半知録

-中国思想に関することがらを発信するブログ-

『講周易疏論家義疏』釋讀(三)

【原文】

事爲譬武王伐紂之象[1]。雖有兵革之資、无異禅譲之理。故關應而言、直是「飛龍在天」。據感而秤[稱]、普是「利見大人」者也[2]。天時爲配、位於申、在七月、夷則之律也[3]。陽正法度、陰氣使正。呂則南呂、南任也、陰氣任成諸物也[4]。位於酉、在八月、是坤六五之爻也[5]

 

【日本語訳】

〔乾九五の爻辞の〕事は武王が紂を討伐したことを譬えた象徴である。兵革の助けがあったとはいえ、禅譲の道理と異なることはない。それゆえ応に関して言えば、ただ「飛龍天に在り」ということである。感に拠って言えば、あまねく「大人を見るに利ある」ことである。天時で配せば、〔九五は〕申に位し、七月に在り、夷則の律に当たる。〔夷則は〕陽は法度を正し、陰気が正しくさせるという意味である。呂は南呂、南は任の意味である。陰気が諸物を任せ成るということである。酉に位し、八月に在るのは、坤六五の爻である。

 

【注釈】

[1]周易集解』乾九五爻辞引く干宝注に「陽在九五、三月之時、自夬來也。五在天位、故曰飛龍。此武王克紂正位之爻也。聖功既就、萬物既睹、故曰利見大人矣」とある。乾の九五は武王が紂を討伐したことを表したのだとする説は、晋の干宝の易注にすでに見えるが、干宝の説に依拠したと言えるのかは疑問である

[2] なぜここで「感」「応」のことが持ち出されているのかと言えば、文言伝に「九五曰、飛龍在天、利見大人、何謂也。子曰、同聲相應、同氣相求、水流濕、火就燥、雲從龍、風從虎、聖人作而萬物覩。本乎天者親上、本乎地者親下、則各從其類也」とあるからである。「応」を「飛龍在天」に、「感」を「利見大人」に対応させるのは、独特である。しかし、ここで「応」と「感」とにどういった意味の違いを持たせているのか詳らかでない。『周易正義』では、「感は動なり。応は報なり。皆な先ずる者を感と為し、後るる者を応と為す」としている。

[3] この乾坤十二爻と十二月および十二律配当は、複数の説がある。例えば、鄭玄は、黄鍾を乾の初九とし、黄鐘を下生した林鐘を坤の初六とし、下生・上生を繰り返し、上生して得られる音律を乾爻に、下生して得られる音律を坤爻に配当していく。すると、乾の初九は黄鍾で十一月子、九二は太蔟で正月寅、九三は姑洗で三月辰、九四は蕤賓で五月午、九五は夷則で七月申、上九は無射で九月戌となる。一方、坤の初六は林鍾で六月未、六二は南呂で八月酉、六三は応鍾で十月亥、六四は大呂で十二月丑、六五は夾鍾で二月卯、上六は中呂で四月巳となる。この鄭玄説に則れば、乾の九五は「申に位し、七月に在り、夷則の律」である。しかし、これらの乾坤十二爻の十二律配当は、鄭玄の独創ではなく、『漢書』律暦志に載せられている劉歆の三統暦にみえていることではある。下文は、ほぼ『漢書』律暦志に依拠していることからすると、ここも鄭玄説に従ったというより『漢書』律暦志に依拠したとみたほうがよい。

[4]漢書』律暦志上「夷則、則、法也。言陽氣正法度、而使陰氣夷、當傷之物也。位於申、在七月。南呂、南、任也。言陰氣旅助夷則、任成萬物也」。

[5] 鄭玄の爻辰説では、坤の六五は夾鍾で二月卯に当たる。また『漢書』律暦志に「六月、坤之初六」とあり、これを基準に配当していってもうまく六五が八月酉とはならない。下文で「位亥、十月、是上六之爻也」とあることから推せば、坤の初六は十二月丑、六二は二月卯、六三は四月巳、六四は六月未、六五は八月酉、上六は十月亥と配当していたことが知れる。この配当では、十一月が乾の初九、次の十二月が坤の初六、正月は乾の九二、二月は坤の六二というように、乾坤の爻が交互に配当され、ともに順に爻位が昇っていく整った形となっている。ここの文は、ほとんど『漢書』律暦志に則りながらも、坤の十二月配当だけは採っていない。坤の爻を十二月丑から配当していくやり方は、管見の及ぶ限り、ここにしか見えない。これが誰の説であるか非常に興味があるが、不明である。『講周易疏論家義記』の性質から考えれば、南朝の学者の説だったと推定される。