【明夷上六爲失位之君、乃其變例。其但取初・終之義者、亦不盡拘。】故乾之上曰「貴而无位」、需之上曰「不當位」。【王弼注需上六曰、「處无位之地、不當位者也」。程子『傳』亦云、「此爵位之位、非陰陽之位」。】若以一卦之體言之、則皆謂之位、故曰「六位時成」、曰「易六位而成章」。是則卦爻之位、非取象於人之位矣。此意己見於王弼略例、但必強彼合此、而謂初・上無陰陽定位、則不可通矣。記曰、「夫言豈一端而已、夫各有所當也」。

 

 〔日本語訳〕

易伝中の「位」と言うのには、二つの意義がある。〔繋辞伝の〕「貴賎を列するのは位にある」というのは、二爻・三爻・四爻を臣下の位となすことに表れている。それゆえ〔繋辞伝に〕「功を同じくして位を異にしている」というのだ。そして初爻と上爻は位がない爻となし、このことを人事で譬えれば、初爻はいまだ仕えていない人のことであり、上爻は隠居した人、ともに臣下ではない。【明夷上六が失位の君とされるのは、変例である。そうではあるが初・終〔には位がない〕の義を取る者は、ことごとく凡例に拘るというわけではない。】それゆえ乾の上爻には「貴くとも位はない」とあり、需の上爻には「位に当たらない」とあるのである。【王弼が需の上六に注して、「位がない地に居るので、位に当たらない者とされる」と言う。程氏の伝でも「これは爵位の位という意味で、〔六爻での〕陰陽の位ではない」としている。】もし一卦の体をもって言えば、みな「位」と言う。それゆえ「六爻の位は時勢に応じて形成される」と言い、「易は六爻の位を分布させて卦爻の文章を成している」と言うのだ。これは卦爻の位を言ったもので、爻の象徴を人の地位に当てはめたものではない。この解釈はすでに王弼の『略例』にみえているが、かならず彼を無理強いして此に合致させ、初爻・上爻に陰陽の定まった位がないと言えば、通じることはできない。『礼記』に「その言はどうして一端のみを表しているといえようか。それぞれに適した意味があるのだ」と言っているではないか。

 

〔解説〕

  初爻と上爻に位はないとする説は、王弼に始まる。それは、『周易略例』弁位にみえる。王弼は、初爻と上爻の象伝には得位・失位といった記述はなく、繋辞伝でも三爻と五爻、二爻と四爻との「同功而異位」を言うものの、初爻と上爻には言及してない。また乾上九文言伝に「貴而无位」や需上六象伝に「雖不当位」とある。以上のことから、初爻と上爻とには陰陽の定位はないと主張する。

 それに対し、顧炎武は、『易』で言う「位」には、貴賎の位と六爻の位の二種類の意味があるとする。貴賎の位では、五爻が君の位で、二爻・三爻・四爻は臣の位とする。しかし、初爻はいまだ臣ではない位、上爻は隠居した位で、貴賎の位はないとする。一卦は、初爻・二爻・三爻・四爻・五爻・上爻の六つの爻を重ねたものである。六爻の位では、その上下それぞれの爻位を表す意味だとする。

 

『日知録』易篇訳「互體」

互體

〔要旨〕

互体説は、二爻より四爻に至るまで、あるいは三爻より五爻に至るまでで一卦をなす説である。それは、すでに『春秋左氏伝』にみえている。しかし、孔子は互体説について言及しておらず、後人が互体説の根拠として繋辞伝の「雑物撰徳」や「二与四・三与五同功而異位」を挙げるのは誤りである。また朱熹は、互体説を取らなかったが、二爻ずつ合わせて一爻とする「似」という先儒も唱えていない方法論を作りだしている。互体説を言うに及ばない。

 〔原文〕

凡卦爻二至四・三至五、兩體交互、各成一卦、先儒謂之互體。其説已見於『左氏』莊公二十二年、「陳侯筮、遇觀之否曰、『風爲天、於土上、山也』」。注、「自二至四有艮象」。【四爻變故。】艮爲山、是也。然夫子未嘗及之、後人以「雜物撰德」之語當之、非也。其所論「二與四・三與五同功而異位」、特就兩爻相較言之、初何嘗有互體之説。

『晉書』荀顗嘗難鍾會「易無互體」、見稱於世。其文不傳。新安王炎晦叔嘗問張南軒曰、「伊川令學者先看王輔嗣・胡翼之・王介甫三家『易』、何也」。南軒曰「三家不論互體故爾」。

朱子『本義』不取互體之説、惟大壯六五云「卦體似兌、有羊象焉」、不言互而言「似」。似者、合両爻爲一爻、則似之也。【又謂頤初九「靈龜」、是伏得離卦。】然此又剏先儒所未有、不如言互體矣。大壯自三至五成兌、兌爲羊、故爻辭並言「羊」。

 

〔日本語訳〕 

 およそ卦爻の二爻より四爻に至るまで、あるいは三爻より五爻に至るまで、〔内卦・外卦の〕両体が交互し、おのおの一卦となすことを、先儒は互体と呼んでいる。その説はすでに『春秋左氏伝』荘公二十二年にみえており、「陳侯が筮して、観が否に変じると出て、次のように判じた。『風(巽)が天(乾)となり、土(乾)の上に吹けば、山となります』」とあるのが、【〔観䷓が否䷋となったのは〕四爻が変じたためである。】それである。後人が〔繋辞伝の〕「物を雑へて徳を撰ぶ」の語をもって〔互体説の根拠として〕当てるのは、誤りである。その〔互体説に関連して〕論じられるところの「二と四と、三と五と功を同じくして位を異にす」とは、とくに二つの爻を較べて言ったものであり、初めからどうして互体の説があったと言えようか。

『晋書』に荀顗はかつて鍾会の「『易』に互体はない」という論を難じて、世に称せられたという話が載せられている。その文は伝わっていない。新安の王炎はかつて張南軒に、「伊川先生が学ぶ者にまず王輔嗣・胡翼之・王介甫の三家の易解釈をみさせたのは、どうしてか」と質問した。南軒は、「その三家はただ互体を論じなかったからである」と答えた。

 朱子の『本義』では互体の説を取らず、ただ大壮䷡の九五には「卦体が兌に似ており、であるから羊の象がある」と言って、互体と言わず「似る」と言う。「似る」とは、〔大壮の初九と九二、九三と九四、六五と上五の〕二爻ずつ合わせて一爻とすれば、兌☱に似るということである。【また頤䷚の初九で「霊亀」とあるのは、伏すと〔頤䷚の中間の陰爻が一つの陰爻となり、亀の象を持つ〕離☲卦を得られるからである。】しかしこれとて先儒のいまだなかったものを創りだしており、互体を言ったほうがまだましである。大壮の三爻より五爻までで兌を形成し、兌は羊を表す。それゆえ〔大壮の〕爻辞はならびに「羊」と言うのである。

 

〔解説〕

繋辞伝の「物を雑へて徳を撰ぶ」を互体説の根拠とするのは、『朱子語類』巻六七・易三・綱領下・卦変卦体第十三条に見え、宋代に唱えられた説か。また繋辞伝の「二与四同功」「三与五同功」が互体説を示すものと解した者には、古くは荀爽がいる。

 

『日知録』易篇訳「卦變」

卦變

〔要旨〕

卦変説は、孔子に始まるわけではなく、周公の爻辞にすでにみえている。卦変説は、乾・坤からの変化を基礎とするのであり、十二消息卦の変化に拠るのではない。

 

 〔原文〕

卦變之説、不始於孔子、周公繫損之六三已言之矣、曰、「三人行則損一人、一人行則得其友」。是六子之変、皆出於乾坤、無所謂自復姤臨遯而來者、當從程『傳』。【蘇軾・王炎皆同此説。】

 

〔日本語訳〕 

 卦変の説は、孔子に始まるというわけではなく、周公が損の六三に辞を繋いだ段階ですでにそのことを言っている、「三人(乾☰)行けば一人(九三)を損し〔そうして損の内卦が☱となり〕、一人(九三)行けばその友(上爻)を得る〔そうして損の外卦が☶となった〕」と。これは、六子(震・坎・艮・巽・離・兌)の変化は、すべて乾・坤より出で、いわゆる復・姤・臨・遯〔といった十二消息卦〕から来た卦はなく、〔すべての卦が乾坤の変化にもとづくとする〕程頤の『伝』に従うべきである。【蘇軾・王炎はみなこの説に同じである。】

 

〔解説〕

 顧炎武は、卦辞は文王、爻辞は周公が作ったとするので、損の六三爻辞に卦変による解釈があることをもって、卦変説は周公の時にはあったとするのである。

 ただ王弼は、損の六三爻辞を卦変説では解釈していない。『周易程氏易伝』および『周易本義』は卦変でもって説明しており、顧炎武はこれに則ったのである。

 震・坎・艮・巽・離・兌がなぜ「六子」と呼ばれるのか。それは、乾は父、震は長男、坎は中男、艮は少男、坤は母、巽は長女、離は中女、兌は少女を象徴するとされ、父母である乾・坤に対し、震・坎・艮・巽・離・兌はその子供だからである。

 「いわゆる復・姤・臨・遯〔といった十二消息卦〕から来た卦」とは、乾坤を除く六十二卦が十二消息卦の卦変から生み出されるという説を指している。十二消息卦とは、復䷗・臨䷒・泰䷊・大壮䷡・夬䷪・乾䷀・姤䷫・遯䷠・否䷋・観䷓・剥䷖・坤䷁の十二卦を陽あるいは陰が一爻ごとに伸長する卦を指す。朱熹の『周易本義』巻一にみえる「卦変図」が、そうである。それに対し、程頤は、乾坤が変化して六子が生じ、八卦が重なって六十四卦が成ったとし、すべての卦は乾坤の変化にもとづくと考えていた。顧炎武は、朱熹ではなく、程頤の説を採ったのである。

 

 

 

『日知録』易篇訳「卦爻外無別象」

卦爻外無別象

〔要旨〕

文王と周公は、卦の形象がもつ意義を観察して占辞を書き足した。孔子は伝を作ったが、決して一象も増設しなかった。しかし、荀爽・虞翻の徒が、本来の卦象の他に新たな象を生み出し、『易』の大旨を乱した。王弼がそうした余計なものを排除し、程頤が受け継ぎ、その大義が保たれることになった。

 

〔原文〕

聖人設卦觀象而繫之辭、若文王・周公是已。夫子作傳、伝中更無別象。其所言卦之本象、若天地雷風水火山澤之外、惟「頤中有物」、本之卦名、「有飛鳥之象」、本之卦辭、而夫子未嘗增設一象也。荀爽・虞翻之徒、穿鑿附会、象外生象、以「同聲相應」爲震・巽、「同氣相求」爲艮・兌、「水流濕、火就燥」爲坎・離、「雲從龍」則曰乾爲龍、「風從虎」則曰坤爲虎。十翼之中、無語不求其象、而易之大指荒矣。豈知聖人立言取譬、固與後之文人同其體例、何嘗屑屑於象哉。王弼之注雖渉於玄虛、然已一埽『易』學之榛蕪、而開之大路矣。【王輔嗣『略例』曰、「互體不足、遂及卦變。變又不足、推致五行。一失其原、巧喻弥甚」。】不有程子、大義何由而明乎。

『易』之互體・卦變、『詩』之叶韻、『春秋』之例日月、經説之繚繞破碎於俗儒者多矣。『文中子』曰、「九師興而易道微、三傳作而春秋散」。

 

〔日本語訳〕 

 

 聖人が卦を設けその形象がもつ意義を観察して占辞を書き足したのは、文王と周公がそうである。孔子がその伝である十翼を作り、伝中に書かれている他にさらに別の象はない。十翼で言うところの本象、天・地・雷・風・水・火・山・沢の他に、〔噬嗑の彖伝に〕「頤中に物有り」とあるのは、その〔噬嗑の〕卦名にもとづき、〔小過の彖伝に〕「飛鳥の象有り」とあるのは、その〔小過の〕卦辞にもとづいたのであり、孔子は決して一象を増して設けたわけではない。荀爽・虞翻の徒が、穿鑿付会して、本来の象の他に新たな象を生み出し、「〔雷・風の〕同声が応じあう」ことをもって震・巽と結びつけ、「〔山・沢の〕同気が求めあう」ことをもって艮・兌と結びつけ、「水は湿地に流れ、火は乾燥したものに付く」ことをもって坎・離と結びつけ、「雲は龍に従う」ので乾は龍を表すとし、「風は虎に従う」ので坤は虎を表すとした。十翼の中で、占辞は十翼にある象で求められないものはないのだが、〔『易』に典拠がない象をもって解釈する荀爽・虞翻の徒によって〕『易』の大旨は荒れてしまった。どうして聖人が言を立てて譬えを取るあり方は、後の文人とその体例を同じくすることを知っていながら、なぜかつては象にあくせくとしていたと思うのか。王弼の注は老荘的な解釈をするとはいえ、易学の余計なものを一掃して、〔『易』の義理を重視する〕大路を開いた。【王弼の『周易略例』で「互体では足りず、ついに卦変での解釈に及んだ。卦変でもまだ足りず、五行を持ち込むようになった。ひとたびその源を失えば、巧みな解釈がますますひどくなっていった」と言っている。】程頤がいなければ、〔王弼の〕大義は何に拠って明らかになったであろうか。

 『易』の「互体」・「卦変」、『詩』の「叶韻」、『春秋』の「例日月」といったように、経説が俗儒によって迂遠で支離滅裂にされてしまったものは多い。『文中子』に「九師が興って易道は衰え、三伝が作られて『春秋』がばらばらになってしまった」とある。

 

〔解説〕

『易』の八卦には、万物の象徴が内包されているとされる。その八卦の象徴は、十翼の一つである説卦伝にまとめられている。後漢から三国までの易学者である荀爽・虞翻は、説卦伝にみえる卦象に拘泥せず、新たな卦象を生み出した。とくに虞翻が案出した卦象は、恵棟の集計によれば、四百五十六象にも及ぶ。

 三国・魏の王弼は、そうした卦象による解釈を批判し、人事にひきつけ老荘思想をもって『易』を解釈した。それを義理易と呼ぶ。北宋の程頤の『周易程氏伝』は、王弼注を範としており、象数易的解釈を用いていない。『周易程氏伝』において繋辞伝・説卦伝・雑卦伝に伝がないのは、王弼に倣ったからだとされる。

 『易』の「互体」・「卦変」については、以降の条を参照。

 『詩』の「叶韻」とは、『詩経』などの古詩において、押韻させるために、本来の読みを全く変えて韻を合わせる説である。合韻、協韻とも言う。叶韻は、明の陳第が『毛詩古音考』にて否定的な見解を示し、現在、成り立たないことがわかっている。

 『春秋』の「例日月」とは、『春秋公羊伝』に特徴的な解釈法で、『春秋』の経文に記録された「日」や「月」等の有無に「春秋の義」を読み取ろうとする説のことである。

 

 

『日知録』易篇訳「朱子周易本義」⑦

【要旨】

科挙の受験生たちは大義を理解せず暗誦するばかり、その出題は伝を主として経を客とし、射覆のような有様となっている現状を、五経は亡んでしまったと嘆く。

 

【原文】

秦以焚書而五經亡、本朝以取士而五經亡。今之爲科擧之學者、大率皆帖括熟爛之言、不能通知大義者也。而易春秋尤爲繆盭。以彖伝合大象、以大象合爻、以爻合小象、二必臣、五必君、陰卦必云小人、陽卦必云君子、於是此一經者爲拾瀋之書、而『易』亡矣。取胡氏傳一句兩句爲旨、而以經事之相類者合以爲題、傳爲主、經爲客、有以彼經證此經之題、有用彼經而隱此經之題、於是此一經者爲射覆之書、而『春秋』亡矣。【天順三年九月甲辰、浙江溫州府永嘉縣儒學教諭雍懋言「比者浙江郷試春秋摘一十六段配作一題、頭緒太多。及所鏤程文、乃太簡略而不統貫。且春秋爲經、屬詞比事、變例無窮。考官出題、往往棄經任傳、甚至參以己意、名雖經題、實則射覆。乞敕禁止」。上從之。】復程・朱之書以存『易』、【當各自爲本。】備三傳・啖・趙諸家之説以存『春秋』、必有待於後之興文敎者。

 

 【日本語訳】

 秦では焚書でもって五経が亡び、本朝では科挙でもって五経が亡んだ。今の科挙を受験しようとする書生たちは、だいたい紋切り型の文句を記誦するだけで、大義を理解できていない者ばかりである。『易』と『春秋』がとりわけひどい。彖伝を大象とくっつけ、大象を爻とくっつけ、爻を小象とくっつけ、二爻は必ず臣を表し、五爻は必ず君を表す、陰卦は必ず小人のことを言い、陽卦は必ず君子のことを言うとするに及んで、この一経はもうとりかえしもつかない書となってしまい、『易』は亡んでしまった。胡氏の伝の一句両句を取って〔『春秋』の〕要旨だとし、経事で類似している物事を一つまとめて問題となせば、伝を主として、経を客とし、あの経文をこの経文で証明させようとする問題、あの経文を用いてこの経文を隠した問題が出されるに及んで、この一経は隠れた物事を言い当てる書になりさがり、『春秋』は亡んでしまった。【天順三年九月甲辰、浙江温州府永嘉県の儒学教諭であった雍懋は、「近頃の浙江の郷試では、『春秋』の中から十六段を摘みとって配列し一題を作っており、〔問題の中に〕解答の糸口になるようなものがとても多い有り様です。刊刻された模範解答に及んでは、はなはだ簡略で系統立てて書かれていません。さらに『春秋』は経であり、『春秋』に記録された事柄と記録法とを集めて比較して、込められた「春秋の義」を明らかにしようとしても、特例が無数に存在しています。考官の出題には、往々にして経を棄てて伝に任せ、甚だしきは自分の考えを加えています。名は経題とされているのにも関わらず、実体は隠れた中身を言い当てる占卜のようなものとなっています。このことを禁止する勅令を出されますようお願い致します」と上奏した。帝はこれに従った。】程・朱の書に則って『易』が存し、【〔程氏の伝と朱熹の『本義』は〕別々に一書でなければならない。】三伝(公羊伝・穀梁伝・左氏伝)・啖助・趙匡の諸家の説を備えて『春秋』が存する〔ように伝があって経が存在する倒錯した〕状態であり、後世の文教を復興させようとする者を待つ必要があろう。

 

【解説】

 顧炎武は、科挙に対しかなり批判的で、この他にも『日知録』には科挙の弊害を説いたところが所々見える。 

 「二爻は必ず臣を表し、五爻は必ず君を表す、陰卦は必ず小人のことを言い、陽卦は必ず君子のことを言うとする」のは、おそらく朱熹の説を念頭に置いているのだろう。『周易本義』巻末上「述旨」に「二臣五君」とあり、繋辞伝「陽一君而二民、君子之道也。陰二君而一民、小人之道也」に対する『本義』に「震・坎・艮爲陽卦、皆一陽二陰。巽・離・兌爲陰卦、皆一陰二陽」とある。