半知録

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『日知録』易篇訳「説卦雜卦互文」

説卦雜卦互文

【原文】

「雷以動之、風以散之、雨以潤之、日以晅之、艮以止之、兌以説之、乾以君之、坤以藏之」。上四擧象、下四擧卦、各以其切於用者言之也。「終萬物、始萬物者、莫盛乎艮」。崔憬曰、「艮不言山、獨擧卦名者、以動撓燥潤功、是風雷水火、至於終始萬物、於山義則不然、故舍象而言卦、各取便而論也」。得之矣。

古人之文、有廣譬而求之者、有擧隅而反之者。「今夫山、一卷石之多。今夫水、一勺之多」。天地之外復言山水者、意有所不盡也。「坤也者、地也」、不言西南之卦、「兌、正秋也」、不言西方之卦、擧六方之卦而見之也。意盡於言矣。虞仲翔以爲「坤道廣布、不主一方」、及「兌象不見西」者、妄也。「豐、多故、親寡、旅也」、先言「親寡」、後言「旅」、以協韻也。猶『楚辭』之「吉日兮辰良」也。虞仲翔以爲別有義、非也。

【日本語訳】 

〔説卦伝に〕「雷は万物を鼓動させ、風はこれを吹き散らし、雨はこれを潤し、日はこれを乾かし、艮はこれを止め、兌はこれを悦ばせ、乾はこれに君臨し、坤はこれを包蔵する」とある。上の四つは卦象を挙げて、下の四つは卦名を挙げるのは、それぞれその用途に切実である者をもって言ったからである。「万物の終わりとなり、万物の始めとなる者は、艮より盛んなるものはない」とあり、崔憬は、「艮を山と言わず、ここだけ卦名を挙げるのは、動・撓・燥・潤の効力は、それぞれ風・雷・水・火であり、万物を終始するに至っては、〔艮の卦象である〕山の義では妥当ではない。それゆえ象を捨てて卦名を言い、それぞれ都合がよいものをもって論じたのである」と解説している。真意を得ている。

 古人の文には、譬えを広くして物事を求めるものや、一隅を挙げて物事に反対するものがある。〔『礼記』中庸篇に〕「今、あの山は一塊の石が本であり、あの河水は一杯の水が本である」と、天地のほかにまた山・水に言及しているのは、〔天地だけでは〕意を尽くせないところがあったからである。「坤は、地である」と言って、西南の卦と言わず、「兌は、正秋である」と言って、西方の卦と言わないのは、六方の卦を挙げて坤と兌の方角を示したからである。虞翻は、「坤道は広くいきわたって、一つの方角を主らない」、また「兌象は西方を表さない」からだというが、妄言である。〔雑卦伝に〕「豊は、多故、親寡は、旅なり」とあり、〔卦名の次にその意義が書かれるが、旅だけ〕先に「親寡」と言って後に「旅」とあるのは、押韻させるためである。それは『楚辞』の「吉日の辰良し」の〔押韻させるために「良辰」を「辰良」とする〕ようなものである。虞翻は〔坤と兌には方角が記されていないのは〕別に義があったからだと考えたが、誤りである。

【解説】

崔憬および虞翻の注釈は、李鼎祚『周易集解』から引いている。

『楚辞』九歌に「吉日兮辰良、穆將愉兮上皇」とあり、「良辰」が「辰良」となっているのは、下句の「皇」と押韻させたためだとされる。

 

『日知録』易篇訳「易逆數也」

易逆數也

【原文】

「數往者順」、造化人事之迹、有常而可驗、順以攷之於前也。「知來者逆」、變化云爲之動、日新而無窮、逆以推之於後也。聖人神以知來、知以藏往、作爲『易』書、以前民用。所設者未然之占、所期者未至之事、是以謂之逆數。雖然、若不本於八卦已成之迹、亦安所觀其會通而繫之爻象乎。是以「天下之言性也、則故而已矣」。

劉汝佳曰、「天地閒一理也、聖人因其理而畫爲卦以象之、因其象而著爲變以占之。象者、體也、象其已然者也。占者、用也、占其未然者也。已然者爲往、往則有順之之義焉。未然者為来、來則有逆之之義焉。如象天而画爲乾、象地而画爲坤、象雷風而画爲震・巽、象水火而畫爲坎・離、象山澤而畫爲艮・兌、此皆觀變於陰陽而立卦、發揮於剛柔而生爻者也、不謂之『數往者順』乎。如筮得乾而知『乾、元亨利貞』、筮得坤而知『坤、元亨。利牝馬之貞』、筮得震而知『震、亨。震来虩虩、笑言啞啞』、筮得巽而知『巽、小亨。利有攸往、利見大人』、筮得坎而知『習坎、有孚。維心亨、行有尚』、筮得離而知『離、利貞。亨。畜牝牛吉』、筮得艮而知『艮其背不獲其身、行其庭不見其人』、筮得兌而知『兌、亨。利貞』、此皆通神明之德、類萬物之情者也、不謂之『知來者逆』乎。夫其順數已往、正所以逆推將來也。孔子曰、『殷因於夏禮、所損益可知也。周因於殷禮、所損益可知也』、數往者順也。『其或繼周者、雖百世可知也』、知來者逆也。故曰『易、逆數也』。若如邵子之説、則是羲・文之『易』已判而爲二、而又以震・離・兌・乾爲數已生之卦、巽・坎・艮・坤爲推未生之卦、殆不免強孔子之書以就己之説矣」。

【日本語訳】

「既往のできごとを数えるのは順である」というのは、人の事跡を生みだす過程には、常道があって検証することができ、順に既往の出来事をその前から考えることである。「未来のできごとを予知するのは逆である」というのは、変化こそが動だと言い、日々新たになり窮まることがないということで、逆に既往の出来事をそれより後に類推することである。聖人は神妙な働きをもって未来を知り、知識をもって既往の出来事を心に蔵し、『易』書を作成して、人の行動に先んじて吉凶を定めた。設けるところはいまだ吉凶がわかっていない問いであり、予期するところはいまだ至っていないことである。そのことから、これを逆数(逆に数え上げる)というのである。そうとはいえ、もし八卦がすでに成った事跡に基づいていなければ、どうしてそのあい集まりあい分かれる変化を観察して卦の爻や象に結びつけられようか。それゆえ「天下の性を論ずるには、すでに起こったことを本とする」と言われるのである。

 劉汝佳は言う、「天地の間は一つの理で出来上がっている。聖人はその理にもとづいて卦を描いて万物を象り、その象った象徴にもとづいて変化を表して占った。象は、本体であり、そのすでにそうなっていることを象ったものである。占は、用途であり、そのいまだ起こっていないことを占うことである。すでにそうであることを往とし、往には〔起こったことに〕順うといった意義がある。いまだ起こっていないことを来とし、来には〔起こったことに〕逆らうといった意義がある。もし天を象って乾を描き、地を象って坤を描き、雷風を象って震・巽を描き、水火を象って坎・離を描き、山沢を象って艮・兌を描き、これらはすべて変化を陰陽に見立てて卦を当てはめ、剛柔に発揮して爻を生むものであるならば、これを『既往のできごとを数えるのは順である』と言えないことがあろうか。もし筮して乾を得て『乾元亨利貞』を知り、筮して坤を得て『坤元亨利、牝馬の貞』を知り、筮して震を得て『震亨る、震来虩虩、笑言啞啞』を知り、筮して巽を得て『巽、小亨、往く攸有る利し、大人を見るに利し』、筮して坎を得て『習坎孚有り、維れ心亨、行けば尚ばるること有り』を知り、筮して離を得て『離利貞亨、畜牝牛吉』を知り、筮して艮を得て『艮其背、不獲其身、行其庭、不見其人』を知り、筮して兌を得て『兌亨、利貞』を知り、これらすべて神明の徳に通じ、万物の情に類するものであるならば、これを『未来のできごとを予知するのは逆である』と言えないことがあろうか。その数に順うということはすでに過ぎ去ったからで、まさに反対に将来を類推できる理由である。孔子が「殷は夏の礼を受け継いて、廃止したり加えたりしたところもあるが、それらを知ることができる。周は殷の礼を受け継ぎ、廃止したり加えたりしたところもあるが、それらを知ることができる」と言うは、既往のできごとを数えるのは順であるということである。また「もし周のあとを継ぐものがあれば、たとえ百代さきでも知ることができる」と言うのは、未来のできごとを予知するのは逆であるということである。それゆえ『易は、逆数である』と言われるのだ。もし邵子の説のように、伏犠と文王の『易』に分別して二つとし、また震・離・兌・乾ですでに生じた卦を数え、巽・坎・艮・坤で未だ生じていない卦を類推するとするのは、ほとんど孔子の書を牽強付会して己の説を完成させたとすることから免れない」と。

【解説】

ここは、説卦伝の「天地定位、山澤通氣、雷風相薄、水火不相射、八卦相錯。數往者順、知來者逆、是故易逆數也」について議論している。劉汝佳の言は、『劉婺州集』巻二四 ・論経二則・邵易誤解からの引用である。

 

『講周易疏論家義疏』釋讀(一)

【前言】

『講周易疏論家義疏』を読んだ際に、調べたこと、思ったことを記した一種の備忘録である。一応、日本語訳を試みているが、うまく意味が取れないところ、苦し紛れに解釈したところもある。誤りも多々あると思うが、何かの役に立てれば幸いである。なお原文は、谷継明『講周易疏論家義記》校箋翻刻に拠った。

 

【原文】

第一釋卦

論曰、无體也、无體之謂也[1]。繫詞云「易无體、神无方」[2]、故能使无象。象而无象、周流六虛[3]、終而復興、終日變化、亦无變化之相。故論曰、易盡爲道變、以極是理也。而有爲因於无爲、變化因於虛冲。故莊生云「天地与我並生、万物与我同根」[4]。(孝)[老子]云「同出而異名」、又云「衆妙之門」[5]也。故若以(事易)[體][6]爲言、欲見太易[7](言)[之]理。或以化爲象、將顯无象之象。但此體用表裏、事理[8]格量、議理設詞、太易之理始乃見矣[9]。上繫云「聖人之意、其不可見乎。聖人立象以盡意[10]」。然則聖[人]設象、假號乾坤者、將使捨別万象、披釋玄理、弱喪之徒[11]、知歸本理者也。

 

【日本語訳】

論に言う、「无体」というのは、決まった形体がないことを言ったものである。繋辞伝に「易に体无く、神に方无し」と言う。それゆえ象ることがないようにさせることができるのである。象るが(決まった形に)象ることはなく、六爻の位を周遊し、終ればまた興り、終日変化するも、また変化の相無し。それゆえ論に「易がことごとく道の変化であるのは、この上なく(太易の)理であるからである」と言うのである。そして有為は無為に因り、変化は虚冲に因る。それゆえ荘生は「天地と我とは並びに生まれ、万物と我とは同根である」と言い、老子は「出づるところを同じくして名を異にする」と言い、またそれを「衆妙の門」と言う。それゆえもし体の観点から言えば、太易の理を示そうとしたのである。あるいは変化を象としたのは、無象の象を明らかにしようとしたからである。ただ体用は表裏であるので、物事と道理ははかり知れ、理を議論するときは詞を設ければ、太易の理はそうしてはじめて現れるのである。繋辞伝上に「聖人の意は、見ることはできないのであろうか。聖人は象を立てて意を尽くした」と言う。そうであるならば聖人は象を設け、かりそめに乾坤と命名したのは、万象を選別し、(乾坤を選んで乾坤で)玄理を解き明かさせ、若くして拠り所を失ってしまった徒に本理に帰ることを知らしめようとしたからである。

 

【注釈】

[1] 全体的に「論曰」「論家曰」等の引用が、どこまでかかっているのか分からない部分が多い。

[2] 繋辞伝上「故神无方而易无體」

[3] 繋辞伝下「易之為書也不可遠、為道也屢遷、變動不居、周流六虛、上下无常、剛柔相易、不可為典要」。

[4]荘子』斉物篇「天地與我並生、而萬物與我爲一」。

[5]老子』第一章「此兩者、同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門」。

[6] 谷継明は「事易」を「體」の訛誤だとみるが、果たしてそうであるのか議論の余地はある。ここでは、ひとまず谷継明の説に従っておく。

[7] 「太易」は、『易緯乾鑿度』に「故曰、有太易、有太初、有太始、有太素。太易者、未見氣。太初者、氣之始。太始者、形之始。太素者、質之始」とあり、気さえ現れていない原初に位置づけられている。『講周易論家義疏』の「太易」も、万物の本源という意味だと思われる。「太易」という言葉は、『易』自体には見えないが、それに類する語として「太極」がある。しかし、ここにおいて「太易」と「太極」が一対一の関係であるのかは判然としない。先に挙げた『易緯乾鑿度』とほぼ同文が『列子』天瑞篇に見える。これは、『列子』側が『易緯乾鑿度』の文を剽窃したのだと言われている。『講周易論家義疏』の「太易」は、『易緯乾鑿度』に依拠したのか、それとも『列子』か、はたまた別の書物か、という問題が残っている。

[8] 乾・文言「知終終之、可以存義也」章の『義記』に「夫物有其宗、事有其體、故言理則有應理則有應之事、言事即有造事之理。事理融通无㝵」とあることからここの「事理」も現象としての事物とその本体としての理を指すものと考えられる。「格量」は推し量る意であり、仏典疏でよく用いられる。

[9] この一文の言いたいことは、体と用は表裏一体であるので、その体(本体)を知れば、その用(はたらき)も知ることができ、その逆もまた然りということであろう。「太易の理」は、視れども見えず、聴けども聞けず、循えども従えず、直接窺い知ることはできないが、その用(はたらき)を説明すれば、その体(本体)である「太易の理」も現われてくるということを言っているのだと思われる。

[10] 繋辞伝上「子曰、書不盡言、言不盡意。然則聖人之意、其不可見乎。子曰、聖人立象以盡意、設卦以盡情偽、繫辭以盡其言、變而通之以盡利、鼓之舞之以盡神」。

[11]荘子』斉物篇「予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪」。「弱喪」とは、郭注によれば、若くして住処を失ったものを言う。

 

2021/11/06:改訂

『日知録』易篇訳「凡易之情」

凡易之情

 

【原文】

愛惡相攻、遠近相取、情僞相感、人心之至變也。於何知之。以其辭知之。「將叛者其辭慙、中心疑者其辭枝。吉人之辭寡、躁人之辭多。誣善之人其辭游、失其守者其辭屈」。「聽其言也、觀其眸子、人焉廋哉」。是以聖人設卦、以盡情僞。夫誠於中、必形於外、君子之所以知人也。百物而爲之備、使民知神姦、先王之所以鑄鼎也。故曰「作『易』者、其有憂患乎」。周身之防、御物之智、其全於是矣。

【日本語訳】

愛憎がせめぎ合い、遠近が取り合い、真情と虚偽が感じ合うのは、人心のまことの変化である。何においてこのことを知るか。その言葉によって知れる。(繋辞伝に)「まさに叛こうとする者はその言葉には恥じらいが生じ、心中で疑念を抱く者はその言葉にはつじつまが合わないところが出てくる。りっぱな人の言葉は少ないが、軽率な人の言葉は多い。善人を装う人の言葉はうわついたものになり、心のよりどころを失ってしまった者の言葉は屈折している」。(『孟子』に)「その言葉を聞き、その瞳を見れば、人はどうして心の中を隠しきれようか」とある。そのことから聖人は卦を設けて、物事の真情や虚偽を表し尽くしたである。心の中を誠にして、必ず外面を形づくるのは、君子が人というものを知っているからである。鬼神百物の文様を彫って災厄に備え、民に神霊や姦怪を知らしめたのは、先王が鼎を鋳した所以である。それゆえ〔繋辞伝に〕「『易』を作る者は、憂患があったのであろうか」とあるのである。身の周りのことを慮り憂患を防ぐこと、物事を制御するための知恵、それはここに完全に備わっている。

 

『日知録』易篇訳「困德之辨也」

困德之辨也

〔要旨〕

困難な状況にあって、その人の徳が現れるのである。「困は德の辨なり」とは、そのことを述べたものである。

 

〔原文〕

「内文明而外柔順」、其文王之困而亨者乎。「不怨天、不尤人、下學而上逹」、其孔子之困而亨者乎。故在陳之厄、絃歌之志、顔淵知之、而子路・子貢之徒未足以逹此也。故曰「困德之辨也」。

 

〔日本語訳〕

「文明を内に秘めて従順な態度を外に示し」たのは、文王が困難に遇って到達した境地であろうか。「天を怨まず、人を咎めず、手近なところから学び始めて、次第に進歩向上していく」とは、孔子が困難に遇って到達した境地であろうか。それゆえ(孔子が)陳での災厄にあっても、琴を弾き歌を誦しようとする志は、顔淵は理解していたが、子路や子貢といった弟子たちはいまだその境地には達していなかった。それゆえ「困は徳の弁別」とされるのである。

 

〔解説〕

「在陳之厄」とは、『史記孔子世家などにみえる孔子一行が陳の国で困窮した説話を指す。孔子一行は陳・蔡の発した役夫に囲われ、食糧に窮した。その際でも、孔子は詩を口ずさみ、琴を弾き、泰然としていた。子路や子貢は憤りをみせたが、顏淵だけ孔子の志を理解していた。

 

『日知録』易篇訳「過此以往未之或知也」

過此以往未之或知也

 

【原文】

人之爲學、亦有病於憧憧往來者、故天下之不助苖長者寡矣。「過此以往、未之或知也。「居之安、則資之深。資之深、則取之左右逢其原」。

 

【日本語訳】

人には学んでも、心が定まらず右往左往することを憂える者がいる。それゆえ天下には〔不必要に〕苗を助けて成長させようとしない者は少ない。〔咸の九四爻辞の〕「これを過ぎて往くのは、もはや知ることはできない」とは、〔『孟子』にみえる〕「道に安住すれば、物事の本質を捉えることが深くなり、物事の本質を捉えることが深くなれば、どんな事柄でもその本質を捉えその根源にふれてくる」境地に至ったことを言ったものである。

 

【解説】

「天下之不助苖長者」とは、『孟子』公孫丑篇上にみえる「助長」の説話。「居之安、則資之深。資之深、則取之左右逢其原」は、『孟子』離婁篇下の言葉。

 

『日知録』易篇訳「垂衣裳而天下治」

垂衣裳而天下治

〔要旨〕

「衣裳を垂らして天下が治まる」とは、質朴さを変化させてきらびやかな文化となし、その変質に通して民を正しくさせるということである。

 

〔原文〕

「垂衣裳而天下治」、變質而之文也。自黃帝・堯・舜始也、故於此有通變宜民之論。

 

〔日本語訳〕

〔繋辞伝に〕「衣裳を垂らして天下が治まる」というのは、質朴さを変化させてきらびやかな文化に赴いたということである。このことは、黄帝・堯・舜から始まったことである。それゆえここ〔繋辞伝〕において変質を通して民を正しくさせるという論がみえるのである。