半知録

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『日知録』易篇訳「朱子周易本義」⑤

【要旨】

経と伝とが渾然一体となる過程を論じ、今の『易』の乾卦の構成が費直が雑えた形で、坤卦以下の構成が鄭玄が連ねた形だと推す。

 

【原文】

朱子「記嵩山晁氏卦爻彖象説」謂「古經始變於費氏、而卒大亂於王弼」、此據孔氏『正義』曰、「夫子所作象辭、元在六爻經辭之後、以自卑退、不敢干亂先聖正經之辭。王輔嗣之意、以爲象者本釋經文、宜相附近、其義易了、故分爻之象辭、各附其當爻下、如杜元凱注『左傳』、分經之年與傳相附」、故謂連合經傳始於輔嗣、不知其實本於康成也。『魏志』髙貴郷公幸太學、問博士淳于俊曰、「孔子作彖・象、鄭玄作注、其釋經義一也。今彖・象不與經文相連、而注連之何也」。俊對曰、「鄭玄合彖・象於經者、欲使學者尋省易了也」。帝曰、「若合之於學誠便、則孔子曷爲不合以了學者乎」。俊對曰、「孔子恐其與文王相亂、是以不合。此聖人以不合爲謙」。帝曰、「若聖人以不合爲謙、則鄭玄何獨不謙邪」。俊對曰、「古義弘深、聖問奥遠、非臣所能詳盡」。是則康成之書已先合之不自輔嗣始矣。乃『漢書』儒林傳云、「費直治易無章句、徒以彖象繫辭文言解説上下經」、則以傳附經、又不自康成始。朱子「記晁氏説」謂初亂古制時猶若今之乾卦、蓋自坤以下皆依此、後人又散之各爻之下、而獨存乾一卦、以見舊本相傳之樣式耳。愚嘗以其説推之、今乾卦「彖曰」爲一條、「象曰」爲一條、疑此費直所附之元本也。坤卦以小象散於各爻之下、其爲「象曰」者八、餘卦則爲「象曰」者七、此鄭玄所連、髙貴郷公所見之本也。

  *「以」、原抄本は「本」に作る。

 

【日本語訳】

朱子の「記嵩山晁氏卦爻彖象説」に「古経は初めて費直に変えられ、遂に王弼によって大いに乱された」と言い、また孔氏の『正義』に依拠して、「夫子の作るところの象辞は、本来は六爻の経辞の後にあったのだが、自ら卑しむことをもって退き、あえて先聖の正経の辞を乱すことはしなかった。王輔嗣の意図は、象辞は本来、経文を解釈するもので、是非とも近くに附すべきで、そうして経文の義が了解しやすくなると考えた。それゆえ爻の象辞を分割してそれぞれ当該の爻の下に附した。それは、杜元凱が『左伝』に注釈して、経の年と伝とを分けてともに附したようなものである」と述べている。それゆえ経・伝を連ねて合したのは王弼に始まるとしたが、その実は鄭玄にもとづくことを知らないのである。『三国志』魏書に次のような問答がある。髙貴郷公が太学行幸し、博士の淳于俊に下問して言う、「孔子は彖辞・象辞を作り、鄭玄はその注を作り、その経の意義を解釈している点では一である。今、彖辞・象辞は経文とあい連ねていないが、鄭玄の注では連ねているのはどういうことか」と。淳于俊はそれに答えて、「鄭玄は彖辞・象辞を経文に合したのは、学ぶ者に探す手間を省き了解しやすくさせるためです」と言った。帝は「もし彖辞・象辞を経文に合したことが学ぶ者にとって本当に便利であるならば、孔子はどうして合して学ぶ者に了解しやすいようにしなかったのか」と問うた。淳于俊は、「孔子は文王の辞と混乱することを恐れて、合しなかったのでしょう。これは、聖人が合しないことをもって謙譲を表したものでございます」と答えた。帝は、「もし聖人が合しないことをもって謙譲を表したのであれば、鄭玄はどうしてひとり謙譲しなかったのか」と問うた。淳于俊は、「古義は広くて深く、陛下の問いは奥深く遠大であります。わたくし臣が詳しく論じ尽くすことはできないところでございます」と答えた。これは、鄭玄の書がすでに先に彖辞・象辞を経に合しており、王弼より始まらないことを示している。『漢書』儒林伝に「費直は『易』を治めて章句はなく、ただ彖伝・象伝・繋辞伝・文言伝といった十翼をもって上下経を解説した」とあれば、伝を経に附したのは、また鄭玄より始まらない。朱子の「記嵩山晁氏」に「初めて古い形を乱された時は、なお今の乾卦(卦辞・爻辞・彖伝・象伝の順)のようであった」と述べており、思うに坤より以下もみなこの形式に依っていたが、後人がまた象伝を各爻の下に散りばめてしまい、ひとり乾の一卦だけが存していて、旧本があい伝わってきた様式を表しているのみである。愚生は、かつてその説を推して、今の乾卦の「彖曰」を一条とし、「象曰」を一条とするのは、費直が附した元本であると疑ったことがある。坤卦は小象を各爻の下に散りばめ、「象曰」とする箇所は八、その他の卦は「象曰」とする箇所は七で、これは鄭玄が連ねたところ、髙貴郷公が見たところの本ではなかろうか。

 

【解説】

 この段落は、朱熹の「記嵩山晁氏卦爻彖象説」(『晦庵先生朱文公文集』巻六六所収)に依って議論を展開している。

 今の『易経』は、基本的には、卦辞の次に彖伝、各爻辞の次に象伝が置かれる。しかし、乾卦だけは、卦辞と爻辞を列挙した後に、彖伝そして象伝を配置している。顧炎武は、それは前漢末の人である費直が経と伝とを織り交ぜたときの旧態であったと疑ったのである。

 実は、費直が経と伝とを雑えたとする説は、それほど根拠があるものではなく、それを主張し始めたのが、管見の及ぶ限り、北宋の欧陽脩である(『欧陽文忠公文集』巻六五・居士外集巻第一五「伝易図序」)。それは、費直は彖伝・象伝・文言伝等をもって『易』を解したからには、それらを対応する箇所に分配したはずである、といった憶測にすぎない。