半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

『日知録』易篇訳「形而下者謂之器」

形而下者謂之器

 

【原文】

「形而上者謂之道、形而下者謂之器」。非器則道無所寓、説在乎孔子之學琴於師襄也。已習其數、然後可以得其志。已習其志、然後可以得其爲人。是雖孔子之天縱、未嘗不求之象數也。故其自言曰「下學而上逹」。

 

【日本語訳】

「形而上であるものを道と言い、形而下であるものを器と言う」。器でなければ道が宿るところはなく、その考え方は孔子が琴を師襄に学んだところにみえる。すでにその数理を習得して、その後にその志を得ることができる。すでにその志を習得し、その後にその人となりを掴むことができる。孔子は天賦の才を持っていたとはいえ、いまだかつてこのことを象徴や数理に求めなかったことはなかった。それゆえ自ら言ったのである、「手近なところから学び始めて、次第に進歩向上していく」と。

 

【解説】

孔子が琴を楽師の襄子に学んだ説話は、『史記孔子世家・『韓詩外伝』巻五・『孔子家語』弁楽解等にみえる。そのあらすじは以下の通りである。孔子が琴を楽師の襄子に学んだおり、襄子は孔子が十日経っても次の曲に移らないことを訝しがり、「他の曲に移りましょう」と薦めると、孔子は「まだ曲の数理が理解できていない」と述べた。しばらくして、また「他の曲に移りましょう」と薦めると、孔子は「まだ曲の意味が理解できていない」と述べる。またしばらくして、「他の曲に移りましょう」と薦めると、孔子は「まだ作曲者の人柄が理解できていない」と述べる。しばらくして孔子は作曲者の人柄が理解できたとし、「文王でなくて、誰がこの曲を作れましょう」と述べた。襄子はそれを聞き、「わたくしの師匠は文王の琴曲と申しておりました」と、席を退き再拝し述べた。

 

『日知録』易篇訳「繼之者善也成之者性也」

繼之者善也成之者性也

 

〔原文〕

「維天之命、於穆不已」、繼之者善也。「天下雷行、物與无妄」、成之者性也。是故、「天有四時、春秋冬夏、風雨霜露、無非敎也。地載神氣、神氣風霆、風霆流形、庶物露生、無非敎也」。

「天地絪緼、萬物化醇」、善之爲言、猶醇也。曰何以謂之善也。曰、「誠者、天之道也」。豈非善乎。

 

 

 〔日本語訳〕

「天の命は、まことに深淵で止むことはない」とあるのは、(天の命を)受け継ぐ者が善であるからである。「天の下に雷が動けば、物に妄りにはならないことを与う」とあるのは、(天の命によって)形成された者が性であるからである。そのことから、〔『礼記』に〕「天には四時の季節あって、春秋冬夏と風雨霜露のはたらきは、人君の模範とならないものはない。地は神気で満たされており、その神気とは風と霆のことである。風と霆が形を与えて、万物は発生する。このことも人君の模範とならないものはない」とあるのである。

 〔繋辞伝に〕「天地陰陽の気が密接にまじりあうことによって、万物は化して厚く凝る」とあり、善というのは、この「厚く凝る」のようなものである。どうしてこれを善であるのかと言えば、いわく、〔『礼記』中庸にあるように〕「誠は、天の道であるからである」。どうして善でないことがあろうか。

 

〔解説〕

「天下雷行、物与无妄」は、无妄の象伝で、王弼は、「與、辭也、猶皆也。天下雷行、物皆不可以妄也」と解し、「物与な妄无し」と読んでいる。一方、『伊川易伝』では、「雷行於天下、陰陽交和、相薄而成聲。於是驚蟄蔵、振萌芽、發生萬物、其所賦與、洪纎高下、各正其性命、无有差妄、物與无妄也」と、「物ごとに无妄を与ふ」と解す。顧炎武は、おそらく『伊川易伝』の方向で考えていると思われるので、程伝に従って読んでおく。 

 

『日知録』易篇訳「通乎晝夜之道而知」

通乎晝夜之道而知

 

〔原文〕

日往月來、月往日來、一日之昼夜也。寒往暑來、暑往寒來、一歳之昼夜也。小往大來、大往小來、一世之晝夜也。子在川上曰、「逝者如斯夫。不舍昼夜。「通乎晝夜之道而知」、則「終日乾乾、與時偕行」、而有以盡乎『易』之用矣。

 

 

〔日本語訳〕 

太陽が去れば月がやってきて、月が去れば太陽がやってくるのが、一日の昼夜である。寒さが去れば暑さがやってきて、暑さが去れば寒さがやってくるのが、一年の昼夜である。小が去れば大がやってきて、大が去れば小がやってくるのが、一世の昼夜である。孔子が川のほとりにあって言われた、「逝く者はこのようなものであろうか。昼夜も休むことはない」と。昼夜の道に通じて知っていれば、一日中つとめて励み、しかるべき時に応じて行動し、そうして『易』のはたらきを尽くす事がある。

 

『日知録』易篇訳「游魂爲變」

游魂爲變

 

【原文】 

「精気爲物」、自無而之有也。「游魂爲變」、自有而之無也。夫子之荅宰我曰、「骨肉斃於下、陰爲野土。其氣發揚於上、爲昭明。焄蒿悽愴」。【朱子曰、「昭明、露光景也」。鄭氏曰、「焄、謂香臭也。蒿、氣蒸出貌」。許氏曰、「悽愴、使人慘慄感傷之意」。魯菴徐氏曰、「陽気爲魂、附於體貌、而人生焉。骨肉斃於下、其氣無所附麗、則發散飛揚於上、或爲朗然昭明之氣、或爲溫然焄蒿之氣、或爲肅然悽愴之氣。蓋陽氣輕淸、故升而上浮、以從陽也」。】所謂「游魂爲變」者、情状具於是矣。延陵季子之葬其子也、曰、「骨肉復歸於土、命也。若魂氣則無不之也。無不之也」。張子『正䝉』有云、「太虛不能無氣、氣不能不聚而爲萬物、萬物不能不散而爲太虛。循是出入、是皆不得已而然也。然則聖人盡道其閒兼體而不累者、存神其至矣」。其精矣乎。鬼者、歸也。張子曰、「氣之爲物、散入無形、適得吾體」。此之謂歸。陳無已【師道。】以「游魂爲變」爲輪廻之説。【『理究』。】呂仲木【柟。】辨之曰、「長生而不化、則人多、世何以容。長死而不化、則鬼亦多矣。夫燈熄而然、非前燈也。雲霓而雨、非前雨也。死復有生、豈前生邪」。邵氏【寶。】『簡端錄』曰、「聚而有體、謂之物、散而無形、謂之變。唯物也、故散必於其所聚。唯變也、故聚不必於其所散。是故聚以氣聚、散以氣散。昧於散者、其説也佛、荒於聚者、其説也僊」。盈天地之閒者、氣也。氣之盛者爲神。神者、天地之氣而人之心也。故曰、「視之而弗見、聽之而弗聞、體物而不可遺、使天下之人齊明盛服以承祭祀。洋洋乎如在其上、如在其左右」。聖人所以知鬼神之情状者如此。「維嶽降神、生甫及申」、非有所託而生也。「文王在上、於昭于天」、非有所乘而去也。此鬼神之實而誠之不可揜也。

 

【日本語訳】

 「精気を物と為す」とは、無から有に向かうことを言う。「遊魂を変と為す」とは、有から無に向かうことを言う。孔子宰我の質問に答えて、「骨肉は地下に朽ち果てて、埋もれて野の土となる。その気は上に立ち上って、照明となる。そのさまは、香気が立ち上って人の心をおののかせる」と言っている。【朱子は言う、「照明とは、露の光景である」と。鄭玄は言う、「焄とは、香臭のことである」と。許氏は言う、「淒愴とは、人を戦慄させ感傷させることの意である」と。徐師曽は言う、「陽気は魂であり、人体に憑いて、人はここに生まれる。骨肉は地下に朽ち果て、その気が付着するところがなくなれば、上に発散飛翔し、あるいは朗然とした昭明の気となり、あるいは温然とした香気となり、あるいは粛然とした戦慄させる気となる。思うに陽気は軽くて清らかであるから、昇って上に浮遊し、陽に従うのであろう」と。】いわゆる「遊魂を変と為す」は、情状はここに備わっている。延陵季子がその子を葬ったおり、「骨肉が土に返るのは、道理です。しかし、魂気は行けないところはない。行けないところはないのです」と述べた。張子の『正䝉』には、「太虚に気がないことはありえなく、気が集合しないで万物となることはなく、万物が散開しないで太虚となることはない。(気は)めぐりめぐって出入し、すべて止むことはなくして(この世は)泰然としている。そうであるからこそ、聖人は道をこの世の間に尽くし、(気と)体を兼ねて煩うことはない者であって、神を存養することの至りなのである」と述べている箇所がある。なんと優れていることであろう。

 鬼とは、帰を意味する。張子は、「気というものは、離合集散して決まった形がなくても、ぴったりと我が体を作り上げる」と言う。これが帰ということだ。

 陳無已【名は師道。】は、「游魂を変と為す」ことをもって輪廻の説とする。【『理究』。】呂仲木【名は柟。】は、このことを弁じて、「長生して変化しないものは、人が多く、世ではどうして受け入れるのか。長死して変化しないものは、鬼が多い。そもそも明かりが点滅するのは、以前に明かりがあったからではない。雲や虹が現れて雨が降るのは、以前に雨があったからではない。死に再び生があるというは、どうして前世というものがあろうか」と言う。

 邵氏【名は宝。】『簡端録』に「集合して形有るもの、これを物と言い、散開して形無きもの、これを変と言う。ただ物であるので、散じた気は(形がある物となるためには)集まる場所が必要である。ただ変であるので、気の集合にはどこで散じたかは問題とならない。このことから、集合は気をもって集まり、散開も気をもって散じる。気の散開を理解していない者の説は仏教のようになり、気の集合になおざりにしている者の説は仙術のようになる」とある。

 天地の間に満ちているものは、気である。気の盛んなるものが神である。神は、天地の気であって人の心である。それゆえ、「これを見ようとしても見えず、これを聞こうとしても聞こえず、万物を生じて漏らすところがない。天下の人は、斎戒して祭服を身につけ、祭祀を執り行うのである。洋々としてあたかも神霊が頭上にいるように、あたかも左右にいるように行う」と言う。聖人が鬼神の情状を知れるのは、このようであるからである。

 「名嶽の神霊が降って、甫侯及び申伯を生んだ」とあるのは、神のお告げがあって生まれたのではない。「文王の神霊が天の上にいまし、ああ、その霊が天に明らかに現れている」とあるのは、乗るところがあって(この世から)去ったのではない。これこそ、鬼神の実態であってその誠を覆い隠すことはできない。

 

【解説】

主な出典を記しておく。「朱子」は『朱子語類』巻六八・易四・乾上、「鄭玄」は『礼記』祭義篇「焄蒿悽愴」の注、「許氏」は、元の許謙『読中庸叢説』上。「魯菴徐氏」は、徐師曽、字は伯魯のこと、徐師曽には『礼記集注』三十巻の著作があり、そこからの引用と思われるが、確認できていない。「陳無已」は、陳師道『後山集』巻二二「理研」。「呂仲木」は、呂柟のこと、その著作に『涇野先生文集』『涇野子内篇』などがあるが、ここの出典は不明。「邵氏簡端録」は、邵宝『簡端録』巻三。

 

『日知録』易篇訳「東鄰」

東鄰

〔要約〕

既済の九五爻辞に「東鄰殺牛、不如西鄰之禴祭、實受其福」とある。「鄰」とは、道を失い、命をほしいままにする者のことである。「東鄰」とは、殷の紂王を指す。

 

〔原文〕

馭得其道、則天下皆爲之臣。馭失其道、則彊而擅命者、謂之鄰。臣哉鄰哉、鄰哉臣哉。『漢書』郊祀志引此、師古注「東鄰、謂商紂也。西鄰、謂周文王也」。

 

〔日本語訳〕

統治するときに道を得ていれば、天下はみな臣下となる。統治するときに道を失っていれば、強制して命をほしいままにする者となり、これを鄰と言う。臣であるのか鄰であるのか、鄰であるのか臣であるのか。『漢書』郊祀志はこれ(既済の九五爻辞)を引き、顔師古は「東鄰は、殷の紂王のことを指す。西鄰は、周の文王のことを言ったものだ」と注している。

 

〔解説〕

 「臣哉鄰哉、鄰哉臣哉」は、『尚書』益稷の文である。その孔伝では「鄰、近也。言君臣道近、相須而成」とあり、「鄰」を近いと解している。

 

『日知録』易篇訳「妣」

 【原文】

『爾雅』「父曰考、母曰妣」。愚考古人自祖母以上通謂之妣、經文多以妣對祖、而竝言之。若『詩』之云「似續妣祖」、「烝畀祖妣」、『易』之云「過其祖、遇其妣」、是也。『左傳』昭十年、「邑姜、晉之妣也」。平公之去邑姜蓋二十世矣。【『儀禮』士昏禮「勗帥以敬先妣之嗣」、蓋繼世主祭之通辭。】「過其祖、遇其妣」、據文義、妣當在祖之上。「不及其君、遇其臣」、臣則在君之下也。昔人未論此義。周人以姜嫄爲妣、【『周禮』大司樂注「周人以后稷爲始祖、而姜嫄無所配。是以特立廟祭之、謂之閟宮」。】『周語』謂之「皇妣太姜」、是以妣先乎祖。『周禮』大司樂「享先妣」在「享先祖」之前。而斯干之詩曰「似續妣祖」、箋曰「妣、先妣姜嫄也。祖、先祖也」。或乃謂變文以協韻、是不然矣。【朱子『本義』以晋六二爲「享先妣之吉占」。】或曰「易爻何得及此」。夫「帝乙歸妹」、「箕子之明夷」、「王用享于岐山」、爻辭屢言之矣。『易』本『周易』、故多以周之事言之。小畜卦辭「密雲不雨、自我西郊」。『本義』「我者、文王自我也」。

 

 

【日本語訳】

『爾雅』に「父は考と言い、母は妣と言う」とある。愚考するに、古人は祖母より上を総じて妣と言ったのであり、経文の多くは妣をもって祖と対をなし、並びに言及している。『詩』の「妣祖に似(つ)ぎ続く」、「祖妣に烝め畀え」、『易』の「其の祖を過ぎ、其の妣に遇う」とあるのが、それである。『左伝』昭公十年に、「邑姜は、晋の妣である」とある。平公から邑姜までは思うに二十世である【『儀礼』士昏礼に「〔宗廟の事を〕敬をもって勤め率い、先妣(母の後)に継がせよ」とあるのは、思うに世主の祭祀を受け継がされるための通辞であろう】。〔小過六二爻辞にある〕「その祖を過ぎ、その妣に遇う」は、文義によれば、妣はまさに祖の上の世代にあるはずである。〔同じく〕「その君に及び、その臣に遇う」は、臣はすなわち君の下にある者である。昔人はいまだこの義を論じていない。周人は姜嫄を妣となした【『周礼』大司楽の鄭玄注に「周人は后稷を始祖として、〔その母である〕姜嫄は宗廟に配しなかった。そこで別に廟を立てて姜嫄を祭った、これを閟宮と言う」とある】。『国語』周語に「皇妣太姜」とあることので、妣は祖に先立つ。『周礼』大司楽において「先妣を享る」が「先祖を享る」の前にあるのもそのためである。さらに斯干の詩に「妣祖に似ぎ続く」とあり、鄭玄の箋では「妣は、先妣姜嫄のこと。祖は、先祖のことである」とする。または〔「祖妣」を「妣祖」として〕文を変えて韻が合うようにしたとする説があるが、そうではない。【朱子の『周易本義』では、晋六二を「先妣を祭ることの吉とする占辞である」とする】。あるひとは言う、「『易』の爻辞でどうしてこうしたことに言及するのか」と。それは、「帝乙帰妹」、「箕子の明夷」、「王用て岐山に享る」とあるように、『易』の爻辞では〔周王朝に関することを〕しばしば言う。『易』は『周易』にもとづくのであり、それゆえ多く周王朝の事柄に言及するのである。小畜の卦辞に「密雲があっても雨は降らず、我が西郊から沸き起こる」とあり、『周易本義』では「我とは、文王の自称である」としている。

 

『日知録』易篇訳「山上有雷小過」

山上有雷小過

 

〔原文〕

山之高峻、雲雨時在其中閒、而不能至其巓也。故『詩』曰、「殷其靁、在南山之側」、或高或下、在山之側、而不必至其巓、所以爲小過也。然則大壯言「雷在天上」、何也。曰、「自地以上皆天也」。

 

〔日本語訳〕

山の高峻においては、雲雨の時は山の中腹に位置して、その山頂までには至ることはできない。それゆえ『詩』に「おどろおどろと鳴る雷は、南山の側でとどろく」とあるのは、〔中腹より〕あるいは高くあるいは下で、山の側でとどろき、かならずしもその山頂には至らない。そのことから小過(少しく過ぎる)とされるのである。そうであるならば、大壮に「雷は天上にある」と言うのは、どうしてか。いわく、地より以上はみな天であるからである、と。

 

〔解説〕

「自地以上皆天也」については、『日知録』「天在山中」の項を参照。