半知録

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『日知録』易篇訳「武人爲於大君」

武人爲於大君

〔要旨〕

「武人為於大君」は、「武人は大君と為る」ではなく、「武人は大君と為れ」と読むべきだとする。履六三の武人は、才能はなくとも志は高く、行動に移そうとするが、成就しないので、履六三には「虎の尾を履み、人を咥ひ、凶」とある。ただ、武人が君主に尽くすあり方は、滅私奉公である。どうしてそれに咎があるだろうか。

 

〔原文〕

「武人爲於大君」、非武人爲大君也。如書「予欲宣力四方、汝爲」之「爲」。六三、才弱志剛、雖欲有爲、而不克濟。以之履虎、有咥人之凶也。惟武人之效力於其君、其濟則君之靈也、不濟則以死継之、是當勉爲之、而不可避耳、故「有斷脰決腹一瞑、而萬世不視、不知所益、以憂社稷者、莫敖大心是也」。【『戰國䇿』】「過渉之凶」、其何咎哉。

 

〔日本語訳〕

〔履六三の爻辞の〕「武人為於大君」は、武人が大君となるという意味ではない。『尚書』の「予は力を四方に及ぼしたい、汝ら群臣為せ」の〔命令・指示の〕「為せ」の意味である。六三は、才能はなくて志は強く持っており、行動に移そうとするが、成就させることはできない。このことから虎を踏んでしまい、喰われてしまう凶があるのである。ただ武人が力をその君に尽くすあり方は、事が成功すれば、わが君の威霊のおかげだとし、成功しなければ、死をもって償う。このことは勉めて行うべきことで、避けることはできない。それゆえ「首を断たれ腹を割かれ、ひとたび瞑目して永遠に目を開かず、自分の利益を考えないで、社稷のことを憂えたのは、莫敖の大心、その人である」とあるのである。【『戦国策』。】「過ぎて渉ることの凶」に、どうして咎があろう。

 

〔解説〕

 履六三の爻辞「武人為於大君」は、王弼は「人に武して大君と為る」、程頤・朱熹は「武人 大君に為る」と読んでいる。顧炎武は、程頤・朱熹の解釈に対し、新たな見解を示す。 

 顧炎武は、明王朝が滅亡し、清王朝が興隆するに際し、生涯、反清を貫き仕官することなく、明の遺臣として世を終えた人物である。その彼が「武人が力をその君に尽くすあり方は、事が成功すれば、わが君の威霊のおかげだとし、成功しなければ、死をもって償う。このことは勉めて行うべきことで、避けることはできない」と解釈したことは、考証学の範疇を超えた、彼自身の生き方・信念がそのように解釈させたと思えるのである。