半知録

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顧野王『符瑞図』の構成

 南朝の梁から陳にかけての人に顧野王(五一九年-五八一年)がいる。彼は、『玉篇』を編んだことでつとに有名である。そればかりではなく多数の書物を編纂しており、その中に『符瑞図』がある。『符瑞図』は、その名の通り、めでたいしるしである瑞祥について記した書物である。この書物はすでに逸しており、他の文献に引用された記述からしかその一端を知ることができない。ここで少し『符瑞図』の内容について考察してみたい。

 

 『符瑞図』の内容についての先駆的な研究に東野治之氏の論考がある1。東野氏は、『符瑞図』は各瑞祥の冒頭にその説明文たる地の文があり、これに『孝経援神契』や『孫氏瑞応図』などの直接引用の部分が続いていたと推定した。その論拠の一つとしたのが、南北朝時代に成立した『源氏物語』の注釈書『河海抄』に引用された『符瑞図』の文である。

木連理者、仁木也。〔見晋中興書。〕或異木同枝、旁出上、更還合也。孝経援神契云、徳至草木、則木連理。孫氏瑞王図曰、王者徳化洽八方合為一家、則草木連理。〔以上符瑞図〕

符瑞図云、比翼鳥者、名曰兼兼、〔見爾雅。〕一名蠻蠻。〔見山海経。〕其状如鳥一翼一目、其色青赤処、南方崇吉、金門之山、結胸国東、不比不翼。〔見山海経・爾雅。〕孫氏瑞王図曰、王者有孝徳明至。山海経曰、見則大水。(『河海抄』巻第一)

 

「以上符瑞図」の注記によって、少なくとも『孝経援神契』『孫氏瑞応図』が『符瑞図』に引用されていたことが知れる。「孝経援神契」は緯書の『孝経緯』の一篇である。「見爾雅」「見山海経」の注記が見えるが、これもまた『符瑞図』からの引用であったとする。

 

 東野氏の指摘は慧眼であった。南宋の図書目録である『中興館閣書目』に次のようにある。

 

符瑞図二巻。陳・顧野王撰。初世伝瑞応図一篇、云周公所製。魏晋間、孫氏・熊氏合之為三篇、所載叢舛。野王去其重複、益采図緯、起三代、止梁武帝大同中。凡四百八十二目、時有援据、以為注釈2。

以上の記述から、次のようなことが知れる。『符瑞図』は、「日月楊光」の瑞祥から始まること、孫氏および熊氏『瑞応図』をもとに、その重複を去り、図緯で増補していたこと、三代(夏・殷・周)から梁の武帝の大同年間(五三五年-五四六年)の記録に止まっていたこと、およそ四百八十二目で、援引典拠があれば注記していたこと、である。「図緯」とは、前漢末ごろに成立したとされる緯書のことである。「三代より起こし、梁の武帝大同中に止む」というのは、おそらく『宋書』符瑞志のような歴代の瑞祥出現の記録を挙げていたのだろう。「梁の武帝大同中に止む」というのであるから、『符瑞図』はそれに近いころに編纂された書物であったと推される。

 

 前に挙げた『符瑞図』の特徴を振り返ると、孫氏および熊氏『瑞応図』をもとに、その重複を去り、図緯で増補していたことがあった。『河海抄』の引文は、それと合致する。また援引典拠があれば注記するという特徴があった。『爾雅』釈鳥に「鶼鶼、比翼」、『山海経』西山経に「有鳥焉、其状如鳧、而一翼一目、相得乃飛、名曰蠻蠻」とあり、確かに地の文の典拠である。これも符合する。

 

 『続日本紀』にも『符瑞図』が数条ほど引かれている。

顧野王瑞応図曰、青馬白馬髪尾者、神馬也。孝経援神契曰、徳協道行政至山陵、則沢出神馬。(『続日本紀』巻二十九)

符瑞図曰、神馬者、河之精也。援神契曰、徳至山陵、則沢出神馬。(『続日本紀』巻十一)

顧野王瑞応図、白烏者、太陽之精也。孝経援神契曰、德至鳥獣、則白烏下。(『続日本紀』巻二十九)

 

以上のように、顧野王『符瑞図』の次に『孝経援神契』の引文が置かれていることが多い。東野氏も論じていることであるが、これも、『符瑞図』と『孝経援神契』が別々に引かれたというわけではなく、『孝経援神契』も含めて『符瑞図』の文と見なければならない。

 

 加えて、昌泰四年の革命勘文に『符瑞図』が次のように引かれている。

野王符瑞図云、老人星也。直孤星、北地有一大星。〔晋灼曰、□也。〕是為老人星。見則治平主寿。常以秋分、候之南郊〔見春秋元命苞。〕春秋運斗枢曰、機星得和平合、万民寿、則老人星臨国。〔宋均曰。斗徳応於人者也。〕文耀釣曰、老人星見則主安、不見則兵起。熊氏瑞応図曰、王者承天得理、則臨国。晋武帝時老人星見。太史令孟雄以言。元帝大興三年老人星見。四年又見3。

「野王符瑞図云」以降に、『春秋運斗枢』『春秋文耀釣』といった緯書、『熊氏瑞応図』の引用が付されている。上述の例から推せば、別々の引用と見るのではなく、『春秋運斗枢』『春秋文耀釣』『熊氏瑞応図』も含めて『符瑞図』からの引用と考えられる。「晋灼曰、□也」や「見春秋元命苞」といった注記もまた同様である。

 

 さらに興味深いのが、『諸道勘文 神鏡』に引かれる『符瑞図』の文である。

顧野王符瑞図曰、玉璽者、赤璧之流也。〔見晋中興書〕魏明帝太和元年、初営宗廟、掘地得玉璽、方一寸九分、其文曰天子羨思慈親、帝為之改容、以太牢告廟。〔見魏志〕呉武以帝軍於洛□、而甄官井上、旦有五色気、挙軍怪之、莫敢汲。得國璽、文曰受命天、壽永昌、方員四寸、文五龍、龍上一角缺。〔見江表伝〕

云々とある。以上は、歴代王朝における玉璽が出現した記録であり、それを他の文献にもとづき記載している。この他にも、『蜀志』『晋中興書』・臧榮緒『晋書』・沈梁『宋書』・蕃字『蹟斉(?)書4』『□〔判読不能〕記』といった書物からも抜き書きしている。『中興館閣書目』に記されていた『符瑞図』の特徴に、三代から梁の武帝の大同年間(五三五年-五四六年)の記録に止まっていたことがあったが、確かにその範囲内に収まっており、南斉の永元三年(五〇一年)のが最も新しい記録である。

 

『符瑞図』は日本にはやくから伝わっていた。『日本国見在書目録』に「符瑞図十」とあり、『続日本紀』に「謹検符瑞図」とあることから『符瑞図』を実見していたことは確かである。『続日本紀』や『河海抄』などに引かれる『符瑞図』は、孫引きではなく、直接、『符瑞図』から抜き書きしたとみて間違いない5。日本での『符瑞図』の引用は、その記述形式をそのまま反映しているとみてよいだろう。

 

  『符瑞図』は次のように記載されていたと推測される。まず瑞祥の解説が置かれ、次に『孝経援神契』といった緯書や『孫氏瑞応図』『熊氏瑞応図』の関連する記述が引かれていた。また典拠があれば注記をしていた。加えて、歴代王朝の瑞祥出現の記録を史書から抜き書きし付していた。

 

 最後に、今回利用した『諸道勘文 神鏡』について言及しておきたい。この書は、近年、宮内庁書陵部資料目録・画像公開システムから公開された書物である。中国研究にとって『諸道勘文 神鏡』が注目されるのが、佚書の引用がたぶんに含まれていることである。『春秋演孔図』といった緯書や『修文殿御覧』『玉璽記』などの引用が見られる。『諸道勘文 神鏡』を使った研究が行われはじめているが、もっと注目されてもよい書物だと思う。

 

1 東野治之「豊旗雲と祥瑞」、『遣唐使正倉院』(岩波書店、一九九二年)所収、初出は『万葉集研究』十一集、塙書店、一九八三年。

2 『玉海』巻二〇〇引く。

3 『群書類従』巻四百六十一引く。

4 『隋書』経籍志「宋大明起居注十五巻」の注記に見える「明帝在蕃注三巻」のことか。

5 日本における顧野王『符瑞図』の利用状況については、水口幹記「延喜治部式祥瑞条の成立過程」(『史観』一三七、一九九七年、後『日本古代漢籍受容の史的研究』、汲古書院、二〇〇五年)に詳しい。