半知録

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『日知録』易篇訳「不耕穫不菑畬」

不耕穫不菑畬

〔要旨〕

无妄の六二爻辞に「不耕獲、不菑畬」とあるのは、耕作かつ開墾は、前人がすでに行ったことからである。その象伝に「不耕獲、未富也」とあるのは、前人が行ったことに依って自分が成し遂げたことは多くないからである。

 

〔原文〕 

楊氏曰、【『誠齋易伝』。】「初九動之始、六二動之繼、是故初耕之、二穫之、初菑之、二畬之」。天下無不耕而穫、不菑而畬者。其曰「不耕」「不菑」、則耕且菑、前人之所己為也。昔者周公「毖殷頑民、遷於洛邑、密邇王室、既歷三紀、世變風移」。而康王作畢命之書曰、「惟周公克慎厥始、惟君陳克和厥中、惟公克成厥終」。是故有周之治、垂拱仰成而無所事矣。「周監於二代、郁郁乎文哉」、而孔子之聖但曰「述而不作、信而好古」、又曰「文武之道未墜於地、在人」。是故六經之業、集羣聖之大成、而無所刱矣。雖然、使有始之作之者、而無終之述之者、是耕而弗穫、菑而弗畬也、其功爲弗竟矣。六二之柔順中正、是能穫能畬者也、故「利有攸往」也。「未富」者、因前人之爲而不自多也。猶「不富以其鄰」之意。

 

〔日本語訳〕

楊万里は、【『誠斎易伝』である。】「初九は動の始まりであり、六二は動の続きである。そのことから、初で耕作し、二で収穫し、初で開墾し、二で肥沃な耕作地となる」と述べる。この世の中で耕さずして収穫し、開墾しなくて肥沃な耕作地となることはない。その「耕さず」「菑さざる」と言うのは、耕作かつ開墾は、前人がすでに行ったことからである。むかし周公は「殷の頑迷な民を慎重に扱って、洛陽に移らせ、王室の近くにおき、それから三十六年を経て、世の中は変わり習俗は改まった」。そして康王は畢命の書を作って、「周公はよくその始まりを慎重に治め、次に君陳はよく中期を調和的に治め、今度は公はその終わりを全うするようにせよ」と述べた。そのことから周王朝の治世では、人民は垂拱して仰ぎみ仕えないものはいないという状態であった。〔孔子は〕「周王朝は夏と殷の二代を観察参考にした。咲いた花が匂いたつように盛大で華麗な文化なことよ」とし、しかも聖人である孔子はただ「叙述するだけ創作せず、信じて古を好む」と言い、また「文王・武王の道はいまだ滅びないで、いまも人々に宿っています」とも述べている。そのことから、六経の業績は、聖人が作り上げた事柄を集積し、しかもそこには創作がないということである。そうとはいえ、あることを始めて創作する者をいさせようとし、これを終わらせてただ叙述する者をいなくさせようとするのは、耕しても収穫せず、開墾しても肥沃な耕作地にはしないようなもので、その功労は報われることはない。六二が柔順で中正であるので、耕すことができ、肥沃な耕作地とすることができる。それゆえ「利があって赴くところがある」とするのである。「いまだ富まない」とするのは、前人が行ったことに依って自分が成し遂げたことは多くないからである。それは、〔その象伝の〕「自分だけが富とせずに隣人とともに分かち合う」という意のようにである。

 

〔解説〕

「菑畬」とは、『爾雅』釈地に「田、一歲曰菑、二歲曰新田、三歲曰畬」とあり、「菑」は一年目の田すなわち新田、「畬」は三年目の田すなわち肥沃な耕作地を意味する。 

 

『日知録』易篇訳「不遠復」

不遠復

〔要旨〕

復の初九は、動くことの萌芽である。それ以前は、喜怒哀楽といった感情はいまだ現れていない。それゆえ「復において天地の心が見られる」とあるのである。顏回は中庸であろうとし、それを復卦に選び求めた。そうして八つ当たりをせず、過ちを繰り返さない境地に至ったのである。それは、「復は弱小の萌芽状態にあって物事を弁別する」とされるからである。

 

〔原文〕 

復之初九、動之初也。自此以前、喜怒哀樂之未發也、至一陽之生而動矣、故曰「復其見天地之心乎」。顏子體此、故「有不善未嘗不知、知之未嘗復行」、此愼獨之學也。「回之爲人也、擇乎中庸」、夫亦擇之於斯而已。是以「不遷怒、不貳過」。其在凡人、則復之初九、「日夜之所息、平旦之氣、其好惡與人相近也者幾希」。苟其知之、則擴而充之矣、故曰「復、小而辨於物」。

 

〔日本語訳〕

 

復の初九は、動きの初期である。これより以前は、喜怒哀楽といった感情はいまだ発せられず、〔初爻に〕一陽が生ずるに至って〔感情が〕動く。それゆえ「復において天地の心が見られる」と言うのである。顔回はこれを体得していたので、「自分によくない点があればいまだかつて気づかなかったことはなく、それに気づけばいまだかつて再び行うことはなかった」、これが慎独の学というものだ。顔回という人は、中庸を選びもとめ、またそれを復卦に選び求めた。そうして八つ当たりをせず、過ちを繰り返さない境地に至ったのである。凡人であれば、復の初九は、「日夜生長するところ、すなわち平旦の気という夜明け方の清らかな気分があれども、好悪が人と近い者はほとんど稀である」という状態である。もしそのことを知っていたならば、拡大して充たそうとするだろう。それゆえ「復は弱小の萌芽状態にあって物事を弁別する」とされるのである。

 

〔解説〕

 復卦は、初爻のみ陽爻で、残りは陰爻である。陽が初めて初爻に現れた卦形をしているので、「動の初め」とする。復卦の初九爻辞と孔子の高弟である顔回が結びつけられているのは、繋辞伝に「子曰、顏氏之子、其殆庶幾乎。有不善未嘗不知、知之未嘗復行也。易曰、不遠復、无祇悔、元吉」とあるからである。

 

『日知録』易篇訳「童觀」

童觀

〔要旨〕

童児は、師の教えを受けなければ、何事も完全には習得できない。それでも、観の初六に「童観、小人咎无し」とあるのは、大人には大人の道、小人には小人の道があるからである。「君子吝」ともあるのは、君子が小人の道を行うのは恥ずべきことであるからである。

 

〔原文〕

其在政敎、則不能「是訓是行、以近天子之光」、而所司者籩豆之事。其在學術、則不能「知類通達」、以幾大學之道、而所習者佔畢之文。「樂師辨乎聲詩、故北面而弦。宗祝辨乎宗廟之禮、故後尸。商祝辨乎喪禮、故後主人」。小人則无咎也、「有大人之事、有小人之事」、「雖小道、必有可觀者焉。致遠恐泥」、故君子爲之則吝也。

 

 〔日本語訳〕

童児が〕政教にあれば、「よく順いよく行動し、天子の光明に近づく」ことはできず、司るところはせいぜい祭祀の事柄ぐらいである。学術にあれば、「類を熟知して道理に通じる」ことはできず、大学の道に進もうと願うが、学習したところはなまかじりである。「楽人は歌曲・歌詞をただす役であるから、北面して楽器を鳴らし、宗人・大祝は宗廟の礼を助けるものであるから、形代のうしろに付き添い、商祝は喪礼を助けるものであるから、主人のうしろに付き従う」〔童児はそのような存在にしかなれない〕。〔そうであっても〕小人には咎がないとされるのは、「大人には大人の仕事があり、小人には小人の仕事がある」、「小人の道にも、かならず観るべきところはあるが、遠くに行こうとするには難渋する恐れがある」からである。それゆえ君子がこれを行ったならば、〔観初六の爻辞に「君子は吝」とあるように〕恥ずべきこととされるのである。

 

『日知録』易篇訳「成有渝无咎」

成有渝无咎

〔要旨〕

豫上六の爻辞に「成れども渝ふる有れば、咎无し」とあるのは、人は過ちを犯しても初めから改めることができず、その過ちを反省しないことを知らしめるためである。

 

〔原文〕

昔穆王欲肆其心、周行天下、將皆必有車轍馬迹焉、祭公謀父作祈招之詩、以止王心、王是以獲殁於祗宮。傳曰、「人誰無過、過而能改、善莫大焉」。聖人慮人之有過不能改之於初、且將遂其非而不反也、敎之以「成有渝无咎」。雖其漸染之深、放肆之久、而惕然自省、猶可以不至於敗亡。以視夫「迷復之凶」、不可同年而論矣、故曰「惟狂克念作聖」。

 

〔日本語訳〕

昔、周の穆王がほしいままに天下を周遊し、至るところに車轍・馬迹の跡を残そうとしたとき、祭公謀父は『祈招』の詩を作って王の心を引き止め、その結果、王は無事に祗宮で死ぬことができた。『春秋左氏伝』には「人は誰にも過ちがあります。過っても改められれば、たいへん立派なことなのです」とある。聖人は、人が過ちを犯してはじめから改めることができず、その過ちをおしすすめ反省しないことに思いめぐらし、〔豫の上六の爻辞で〕「成ったことであっても悔い改めれば、咎はない」としてこのことを知らしめたのである。しだいに染まっていくことの根深さ、勝手気ままにふるまうことの長きにおよぶとはいえ、注意深く慎重に自省したならば、やはり敗亡という結果までには至らない。〔軍隊を派遣するも、大敗し、国君にまで災いが及んでしまう〕「復に迷うの凶」と較べれば、年を同じくして論じ尽くすことのできないほどの相違がある。それゆえ〔『尚書』に〕「狂人でもよく思いをめぐらせば聖人となる」とあるのである。

 

 

『日知録』易篇訳「自邑告命」

自邑告命

〔要旨〕

邑とは、人主が居る場所である。『易』で言う「邑」は、すべて内政のことに関係している。

 

〔原文〕

人主所居謂之邑。『詩』曰「商邑翼翼、四方之極」、『書』曰「惟尹躬先見於西邑夏」、曰「惟臣附於大邑周」、曰「作新大邑於東國洛」、曰「肆予敢求爾於天邑商」【武王之妃謂之邑姜。】、『白虎通』曰、「夏曰夏邑、商曰商邑、周曰京師」、是也【『周官』始以四井爲邑。】。泰之上六、政教陵夷之後、一人僅亦守府、而號令不出於國門、於是焉而用師、則不可。君子処此、當守正以俟時而已。桓王不知此也、故一用師、而祝聃之矢遂中王肩。唐昭宗不知此也、故一用師、而邠岐之兵直犯闕下。然則保泰者、可不豫爲之計哉。

『易』之言「邑」者、皆内治之事。夬曰「告自邑」、如康王之命畢公、「彰善癉惡、樹之風聲」者也。晉之上九曰「維用伐邑」、如王國之大夫、「大車檻檻、毳衣如菼」。國人畏之而不敢奔者也。其爲自治則同、皆聖人之所取也【比之九五「邑人不誡」、是亦内治修而遠人服之意。】。

 

 〔日本語訳〕

人主の居るところを邑と言う。『詩経』に「殷の邑は礼俗がよく整っていて盛大であり、四方の民はこれに倣う」とあり、『尚書』には「尹の身は、西邑の夏に見えた」、「大邑周に帰服した」、「新しく大邑を東国の洛水に造ろうとした」、「それゆえわたしは汝らを大邑の商に求めたのだ」とあり、【武王の妃を邑姜と言う。】『白虎通』には、「夏〔の首都〕は夏邑と呼ばれ、商は商邑と呼ばれ、周は京師と呼ばれる」とあるのが、それである。【『周官』において始めて四井を邑と〔単なる土地の区分と〕なされた。】泰の上六は、政教が次第に衰えていった後であり、ただ一人だけで内府を守り、号令だけを出して国門から出でず、この状態で軍を率いれば、よい結果にはならない。君子はこの状況にあって、中正を守ってしかるべき時を待つべきである。周の桓王はこのことを理解していなかった。それゆえひとたび軍を用いて、〔反撃に遭って〕祝聃の矢が桓王の肩にあたる結果となってしまった。唐の昭宗もこのことを理解していなかった。それゆえひとたび軍を用いて、邠岐の兵が天子の御前を犯す結果となってしまった。そうであるならば泰安を保とうとする者は、事前に計画を練ねらないでよいことがあろうか。

『易』で言う「邑」とは、すべて内治のことである。夬に「邑から告げる」と言うのは康王が畢公に「善をなす者を明らかにし悪をなす者を困らせ、善風を立て善声を揚げよ」と命じたようなものである。晋の上九に「邑を討伐する」と言うのは、王国の大夫が、「大夫の乗った車がからからと音を立てて駆け巡る、大夫の服は萩の芽のように青色が映えている」と、国人はこれを恐れて、あえて逃げ出さなかったようなものである。みずから〔邑を〕治めて〔人々を〕従わせるのは、聖人が採用するところである。【比の九五に「邑の人々が警戒しない」とあるのも、また国内の政治が治まって遠方の人々がこれに服するという意味である。】

 

〔解説〕

 泰上六の爻辞「城復于隍、勿用師。自邑告命、貞吝」に対する解釈である。この解釈の特徴は、 人主が居る集落を「邑」と言うのだとすることである。「『易』で言う「邑」とは、すべて内治のことである」は、顧炎武の独自解釈ではなく、晋の上九爻辞の『周易程氏伝』に「伐其居邑者、治内也。言伐邑謂内自治也」とあるように、程頤の説に従っている。

 

 

『日知録』易篇訳「武人爲於大君」

武人爲於大君

〔要旨〕

「武人為於大君」は、「武人は大君と為る」ではなく、「武人は大君と為れ」と読むべきだとする。履六三の武人は、才能はなくとも志は高く、行動に移そうとするが、成就しないので、履六三には「虎の尾を履み、人を咥ひ、凶」とある。ただ、武人が君主に尽くすあり方は、滅私奉公である。どうしてそれに咎があるだろうか。

 

〔原文〕

「武人爲於大君」、非武人爲大君也。如書「予欲宣力四方、汝爲」之「爲」。六三、才弱志剛、雖欲有爲、而不克濟。以之履虎、有咥人之凶也。惟武人之效力於其君、其濟則君之靈也、不濟則以死継之、是當勉爲之、而不可避耳、故「有斷脰決腹一瞑、而萬世不視、不知所益、以憂社稷者、莫敖大心是也」。【『戰國䇿』】「過渉之凶」、其何咎哉。

 

〔日本語訳〕

〔履六三の爻辞の〕「武人為於大君」は、武人が大君となるという意味ではない。『尚書』の「予は力を四方に及ぼしたい、汝ら群臣為せ」の〔命令・指示の〕「為せ」の意味である。六三は、才能はなくて志は強く持っており、行動に移そうとするが、成就させることはできない。このことから虎を踏んでしまい、喰われてしまう凶があるのである。ただ武人が力をその君に尽くすあり方は、事が成功すれば、わが君の威霊のおかげだとし、成功しなければ、死をもって償う。このことは勉めて行うべきことで、避けることはできない。それゆえ「首を断たれ腹を割かれ、ひとたび瞑目して永遠に目を開かず、自分の利益を考えないで、社稷のことを憂えたのは、莫敖の大心、その人である」とあるのである。【『戦国策』。】「過ぎて渉ることの凶」に、どうして咎があろう。

 

〔解説〕

 履六三の爻辞「武人為於大君」は、王弼は「人に武して大君と為る」、程頤・朱熹は「武人 大君に為る」と読んでいる。顧炎武は、程頤・朱熹の解釈に対し、新たな見解を示す。 

 顧炎武は、明王朝が滅亡し、清王朝が興隆するに際し、生涯、反清を貫き仕官することなく、明の遺臣として世を終えた人物である。その彼が「武人が力をその君に尽くすあり方は、事が成功すれば、わが君の威霊のおかげだとし、成功しなければ、死をもって償う。このことは勉めて行うべきことで、避けることはできない」と解釈したことは、考証学の範疇を超えた、彼自身の生き方・信念がそのように解釈させたと思えるのである。

 

『日知録』易篇訳「既雨既處」

既雨既處

〔要旨〕

『易』での陽が唱導して陰が従うという陰陽の義は、夫婦関係では成り立たない。小畜の爻辞がそれを表している。その爻辞では、とりわけ婦が夫を制し和ならざる状態の場合は言及するが、夫婦が正しく和している状態の場合は言及していない。

 

〔原文〕

陰陽之義莫著於夫婦、故爻辭以此言之。小畜之時求如任・姒之賢、二南之化、不可得矣。陰畜陽、婦制夫、其畜而不和、猶可言也。三之「反目」、隋文帝之於獨孤后也。既和而惟其所爲、不可言也。上之既雨、唐髙宗之於武后也。

*底本は「猶」に作るが、原抄本は「唐」に作る。原抄本に従う。

 

 

〔日本語訳〕

(陽が唱導して陰がそれに順う)陰陽の義は、夫婦においては現れることはない。それゆえ〔小畜の〕爻辞は、そのことを言ったものである。小畜の時に太任・太姒のような賢母、周公旦・召公奭のような聖人・賢人の教化を求めても、得ることはできない。〔小畜の六四の〕陰爻が〔上下の〕陽爻を養い、婦が夫を制御したならば、その養いは調和しないことは、やはり言う必要がある。〔小畜の〕九三の「反目」とは、〔婦が夫を制御した〕隋の文帝と独狐皇后との関係のようなものである。〔陰陽が〕すでに調和してその行うところは、言う必要はない。〔小畜の〕上九の「既に雨ふる」とは、〔婦に完全に権力を奪われた〕唐の高宗と武后の関係のようなものである。

 

〔解説〕

小畜䷈は、四爻が陰で、それ以外の爻は陽の卦である。顧炎武は、小畜を四爻の陰がそれ以外の陽爻を養っている卦だとみたのである。ただ、この解釈は、朱熹の『本義』の「上巽下乾、以陰畜陽、又卦唯六四一陰、上下五陽、皆爲所畜、故爲小畜」に則っている。