半知録

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慶応大蔵『論語義疏』巻六について

 

 『論語義疏』とは、中国南北朝時代南朝の梁(502年 - 557年)において編纂された、『論語』の「義疏」(注釈書)である。中国では宋代以降に散佚したが、江戸時代の儒者根本遜志が日本伝来の旧鈔本を底本に刊行したものが清代に逆輸入された。その著者は梁の国子助教、皇侃である。『梁書』巻四十二(皇侃列伝)によると、「三礼」「孝経」「論語」に最も通じていたとある。また、『五経正義』のひとつ『礼記正義』の多くの部分は皇侃『礼記義疏』の記述に依ると考えられている。

 

 さて、2020年9月10日に慶応義塾大学(以下、慶大)より発表された『論語義疏』巻六(現行本の巻五に相当)の写本(以下、「慶大本」)が斯界を騒がせておりますが、この写本が如何なる価値を有するのか、これを今回は中国思想史分野の院生的視点から検討していきたいと思っています。ただ、現在は一部かつ画像のみの公開のため検討できることはまだまだ限られてはおりますが、現時点での鄙見を述べておきたいと思います。

 

 まず、慶大より発表されました、「プレスリリース」および朝日新聞の報道によって、「慶大本」の注目点を箇条書きでご紹介しておきたいと思います。

 

 ①遣隋使・遣唐使等によってもたらされた、隋以前の写本である可能性が高いこと

 

 ②舶載されたのち、「慶大本」は日本国内に長く伝来しており、幕末以降所在不明であったものが見つけ出されたこと。

 

 ③もし「慶大本」が実に隋以前の写本であるならば、その「義疏」が生み出された、当時の原貌を留めているだけでなく、現在世に行われている敦煌本」(残本)・旧鈔本『論語義疏』の差異に関する議論について大いに裨益する所があること。

 

 現在わかることは、ざっと上記のとおりですが、今回、少しく深く掘り下げたいのは③の点についてです。と、その前に、先程から「義疏」…「義疏」…と何気なく述べてきましたが、初耳だ…という方が興味をもって見てくださることを前提に(願望に)「義疏」とは何かについて非常に簡単にまとめておきます。

 

 「義疏」とは中国南北朝時代に興った、「経」およびその古「注」を踏まえた上で、その「義」を新たに「疏」通させるために、著作された、言わば「経典」の再注釈書です。その発生の要因等については割愛しますが、皇侃『論語義疏』には多く仏教的影響や玄学的解釈が見えており(旧注の引用も多いが)、漢代の訓詁的注釈に加えて哲学的な議論や多角的視点が展開されることが特徴と言えます。なお、この「義疏」の注釈形式は唐『五経正義』に引き継がれ、言わば乱立していた「義疏」は『五経正義』の編纂によって統一および淘汰されることとなりました。

 

 では、続いて本題の方に移りたいと思います。③において「その原貌を留めている…」と述べましたが、「義疏」の形式について、ある人は「単疏本」(標記止)が、ある人は「経疏注疏」が、と議論百出ですが、未だはっきりとしません。ただ、繰り返しとなりますが、もし「慶大本」が隋以前のものであるならば、やはりそれが最も原貌に近いものと考えてよいでしょう。上記、慶大発表の「プレスリリース」記載の図版を見る限り、どうやら「経・疏・注・疏」の形式で構成されており、その「経」「注」ともに全文を掲げ、かつ「経」「注」「疏」ともに大字単行で記されているようです。これは同じく六朝期の書写に係るのではないかと目されている早稲田大学蔵『礼記子本疏義(ママ)』の形式と同じであり、ともに皇侃の著作であることに鑑みれば、その形式が皇侃「義疏」としての共通性と見ることもできます

 

 さて、次に現行本との関係についてですが、上記の両者ともに「慶大本」とは異なる形式を有しています。以下、大まかにまとめてみます。

 

敦煌本」:章ごとに「経」(大字)「注」(小字双行、省略多)を続けて掲げ、その下に「疏」(冒頭、小字双行、他大字単行、省略多)を置く。

 

「旧鈔本」:数十種類の異本があるものの、恐らく全て「経・疏・注・疏」の形式。ただ、「疏」は小字双行、かつ宋邢昺『論語注疏』、朱熹論語集注』からの書き入れが間々見られる旧鈔本も多くあり。

 

 形式面から見れば、似て非なるものではあるものの、「旧鈔本」の方が「慶大本」に近いと言えそうです。もし「慶大本」が皇侃疏の原貌であると考えるならば、現行「旧鈔本」はどこかの段階で「注疏薈本」(刊本)等の影響を受けて、現在の形式に改めたのでしょうが…これは後考を俟たねばなりません。

 

 かえって「敦煌本」の形式は全く異なるものの、今回の比較においてもっとも興味深い点において「敦煌本」と「慶大本」が一致するのですそれは篇に対する「疏」が附されていない点です。皇侃の注釈と言えば、「義例」「科段」といった、経文の前後、段落の前後の繋がりを非常に意識して注釈をつけることで有名です。ときには牽強付会と思われるほどにです。そんな彼が『論語』の各篇ごとに、どうしてこの篇はこの位置に、某篇の後ろに位置しているか…etcを解釈することはごく自然なことです。各「旧鈔本」の各篇の下にはやはり「所以次前者…」と言った具合にその篇のそこに位置する意味を時には無理をしてでも解釈しています。ただ、「慶大本」(郷党篇下)、「敦煌本」にはその篇疏は見えないのです。これは如何に解釈すべきなのでしょうか。『礼記正義』も各篇ごとに篇疏が附されていることから考えれば、「慶大本」がただ省略しただけ、或いは現在見ることのできる当該部分(郷党篇)だけがたまたま抜け落ちているだけかもしれませんが、もしこれがその本来の体例であったなら、皇侃『論語義疏』の篇疏は後世の仮託であった可能性も浮上します。ただ、これは完全に妄想の域をでませんので、院生の独り言程度に見ていただければ幸いです。ただ、再度、その各篇の篇疏に対して検討を加えることは無意味ではないかもしれません。

 

 長々と述べてきましたが、最後に「慶大本」が有する価値についてまとめておきたいと思います。

 

 論語義疏』にとどまらず当時の「義疏」の体例を窺うことができる。

 敦煌本」「旧鈔本」の成書過程および関係性について更に議論が深まることが期待される。

 篇疏の有無は思想史に関わる問題を孕む可能性がある。